「主人公の特徴だけで作品を特徴付けたつもりになれる言葉」の過ちと罠
先日、TwitterでこうしたポストがRTされてきたので、それについての話を少し。
「週刊少年ジャンプ」の編集方針は「友情、努力、勝利」から「運、血筋、才能」へ変化している(『反動世代』施光恒インタビューより)、ってそうなのか。ジャンプ読まないからよく分かんないけど。
— ばく (@kapibaku) August 17, 2013
このインタビューというのが別に漫画評論の話ということはなさそうだし、引用しながら「ジャンプ読んでないからよくわからない」と書いていますから、この発言主に思うことは特にありません。
問題は、これが800人以上の人にRTされるほど反響があり、肯定と批判のいずれかにせよ、「根本的な疑問」までは出ていないように思えたことでした。
ジャンプ漫画のキーワードと「負の神格化」
まずジャンプの編集方針という意味なら、元編集長の西村繁男さんは「最低どれかの要素を入れること」を伝えています。
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それがいつの間にか忘れられて「全部揃っているのが当たり前」と歪んで伝わり、負の神格化がされているのが問題を作っている原因のひとつ。今の連載作品も、どれか一個は入っていることでしょう。
つまり一作品のなかでキーワードを網羅する必要はなくて、『週刊少年ジャンプ』という「雑誌の誌面」のなかでキーワードが網羅されることが望まれているわけ。
ちなみに、このキーワードの起源はジャンプではないんですね。
ジャンプ初代編集長である長野規さんが『少年ブック』の編集長だった際の編集方針(この当時も「漫画づくり」ではなく「雑誌づくり」の方針だったことに注意)であり、ジャンプはそれを強力に継承した、とされています。
一番心あたたまることは‥‥友情
一番大切に思うことは‥‥努力
一番嬉しいことは‥‥勝利
この三つの言葉が突出して現れたのである。
長野は、この三つの言葉を『少年ブック』の編集方針にすえた。
(西村繁男『さらば わが青春の『少年ジャンプ』』第一章 苦難の月刊誌時代)
また西村さんは「この三つの言葉の意味する要素を必ず入れる、三つ全部入らなくても、一要素はなんとしても入れる」と編集方針を要約しており、キーワードをそのまま込めよとは教えていないことも窺えます。
キーワードを連想させる「要素」、最終的にキーワードに繋がる要素を表現すればいいのであって……。また、その幅広さがなければキーワードは「束縛」に変わり、呪われた「負の編集方針」へと陥るのは想像に難くないことです。
だから原理的に考えてみても、「友情・努力・勝利のキーワードを編集方針とする」というスローガンは、はじめから「そのキーワードに繋がる要素をいかに幅広く表現するか」という戦いだったとも言えるでしょう。
才能は「ある/ない」で語れない
どんな人間だろうと「才能を探す」「才能が見つかりやすい場所を探す」ことで日々を乗り切れるものだと自分は思います。
してみれば「あらゆる才能のない少年」というのは、よほどの恵まれない子どもだと言っていい。少なくとも「平凡な少年」「どこにでもいる普通の少年」といった穏やかな概念でくくれるような存在ではないでしょう。
そして、才能ある主人公への反動なのでしょうが「才能がない主人公」を求めようとする心理もまた異常です。
(先のポストへの反響としては、そうした「才能のない主人公だって描くべきだろう」という不満の声が多く含まれていた気がしました。)
さて、偏差値で測れるような才能の「低さ」を「才能がない」と呼ぶのなら、偏差値が高くなるように「世界を狭くしてもいい」のが漫画です。
例えば「今・ここ」で自分にしかできないことがあれば、どれだけショボくてもそれは「その時・その場所でかぎり最強と呼んで差し支えのない」主人公の資質となりますし、逆に「その程度の才能」を大袈裟に世界最強っぽく誇張するのも少年漫画です。
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少年漫画ではなく児童文学ですが、アーシュラ・K・ル=グウィンの『影との戦い』はだから、「最も偉大な魔法の力を持つ」とされるティーンエイジの少年を主役に据えつつも、そこで展開するのは
「自分の才能の使い所を誤ることで、恐るべき影を作り出してしまい、長く暗いトンネルをくぐり抜けなければならない」
……という、誰であれ「自分にも起こるかもしれない話」として読むことのできるだろう、普遍的テーマのお話です。
つまり『影との戦い』の主人公ゲドは、「世界最強に近いキャラクター」であると同時に、「今・ここという狭い世界では自分にしかできないことを与えられた私たち」の映し鏡として機能し、またそう読まれるように期待して書かれているのです。
「作品の主題」→「主人公の勝ち方」という錯誤
だから少年漫画で「主人公に比べれば格段に弱いけど、今・そこでは、その少年にしかできない小さな戦いがある」という脇役の活躍が描かれると、みんな燃えるでしょう。
あれは、そういうことなんです。
「世界で一番強いキャラの活躍」と「今・そこでだけ一番強いキャラの活躍」は少年漫画では同質のものなんです。
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- 具体例は言わず語りですが
脇役の少年キャラが、悪役の前で「お前は、お前がちっぽけな存在だと思って眼中にも入れてなかった僕なんかによって負けるんだ……」みたいなセリフを吐きながら勝機を掴み取ると、うおー少年漫画だーってテンション上がりますよね。
そして、そんな少年キャラが「作品の主人公」である必要はありませんし、それでいて読者は「名場面のひとつだ」と思ってシッカリ記憶する。
このように「脇役の活躍」が少年漫画のクライマックスを担うことを思えば、「運・血筋・才能」という言葉が実は「主人公の強さや勝ち方だけをキーワードにピックアップしている」という誤りにも気付けると思います。
何が悪いかをひとことで言えば、「友情・努力・勝利」と「主人公の強さ/勝ち方」はどこにも条件としての互換がない! ということです。
先のポストの内容が、騙そうとしているのはそこです。
友情・努力・勝利は、筆頭の「友情」からして「複数のキャラクターに跨るストーリー要素」ですし、努力はどのキャラクターが行ったとしても作品のテーマに繋がり、勝利はみんなで勝ち取り、喜びを分かち合えるものです。
つまり先のポストは、「作品の主題」を方向付けようとするジャンプの編集方針を、しれっとした顔で「主人公の特徴」レベルにすり替える詐術を行っているんです。
これに騙されてしまうと、話になりません。
元ジャンプ編集長の西村さんは先述の自著で「すべての漫画の主題は、この三つの言葉の意味する要素を必ず入れる」と記しています。
「運・血筋・才能」などの言葉を並べて印象付けようとしているのが「主人公の勝つ理由」だということは透けて見えるでしょう。
そういうことなら、運も血筋も才能も「勝利」に繋がる要素を細分化しただけであって、「漫画の主題」に関わるようなことは何ひとつ挙げていない、ということも解るはずです。
(そもそも、勝ち負けや優劣にこだわった言葉ばかり列挙している時点で、「勝利」の要素を強烈に意識していることを語るに落ちているようなものですが。)
友情・努力・勝利は「作品の主題を意味するキーワード」であって、「主人公の特徴」とは全然別のものです。
「ジャンプの編集方針の変化」を語る(騙る)のであれば、互換する条件のキーワードを挙げるべきでしょう。ジャンプ漫画を論じたいのならば最低限の話としてです。
主人公の特徴を並べただけで「編集方針」とするのなら、「ジャンプの編集方針は男・子供・人間にシフトしている」とでも言うのも同然のことであり、運も血筋も才能も伝統的に散見可能な特徴でしかなく、何も言っていないに等しいとさえ言えます。
そこに疑問を覚えず、騙されて受け入れてしまうこと。それが「言葉の罠」なんです。
主人公の特徴を挙げるだけで作品を語ったつもりになれる言葉
冒頭のポストにかぎらず、「あたかも物語とは主人公の活躍しか描かないものだと思っている」ような批評・感想は、以前から多く見掛けてきました。
それは「キャラクターが一人ではお話なんか作れない」というお話の基本を激しく軽んじた考え方のようで、残念な論じられ方です。
例えばジャンプ作品の前例では、『キャプテン翼』は主人公である翼が無敵の神童として描かれるほどに、「天才の翼に挑もうとするライバルたちの物語」へとシフトしていきます。
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「スポ根少年漫画の意図的なパロディ」として描かれた『YAWARA!』にしても、「絶対的な天才が大きな壁として立ちはだかることで励まされる凡人」を描くことで読者に身近さを与えていた漫画です。
才能に恵まれない花園くんや、柔道初心者の富士子さん、負け癖のついている本阿弥さやかが苦心奮闘する姿の方にこそ、「主人公の柔よりもむしろ共感できた」というのはとても平均的な読者の感想であるはずです。
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よく活躍してくれる脇役は、読者が勝手に「真の主人公」「裏の主人公」などと呼んで愛するようになります。
実のところ、作者が公式に「ダブル主人公」や「裏主人公」「準主人公」という設定にして描くこともあるのですから。
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いわゆる「ストーリーの作り方」の本などを見ても、敵やライバルやヒロインや親友や後援者といった、主人公ではないサブキャラクターがいなければ「お話などできない」ことは痛いほどよくわかるはずです。
いわんや、サブキャラクターの数が大量に増えがちなジャンプ漫画ならば……ですよ。
7日につき1話のペースで続く連載のなかでは、「サブキャラの主役回」が高い頻度で現れるのが「週刊少年漫画」のストーリーというものです。
主人公だけで作品を特徴付けられると考えられる人は、いったい漫画や小説をなんだと思っているのでしょう。
社長を見ただけで企業の強さを理解したり、大統領を見ただけで国家の力を理解したりする思考回路なんでしょうか。
そういうタイプの人ほど率先して作品の話題をし(単純に理解しているから単純に語りやすいのでしょう)、「その作品を知らない人」に貧しいイメージだけを与えようとするから困ったものです。
少年ジャンプを読んでいない人に対して、意味もなく「主人公の特徴」だけで今のジャンプを説明するように、です。
解説と解決を担わされたキャラクター
小説……小説に次いで漫画は、文章の比重を高くできる分、「物語解説装置」としての主人公役を「世界に深く関わる重要人物」に背負わせる傾向があると思います。
その作品世界のことをよく知っているか、あるいは「よく知らなくても重要な場所にどんどん踏み込める」人物の視点で描いた方が、お話の「解説」も「解決」もスムーズに行いやすいからでしょう。
つまり、創作的には「語り部に適している知識や能力のあるキャラ」がなんとなく主役に選ばれやすいだけで、漫画家がネームを練り直すときや、短編から長編にリメイクしようとしたときは、「解説に向いてるキャラ」と「活躍させたいキャラ」が乖離してることに気付いて「主人公を逆にした方がいいな」と脇役と入れ替えさせた作品だって多々あります。
だから主人公が誰なのかという選択は、かなり偶然性の高いものですし、その上で「どんな話にしたいのか」は「誰が偶然に主人公役になったのか」と決定的にズレることがあります。
「たまたま主人公になったキャラクター」と「その作品に描かれる面白さ」は間接的にしか繋がっていない場合だってある。
主人公が面白さの中心だという保証はなく、読者と同一化する決まりもない。
そうした心構えも用意していた方が、「作品の見方を狭くする」こともないだろうと思います。
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例えば『SLAM DUNK』というジャンプ漫画は、主人公の選び方がよかった、という評価も聞いた作品でした。
今風ならば主人公になりそうなのは凄腕バスケ選手の流川楓ですが、しかし、不良で天才でもない桜木花道が主人公、というところに独自性がありました。
でも想像してみてください。仮に『SLAM DUNK』の主人公が流川であったとしても、読者が気持ちを重ねやすいキャラクターは、おそらく桜木花道などの「バスケの天才ではない者たち」に収束していたと思います。
そして主人公の流川は「物語解説装置」であることが枷となり、サブキャラに徹していた場合ほど人気が爆発しなかったかもしれません。
改めて言えば『YAWARA!』もそうで、「物語の解決装置」としてあらゆる試合に勝ち続ける柔には、同情こそすれ共感はしにくい、というのが一般的な見方だったでしょう。
気持ちを重ねやすいのは、柔道選手ですらないスポーツ記者の松田さんです。
実際、「物語の解決装置」として予定調和を担わされがちな主人公を、苦手だ、嫌いだと言いながら執筆している作者は多くいるようです。
彼らは「むしろ主人公のライバルや脇役の方が好きだ」と告白しながら話を描いている。
すべての主人公がそうではありませんが、作者を気難しくさせている主人公は、読者からの人気も得られないことがあります。
読者人気投票を行った結果、「不人気」とあだ名される主人公もいる。
読者の立場からでも、「物語の解決装置」という役割に縛られたキャラクターには、自分を重ねたり、愛着を感じたりするには向かないことが感じ取れるのでしょう。
主人公といえば当然キャラクター人気投票で一番…と思いきや、実際はそうでもない。
人気投票で主人公を抜いて1位になったキャラ 裏次元の一日
特に少年マンガの主人公はクールなライバルキャラに負けることが多く、作品によっては主人公が一度も1位を取れないまま終わるということも珍しくありません。
もちろん、「主人公に自分を重ねない、共感しない」という見方によって、かえって好感度が上がることだってあります。
例えば、大抵のラブコメ漫画は「読者が主人公になって恋愛した気分を楽しむ」という側面があるでしょう。
(これは「側面」というより、「表向きの面」というところかもしれませんが。)
その反面、「この主人公は男として好感が持てる!」という風に、同性の主人公を「自分とは別人のキャラクター」として支持する読者がたいてい現れてくるものです。
作者も読者も主人公に集約させるという信念
嫌われるにしても、好まれるにしても、主人公というものは、多くの人が思う以上に「他者」として認識されやすいものです。
他者だから好きになることや、憧れることもできる。
しかし不思議なことに、「主人公の特徴を挙げることで作品を語れる気になっている」タイプの作品論は、あたかも、作者の欲望や読者の願望、作品に込められた思想や何もかもが「主人公という存在と一致している」かのように語ることが多いですね。
あたかも「客観」的に批評しているようで、おそらくどんな読者よりも「主観」的に、主人公と同一化した体験によって作品を理解しようとするのがそういう論者たちだというのは、気のせいでしょうか。
だから「主人公の設定だけで作品を語れた気になってしまえる言葉」は、「物語とは作者が主人公に自己投影して描くものだ、という思い込み」や、「物語とは読者が主人公に感情移入することのみで読むものだ、という思い込み」とセットで出現しやすいものです。
これらは複合的な信念体系の抱える問題で、言ってもなかなか直せない人もいるでしょう。
少女漫画や少女小説だと、「私かわいそう、っていうヒロインの話ばっかり」というフレーズが便利な批判として使われることがよくありました。
「そう言っておけば理解した気になれる」……、というのは似た例として「女性向けケータイ小説のステロタイプ」が偏見で罵られる際にも行われてきたことです。
ですが、現実の女性読者に読まれて「(ヒロインである)私かわいそう」と解釈されるだけのお話かどうかは、内容次第であり、そして読者次第だとしか言えないはずです。
何より、「私かわいそう」と言っているのは、その読者の内心であり、そのヒロイン自身ではないでしょうから。
つまり、「そう言っている人自身がどうしようもなく主人公に自己投影することでしか作品を楽しむすべを知らない」場合に、視野の狭い言葉が出てくるのだろうと考えることもできます。
では、みなさんは何によって作品を特徴付けようとしますか?
自己投影や感情移入の対象がひとつあるだけではなく、もっと多くのものに作品の魅力は支えられているのだと考えてみてください。
関連エントリ
また、「ある特定の言葉をむりやり使うことで対象の意味を歪めてしまう」という、言葉の罠について説明していたのがこちらの記事でした。本記事と合わせて読んでみるのもよいと思います。