大人になっても漫画を読むということ
読書日記を兼ねて、少し真面目な話を。阿佐田哲也の『ギャンブル人生論』で印象に残った節を引用してみます。
著者である阿佐田哲也(色川武大)自身が、ある友人からその兄についての相談を受けるというくだりです。
p21
兄貴にしてみれば、つらかったろうなァ。兄貴に能力が無かったというのじゃないんだからね。これは、もともと能力というものは、社会に適応した能力と、適応しない能力があるんだ。兄貴の場合は多分その能力が後者だったに違いない。
p24
だから、多くの不良少年は能力が欠如して落伍していくのではなく、能力がありすぎるために破目をはずして土俵の外へ足を出すのである。
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色川武大の人間観として、その作品世界に通底しているのがこういうものの見方であって、『麻雀放浪記』をはじめ、『いずれ我が身も』などのエッセイにもその価値観が色濃く表れていると思います。
いずみのも随分、不良少年というか、アウトサイダーとしての道を通ってきた(いる)ので、この言葉は実感する所が大きく、少しもの悲しく、うら寂しい気分にもなります。
少年漫画の後に青年漫画を読むということ
先日チャットで語った「少年漫画のワクに落とし込むには?」内での、
「勝てる可能性を秘めてるヤツは勝てる」
「でも可能性を信じられないヤツは勝てない」
ってだけなんですよね。
それって要するに
「どうせなら、自分の可能性は可能な限り発揮しろ」
という思想であって、その一点だけでいえば
凡人はヒーローを参考にできる。
というくだりがありますが、この思想が至る先には「可能性を発揮しすぎると、その能力の高さ故に袋小路に嵌る」という陥穽が待ちかまえています。
これは青年漫画の話ですが、野球マンガ『ラストイニング』の主人公が、その天才的なデータ野球の「能力」によってチームを甲子園へと導きながら、その徹底したデータ野球によって審判に目を付けられ、ジャッジによって負け……ヤクザに拾われ……詐欺まがいのセールスマンへと落ちぶれ……、という筋書きからも学べるでしょう。
どれも、主人公の「個性」や「特長」、つまり「秀でた能力を活かした結果」であって、能力を伸ばすことで「尖った生き方」しかできなくなっていく人間の悲哀が描かれていると言うこともできます。
これは、人間が「化けものになる」過程だと、ぼくは認識しています。
少年漫画において主人公がヒーローになる、というのも「化けものになる」過程の一つだと言ってもいいでしょう。
『エースをねらえ!』や『ガラスの仮面』、『昴』、あと『トップをねらえ!』でも『カレイドスター』でもそうですが、どれも人間が「化けもの」になっていく過程を描いています。*1
つまり、「自分の可能性に賭ける」ということは「化けものになりかける」ことと同義でもあって、そこ(=社会に適応するかしないか)を見極める必要が時折あるのです。
だからこそ、
(少年誌で、現実的な理詰めによる成長を描こうとすることについて)
でもそれだって、
「理詰め通りに行動すればヒーローになれる」という幻想
を描いてるだけですよねーっていうのは思う。
その理屈で成功したり、世界を救えたりするのはやっぱりヒーローだからであって、
ヒーローの行動は参考程度に留めて
自分用の理屈は自分で手に入れろっていう。
あるいは、単に憧れることで心の潤いにするかですね。
と述べたことにも繋がるのですが、少年漫画を読んだ子供が「ヒーロー性に憧れる」という原動力を得た後には、その力の使い道を自分なりに身に付けていかなければなりません。
「力」、という大仰な言い方をすると笑われるかもしれませんが、実際問題として「フィクションに対する憧れ」を一切持たない人、そしてそういう(ある意味で虚構と現実を混同した)「憧れ」を完全に封殺して生きる人の方が珍しいのではないでしょうか。
その程度の意味での「力」だと思って下さい。
少年誌を「卒業」して別のメディア(「苦い現実」を描いた文芸作品や、青年誌に載ってる大人向けコミックなど)に触れるなり、漫画のことを忘れて生活を続けるなりすれば自然に身に付くものでもあるのですが、「大人になってから少年漫画を読み返す」ことにも充分意味がある、と思っています。
例えば『聖闘士星矢』の世界は「子供は大人に絶対勝てない」というシビアさで貫かれているというのもそうですし、凡人が努力して成長したように見えたキャラクターが「どう見ても明らかに天才」だったことに後から気付いたり、実は主人公が恐ろしい存在に変貌しているように見えたり……と、少年漫画には大抵、大人になってから解るようなヒントが散りばめられていて、それを探し出す余地が残されているわけです。
と言っても、そういう要素は「少年漫画の構造上から生まれるもの」で、特に作者が意識しなくても出てくるものなのですが。だから別に「漫画にはそれだけ深いことが描かれてるんだ!」ということではなく、つまり、どんなメディアの作品であろうとそれは「受け手にとっての心の鏡」でしかないわけですから、その人が培ってきた人生観に見合った内容がそこに映って見えるだけなのだ、と言うこともできます。
大人になってから少年漫画を読むということ
そのヒントに気を配ることこそが、本当の意味での「大人の視点で読む」ということではないでしょうか。良く、少年漫画のリアリティの無さや矛盾や破綻、突拍子の無さなどをあげつらって「こんなの子供騙しだ」「ギャグ漫画として読むなら面白い」「ギャグとしてもつまらない」などと言う人を見かけますが――そういう読み方がネットの感想界では主流のような気もして悲しいものですが――、それこそ、まだまだ子供と同レベルの視点で読んでいるという証拠ではないでしょうか。
なぜなら、そこには作品の特長(特長が破綻を生むわけです)を検索する程度の目はあっても……そこへ自ら意味を与えることで「学ぶ」という視点が欠けているからです。
「意味」や「価値」を与えられず、何かを「見つける」だけで喜んだり、バカにするのは子供と同じ段階のように思えます。
典型的なのが「才能が全ての漫画はつまらない」といったものの見方ですが、これも大抵、
「もし本当にそんな天才が目の前に現れたとしたら、人間はどんな気分になるか?」
「現実にそういう世界を体験するとしたら、それはどういう場面なのか?」
「自分が面白いと感じていた漫画の中にも、良く見れば才能が全てのものが混ざってたりはしないか?」
といった深読みへの関心の薄さ、想像力の欠如から生まれるもののような気もします。*2
リアリティの無い漫画ほど、むしろその描写を現実のメタファーとして捉え、自分の価値観に当てはめて読んだ時の「味わい」が深まることがあります。
そういう「味わい」の蓄積で育まれた「少年漫画観」は、新たに少年漫画を読む時にも役立つことでしょう。
子供と大人が二重に読むということ
一方、『魔法先生ネギま!』にしても、作者が阿佐田哲也のファンであることと関係あるのかもしれませんが*3、少年漫画的なイデオロギーとは別に、「単純に強くなっても意味が無い」という逆説を内包させようとする傾向があって、それは子供と大人の「二重の読み」を意図的に狙ってのことなんだろうなと解釈しています。
バランスを崩すと子供の読者がついていけなくなる、難しい手法ですが……。
そういう二重構造は手塚治虫の昔から「漫画」の中に込められてきたことで、「いい歳した大人の読者」としては「それをどこまで幅広く読み取れるか」によって読解力が試されると言ってもいいでしょう。
化けものになるかもしれないということ
そして、当然ですが、こうして「自分の意見をネットで発表する」という些細なことを例に取っても、ぼくの個性や特長を延長すればこそであって、その先には例によって「化けものになるか、ならないか」「環境に適応するか、しないか」という恐ろしい問題が待ち受けていると言えます。
ちょっと言い方を変えると、いわゆる「スノッブになってしまう」という落とし穴もありうるでしょう。このような陥穽の存在は、「少年漫画の外」で学んでいくことです。
しかし更に言えば、その陥穽の恐怖を乗り越える為のエネルギーが何かと言えば、やはりそれは「自分の可能性は可能な限り発揮しろ」という少年漫画的なイデオロギーでもあるわけですね。
逆説的なイデオロギー同士が、互いに補完しあってるのです。