『ふたりはプリキュア』第21話「衝撃デート!キリヤの真実」
さて、自分が書けるだけのことを書くか。
まずは前回(id:izumino:20040614#p1)発見できたことを整理することから始めよう。
第一の発見は、『ふたりはプリキュア』はラブコメを踏襲した作品だということだった。なぎさとほのかの魅力的な、だが排他的なラブコメ空間がまず存在し、その空間に憧れ/割り込もうとするキャラクターはことごとく排除されるというシステムが存在している。そして今回描かれるのはキリヤの行動とその結果であり、彼は過去のキャラクターの中でも最大とも言える憧れを彼女達の空間へ向けている。
第二の発見は、『ふたりはプリキュア』における善悪二項対立は「優秀さと優秀でなさの戦い」だったという点だ。「現実と理想の戦い」と言い換えてもいい。ジャアクキングを中心とした実力至上主義と、ほのかを中心とした相互連帯主義のぶつかりあいである(ちなみに、なぎさはこの対立には無自覚で、ただ近しい隣人を守っているだけに過ぎない、中立的な立場にいる)。
この「優秀でなさ」とは「ラブコメ」と相似関係でもある。ここでもキリヤは、自分が「優秀さ」側の存在であることに苦悩し、ほのか達の「優秀でなさ」側に憧れ、その狭間で引き裂かれる。
そこで今回は「二律背反」と「ズレの反復」というキーワードを使って分析していきたい。
- 絶望
キリヤがほのかに別れを告げるシーン。
待ち合わせ*1、土手、赤面、告白、通り雨、相合い傘、と恋愛の小道具が連続し、「束の間のラブコメ」をキリヤは「演じさせ」られる。その空間に対する彼の憧れの強さと、それゆえの絶望的な悲しみが視聴者に伝えられる。
対象に向けられる愛情が大きければ大きいほど、絶望も大きくなるものだ。
- 二律背反−1
ほのかが自宅で葛藤するシーン。
アンビヴァレンスに立ち向かう心構えが、ほのかの祖母の口から語られる。ここらへんは真っ正直な子供番組のイデオロギーという感じで、聞いていて頼もしい。
しかし、この「運命に立ち向かう強い気持ち」は今回の二律背反に対して何の効力も発揮しないし、乗り越えることもできない。それは魔法の言葉ではなく、人間の言葉なのだから。
- 汝殺すなかれ
クライマックスの戦闘シーン。
キリヤが望んでいることは(自分の置かれた事情を語ろうともせず、「憎まれ役」に徹することで)PMSを誘い、ノーガードで受けてトドメを刺してもらうことだったのだろうが、それすらさせてもらえないという展開が熱くて泣ける。熱い、のだが、男の子的な友情ではなく、女の子のロジックに溶け込ませて描かれるのがこの番組ならではだろう。
プリキュア達は傷つきながら「汝殺すなかれ」を、自分達に対しても、相手に対しても叫ぶのだが、この叫びは二律背反を乗り越えることが無かった。ほのかは祖母に教えられた言葉を口にする。それでも、運命は誰かの死を求めるだろう。キリヤの「憎まれ役」という仮面はプリキュア達の必死の説得(BGM付き)によって剥がされ、もはや彼は「倒されるべき悪」ですらなくなる。
彼が願う「トドメを刺してもらう」という選択肢は得られなくなる。しかし、彼は生き続けることも殺すこともできないことを視聴者は知っている。
- 自決/自首することの潔さ
そしてキリヤは、プリキュア達の「運命を変える力」に希望を託し、自決を覚悟する。
彼にとって「トドメを刺してもらう」ことは運命に対する一種の「逃亡」だった。しかし彼は「自ら死を選ぶ」ことで、シェイクスピア的な雄々しさ、潔く死に挑む精神、運命に立ち向かう心、希望*2を得ることができたのではないか。ほのかの言葉はここでもまた、キリヤに心を与えたのだとも言えるかもしれない。
そしてこの「潔さ」は、第10話における宝石強盗達の自首とも繋がってくるのではないだろうか? 彼らも現実の「優秀さ」の世界で戦ってきた大人達であり、ほのかが理想とする「優秀でなさ」の理念(彼女は「お金持ちになれない人間でも一生懸命働け、人生の半分は幸せだ」と説得する)に憧れを見せるものの、結局は運命を受け入れ、潔く自首を選択するのだから。ほのかの将来に希望を託すことで……。
- ズレの反復
10話と今話において、ほのかの「理想」は確かに相手の心に届きはするのだが、決して彼らはほのかの言うがままに「改心」して「幸せ」になるわけではない。ただ運命から逃げるのをやめて、それを本人が受け入れただけなのだ。
ほのかの理念は、常に現実との「ズレ」を起こしている。その「ズレ」は修復されないまま物語が流れていく点でも、このふたつのエピソードは重なってくるだろう。
『ふたりはプリキュア』のメッセージ性は、この「ズレ」を何度も繰り返すことで少しずつ修復することを目指しているようにも思える。
『ふたりはプリキュア』は一話のみでメッセージのオチを付けるということをあまりしない。多くは視聴者に「ズレ」を投げかけたまま終わり、次回のエピソードには持ち越されない。12〜14話の「正体バレに対する不安」や、16話の「マドンナのストレス問題」などが特に顕著だった。
そして忘れかけた頃に(10話と今話は実に3ヶ月の開きがあるのだ)「ズレ」が反復され、大きくなったり、修復が進んだりするようだ。
ほのかの祖母が言うように、運命を変えたりするには「大変な努力と根気が必要」なのであろう。作品が伝えようとしているのはその「根気」なのかもしれない。
- 二律背反−2
既に視聴者にとっては、光の園とドツクゾーンの、どちらが正しいのかが解らなくなってしまった。しかも、結論は保留されたままだし、明確な未来像も提示されていない。
とにかく、メポミポの存在が絶対的に正しい、と思えなくなったことは言うまでもないだろう。
しかし、ふたりのプリキュアが「何の関係もない」光の園の為に戦う理由は、「私達にしか守れないから」という無償の他者愛であることが今回強調される。それに対してメポミポが涙を流すシーンはグッとくるものだった。メポミポも精神的には幼い子供であって、プリキュア達の「無償の愛」に対する負い目も持っているのだろうし、また、光の園の理屈が必ずしも正しいわけではないという自覚も、僅かながらあるのだろう。あの泣き声は、そのコンプレックスゆえの嗚咽であるようにも思える。
そして同時に、視聴者は「もしドツクゾーンが先に友好関係を結んでいたら、この子達はどうしていたんだ?」という懸念を読み取ってしまうシーンでもあった。もちろん、ドツクゾーンの面々はそもそも「連帯する」「友情を育む」という発想を持たないからありえない話なのだが、それでも考えさせられてしまうことには変わりない。
こういったアンビヴァレンスをあえて解決せず、長い物語で描こうとするのは冒険的な試みだと思う。
今後の展開が楽しみでならない。
- 最後に 〜 二律背反と相対的二元論
ではこの物語は、このアンビヴァレンスは、どのように収束していくのだろうか。ひとつだけ予想を述べよう。
放送当初から言われていたことだが、『ふたりはプリキュア』は陰陽思想──易学における相対的二元論の考え方を積極的に採用しているようなのだ。つまり、今後の展開で老子的な弁証法が取り入れられる可能性は高いだろう。陰の中にも陽はあり、陽の中にも陰があるというような。*3
例えば、博愛主義者のほのかとは違って隣人愛しか持たないなぎさだが、彼女はプリキュアの中でもある意味ドツクゾーンに近い存在と言えるかもしれない。*4
「光の園のことやプリキュアのこともよくしっているらしい」というのがイルクーボの紹介文なのだが、彼が言うには「プリキュアは全てを力ずくでねじ伏せる最強の戦士」だという。つまり、イルクーボの知っているプリキュアはドツクゾーンと同じ「優秀さ」の側に属しているのだろう。なぎさも良く「力ずく」だとか「叩きのめす」だとか言う子であり、自分の「優秀さ」を誇りたがることも多い。
だから実は、相互連帯主義や「優秀でなさ」の理念はほのかだけが持っているもので、ふたりのプリキュアは矛盾する要素を片方ずつ備えていることが窺えるのだ。
対してドツクゾーンや光の園は(現在の所)相対的ではない、単純二元論の関係にある。この単純二元論を、なんらかの「冴えたやり方」で相対的二言論に変化させる、という結末を予想してもいいかもしれない。