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『ふたりはプリキュア』第20話「どっちが本物?ふたりのほのか」

 そうかこれは、ラブコメなんだな。
 このアニメを観ていてずっと気になっていたことだが、なぎさとほのかは優秀であることを固く約束されている。なぎさの「スポーツ万能」という肩書きは申し分なくその有能さを保証してくれるし、明るく人望もある彼女はリーダーシップを取る自信も備えている。ほのかは「夢はノーベル賞」と言い切るほどの天才で、家柄も良くエリート人生を進むことだろう。そしてなぎさ同様、他者を導けるだけの知識と信念に自信を抱いている。
 彼女達はその優秀さゆえに周囲から愛されている。
 だが優秀さとはなんだろう?


 まず序盤の科学部の描写からして、手の匂いを女子に嗅がせるという構図がエロ恥ずかしいのだが、ほのかは男子にモテモテなだけじゃなくて女子にもモテモテで、小田島先輩もメロメロなんじゃないかと妄想しなくもない。
 さて、ここでもほのかが愛されているのはその「優秀さ」ゆえであって、それは彼女にとってはただの「能力のひとつ」にすぎない。彼女は寂しそうに、そして軽蔑したように微笑む。軽蔑という言葉の響きが悪しかろうと、そこにあるのは確かに軽蔑であり、ニヒルに見下ろした視線であり、ある種の諦めであり、スノッブな絶望なのだ。「あぁ貴方達は、やはり私を優秀さでしか見ることができないのか」と。


 80年代のラブコメが描ききったのは、徹底した「軽蔑と絶望」だった。それは大文字の物語=世間に参入することを「くだらない」と規定し、ただ恋愛に戯れ、少数の人間だけで選民主義的な空間を作り上げ閉塞していくことだった。そこにはラブコメ/恋愛以上の官能はありえないものとされ、世間やその他の人間はニヒルに見下ろされるものでしかなく、軽蔑され続けた。このように病んだスノビズムは90年代を通り越していくらか形を変えていったが*1、この「ラブコメスノッブの病」は今もまだ続いていると言える。
 ふたりはプリキュア』はなぎさとほのかのラブコメと言えるかもしれない。彼女達には優秀さが与えられ世界に認められることで、また、周囲の人間に対してリーダーシップを発揮することで、しかしそれ故に世界から遠ざかり孤立しうる。子供離れした学力を持ったほのかにとっては、特にそうかもしれない。彼女は直接「くだらない」と言ったりはしないが、「優秀さ」に積極的な価値を見出そうとはしない。勉強は好きだからやっているだけ、と言うかもしれない。誉められれば嬉しい。だが、そこ止まりかもしれない。
 孤立したほのかはプリキュアの片割れ=キュアブラック=なぎさという非・日常的な、特別なパートナーを得ることで閉塞した時間と空間を獲得する。プリキュアに変身することで、普段の肉体では考えられないような*2活躍をすることができる。そこには日常の「優秀さ」に左右されない戯れの──ラブコメの官能が出現する。


 なぎさに「本物の自分」を見分けさせるシーン。なぎさの長所ばかり*3を挙げるポイズニーに対して、ほのかは「勉強はあんまり好きじゃない」「まわりが見えなくなるタイプ」「おっちょこちょい」「靴下がちょっと臭い(これは香水の「良い匂い」というポジティブ・イメージをも封じ込めている)」と、愛情を込めつつ短所やネガティブ・イメージばかりを指摘していく。これは多分、ほのか自身の願望の裏返しかもしれない。多分彼女は、自分達が反対のシチュエーションに陥ったとしたら、「本物のなぎさ」に自分の短所を指摘してほしいと願っていたかもしれない。「お説教がうるさい」「すぐムキになる」「人の気持ちが読めない」といったように──きっとなぎさはそこまでストレートな物言いをしない子だが、ほのかが望んでいることはそういうことのようにも思える。
 ほのかにとってのなぎさとの関係は、「優秀さ」を無くした所に立脚している。だからほのかにとって、なぎさの長所よりも短所の方が重要な意味を持ってくる。


 そして驚くべきことに、ふたりともスノッブな位置に居ながら、かろうじて両方の世界を愛することができている。世間に参入することと、ラブコメに戯れることを両立させながら、絶望せずに彼女達は生きている。
 しかしそこで話は終わらない。このアニメはラブコメであると同時に、ヒーロー作品でもあるからだ。否定しなければならない「悪」が存在するのである。

  • 善悪二項対立

 脚本はピーサード退場の回の羽原大介だった。なるほど、前回「『勧善懲悪』や『戦争』を書ける脚本家が不足しているようで」(id:izumino:20040607#p1)と心配したばかりだったが、理屈っぽいエピソードになるとこの人に回されるのかもしれない。
 ドツクゾーンは全てを飲み込むか、自己崩壊するしかないことが説明される。ここまでは至極単純な善悪二項対立だ。「心」を持ってしまったキリヤが二項対立の間で引き裂かれてしまうのも、よくある予定調和のひとつでしかない。
 さて、ダークファイブ達の行動理念は「実力至上主義」という言葉で貫かれている。彼らは、いわゆる「心」というものを(今のキリヤ以外には)持たない。ポイズニーが「この命にかえても」と命を軽く扱ってしまうのは、心を持たないからだろう。
 その反動なのか、彼らは「実力=優秀さ」にだけは切実なこだわりを見せる。例えば、徹底して一人で任務をこなそうとする態度がそうだ。彼らは、そんな非・効率的なスタイルに疑問を抱くことすらない。
 ピーサードの退場戦を思い出そう。彼が確実に勝てる戦いを放棄し、正々堂々の勝負を挑んだのは、あくまで自分一人の「優秀さ」を誇示しなければならなかったからに他ならない。誰でもやれることに価値は無く、自分にしかできないことでなければ、それが掛け替えのない能力でなければ、実力とは呼べないからだ。
 ポイズニーもまた、「実力=優秀さ」という言葉にしがみついており、独自の理念を語りながら「優秀でなさ」を否定する。*4
 彼らの掲げる実力至上主義が支配する世界は、今ほのかが愛しているラブコメの世界とまったく正反対の位置にある。「自分の理屈を一方的に押しつけているだけでしょ」とほのかは激昂し、懸命に反抗する。彼女にとっては弱い者同士が連帯し、力を合わせることが「正義」なのだろう。それもまたひとつの理屈である。


 一見すれば単純な善悪二項対立だが、これは悪対正義の戦いではなく「優秀さ」と「優秀でなさ」の対立でもある*5「優秀さ」だけにしがみつくか、「優秀でなさ」を愛するかの戦い──。
 今話のラスト間際にキリヤは慟哭するのだが、それは姉を失った悲しみであり、ほのかと対立することへの嘆きでもあるだろう。そして、ドツクゾーンの宿命である「優秀さ」に従うか、ほのかの主張する「優秀でなさ」に連帯するかを選ばねばならないというジレンマでもある。
 そして彼は「優秀さ」を選んで生きることしか許されていない。*6

*1:例えば閉塞性を否定せず、戯れを全肯定する態度などが生まれた

*2:プリキュアの力は、元々の身体能力の優劣を無視している所がある

*3:「タマネギが苦手」という微妙なフェイクは混ざっているが

*4:余談だが「優秀さ」だけにしがみついているという点で、小田島先輩はむしろポイズニーに似た存在だった。故に彼女は、なぎさとほのかのラブコメ空間に入ることができない

*5:老荘思想的に言えば前者は陽であり剛であり強であり男であり、後者は陰であり柔であり弱であり女である。天下之至柔、馳騁天下之至堅……と言ってプリキュアンにはおなじみの太極論に繋げることもできるのだが、それは別項に譲ろう

*6:例えば、キリヤは香水の匂いの中にスズランの香りを嗅ぎ取ることでほのかと並ぶことができたのだが、それもまた自分の「優秀さ」を誇示した結果に過ぎず、二の句を継げないまま立ち去るしか無かった