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 移行後のはてなブログ:izumino’s note

第21話感想捕捉

 さて、今回はこちらの感想がシンプルで一番良かったです。


(前略)子供達にも色々と伝わったでしょう
作品中のヒロイン達には伝わらなかったけど、視聴者に物を伝える事ができれば作品としてはそれで充分かもしれません
事情を知らずに説得を試みるほのかを見てもそれが通じないのは誰の目から見ても明らかでした、そういう流れに持っていきたかったんでしょう


このプリキュアというアニメは本当に視聴者参加型なのかもと思います、物語を垂れ流すだけだったら構成さえ決まっていたら誰にだって脚本が書けてしまいます
主人公達は敵の名前を知らないけど視聴者は知ってます
キリヤの事情についても同じです
ポイズニーとキリヤの関係も結局明るみには出ませんでした、でも我々は知ってます
二人が事情を知らないままなのを寂しいと感じた人は多いと思います、それが狙いなのかもしれません

 いえた!
 まぁ構成だけで脚本が書けるかと言えばそんなことはないわけですが、それ以外ではとても大切なことを指摘していると思います。
 登場人物は知らないけど、視聴者は知っている。だから登場人物達以上に色んなことを想像し、積極的に物語を「読む」ことができる。


 主人公に感情移入だけして、積極的な参加をせずに感動を得ようとすること。それは、かつてニーチェも激しく罵倒していた観劇態度だったのではないでしょうか。
 そういえば、これはid:bluefieldさんの所にあった高畑勲氏の講演内容にも似たような意見があったように思います。テキスト化されたbluefieldさんには(文責のプレッシャーの面でも)申し訳ないですが、面白いので長めに引用させていただきます──。

・日本のアニメーション、及び最近のハリウッド映画(例えば、近年のスピルバーグ作品等)では、子供を主人公にした作品が非常に多い。

・そこで描かれる子供は非常に理想化されており(一種の超人である)、主人公である子供は、大人社会に当たり前に出ていき、大人顔負けの活躍をする。

・その子供に対して、30を超えた大人達は当たり前に同化・感情移入している、これはちょっと異常なことではないか。一種の無垢的な存在である子供を主人公に据えると、簡単に感情移入・同化することができ、観客の能動的な思考能力を奪うことが多く、麻薬的であり、危険な物ではないだろうか。

(中略)

・アニメーションに関わらず、映画等においても、「感情移入」が一つのポイントとなっており、「感情移入」をさせてもらえない作品には「させてもらえない」ことで批判されたりさえする。「感情移入・同化」して、ただ受動的に「泣く・感動」といった作品が増えているのには危惧をおぼえる。これはディズニーランド等の、テーマパークのようでもある。

・映画に対して、能動的に考える、感情移入するにしても能動的に移入するといったことが大事なのではないだろうか。作品に対して自分から考え、批判的・客観的に見ることが大切であり、本当に感動し泣ける作品は、そういった態度を通しても泣けるものだ。

・「巻きこまれ型」「感情移入型」の作品の中で理想化された登場人物により、安易に「理想」・「夢」が語られるのにも危険だ。そこでは理想と現実との対比がまったく描かれていない。

(中略)

・今、『キリクと魔女』というフランスのアニメーション映画の翻訳・吹き替えの仕事をしている。作品では、主人公キリクは、映画内のさまざまな局面で「なぜ?」、「どうして?」を問いかける。人は、何事にも疑問や知的好奇心を持つことが大切ではないだろうか。これは、原始的なフォークロア、民話で基本的に大切にされてきたものだ

 強調部分はいずみのによるものです。
 こういった高畑氏の意見*1を『ふたりはプリキュア』という子供番組と照らし合わせた場合、どういう評価がありうるか。というのは、各自で考えていただけたらなによりです。ここまで読んだ方には、なんとなく解っていただけるものだと思いますが。*2


 特に、「ほのかを理想化して」「プリキュア達が大人側/敵側と相対化されて描かれることを嫌っているようなすぎたさんの感想には興味があるんですけどね。


 あと、もうひとつ高畑氏の言葉から。

・「アルプスの少女ハイジ」においては、できるだけリアルな表現を目指したつもりだが、やはりファンタジーとして受け取られてしまった感がある。その轍を踏まえて「赤毛のアン」ではできるだけリアリズムを試みた。男性によるナレーションを行ったのもそれである。

 ウチの記事の分析視点からも表れているように、『ふたりはプリキュア』はほのかの理念を中心にしたテーマ構築が行われています。
 しかし、ナレーションや回想はなぎさの視点で行われている。これは、ほのかに対する「安易な感情移入」を避けるためのリアリズムや異化効果だったとも考えられるのではないでしょうか。

*1:余談だが、高畑監督の作品はぼくはかなり好きだったりする。特に『平成狸合戦ぽんぽこ』。あまりキャッチーな作品を作れない人、でもあるのだが

*2:勿論、ただメタファーをちりばめて物語を難解にし、感情移入を拒んだ作品がいい作品だ、という理屈では決してない