同情と共感と日仏マンガ文化比較
日本の漫画の研究、海外の漫画の研究は、それぞれ蓄積もあり、互いに交流や応用研究も多少はあるのですが、(各国の漫画を専門に論じるのではなく)比較文化論の観点から並べて分析してみる、というアプローチは自分が知るかぎり珍しいなあ……と思います。
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そう考えるきっかけになったのがTwitterのこのpost。
「言わなくてもわかるでしょ。」ってのは極めて日本固有の考え方だと思います。中学で日本に来た時に一番戸惑いました。僕はフランスからの帰国ですが、かの国では「相手の考えを勝手に類推してはいけない」ということを厳しく言われました。
— 冷泉明彦(NO抜け) (@JosephYoiko) 2011, 9月 19
これは直観的な話なんですけど、日本文化とフランス文化で「他者」に対する接し方の違いがはっきりとあるのだとしたら、それぞれの文化から生じる「キャラクター」の見方も当然異なるはずだと思うんです。
背景にある文化の違いから、漫画文化の違いも当然生まれる。これはまさに比較文化論なんじゃないでしょうか。
具体的に、この差に比例するような漫画の話はいくつか聞いたことがあります。
ひとつはBD作家のJ.D.モルヴァンと、元マガジン編集者の宮原照夫による日仏比較論を受けた夏目房之介さんの考察です。
インタビューの中で、ジャン=ダヴィッド・モルヴァンはBDとマンガのスタイルの違いについて尋ねられて、こんな風に答えている。
〈BDの作家はどちらかというと「物語」を語ろうとする傾向が強いんです。それに対して、日本のマンガの作り方は、「登場人物」にずっとフィーチャーしているというか、そこに焦点をあわせようとする。だから登場人物を豊かにしようとする傾向があると思うんですが、その辺が大きな違いじゃないでしょうか。[略]もちろんBDの場合もキャラは重要なんですよ。ただ、日本のやり方とは違ったやり方でキャラを使います。BDの場合はキャラクターを使って物語を語る。一方、日本のマンガは、物語を生きているキャラを描く。〉(同誌 165~166p)
要するに「物語」の構築が最後にたどり着くべきものなのか、キャラクターが「物語」より優位にあるか、というような意味のことなのだが、もちろん、そのままでは多くの反証や例外を思いつける。
(中略)
この手の比較論は、必ずこうした相対性をはらんでしまう。だから、ここでの言い方に何か「いい当てられている」感があるとすれば、そのことをどのレベルで掬い取り、どう言語化するかが問われるだろう。ここでいわれている「物語」が、一体どういうものを示そうとしているかが鍵かもしれない。
(中略)
かつて宮原照夫に伺った、フランスとの出版社社長の対話で優先順位の違いが問題になった件を思い出す。宮原は「1、テーマ、2、キャラクター、3、ストーリー、4、絵」といい、社長は1、絵、2、テーマ、3、キャラクター、4、ストーリーといったというのだ(拙著『マンガの深読み、大人読み』イースト・プレス 所収 宮原インタビュー 221p)。だが、そもそもキャラクターの意味合いが「物語」との関係で文脈的に異なっているとすれば、簡単には比較できない。また「物語」を単純にストーリーと同じということができるかどうかでも話は違ってくる。
BDとマンガ(マンガ・エロティック エフ):夏目房之介の「で?」:ITmedia オルタナティブ・ブログ
《ここでいわれている「物語」が、一体どういうものを示そうとしているかが鍵かもしれない。》
《「物語」を単純にストーリーと同じということができるかどうかでも話は違ってくる。》
……などと、そもそも「テーマ」「ストーリー」「物語(Narrative)」という用語のレベルで日仏では認識のズレがあるのでは?*1 という保留がされているものの、「キャラクター/物語」を対置させることで日仏の漫画を比較しようというアプローチは珍しくないものです。
次に、これは漫画にかぎらない話なのですが。アニメーション監督の高畑勲がフランスのアニメを紹介する際、日本人の「感想文」とフランス人の「感想文」の違いをこう語っています。
小泉首相が“感動した”と言っても、それは何も表現していないことと同じでしょう。にもかかわらず、その言葉が人々に訴えかけるのは、日本人は心が大好きな国民だからだと思うんです。日本人は、どうも感情だけが問題になるんですね。これがフランスだと違うんです。
前に僕の作品をフランスの子供たちに観てもらって、感想を聞きましょうとなったらね、これが感想じゃないんです。皆、自分がどれだけこの映画を把握したかを語るんです。そこで、気がつきました。日本ではこういう場合、読書感想文という言葉がそれをよく表しているけれど、何を感じたか、感動したかを問うている。でも感動というのは、あっという間に雲散霧消してしまう感情を表現しているだけですよね。知的、理性的に何かを掴んだかどうかはあまり問われないんです。
対談:太田光×高畑勲 - 映画『王と鳥』公式サイト
「日本人は心が大好きな国民だから」という言葉ですが、最初の「言わなくてもわかるでしょ」と「相手の考えを勝手に類推してはいけない」に繋がってくるようには感じられないでしょうか。
高畑勲と言えば、「受け手の感情の勝手な押し付け」である「共感=思い入れ」と、「客観的な理解」である「同情=思いやり」の違いを、映画を通していつも主張している人でもあります。
演出的に言えば、主観ショットやクローズアップ・ショットが多用される映画では、観客をその世界に没入させるジェットコースター感こそが重視され、客観的に思いやるような「同情」ができないように作られている、と批判的に論じています。
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高畑勲の言う「共感型の映画」はアメリカのハリウッド映画も含むので日本固有の問題というわけでもないのですが、初期ディズニーのアニメと日本のアニメでもクローズアップ・ショットの違いが大きいと考えているようです。
また、アメリカの漫画家/漫画研究者であるスコット・マクラウドも、日本の漫画の特徴として主観ショットや「主観移動ショット」が多用されることを『マンガ学』(原題:Understanding Comics)で挙げていました。
当時のマクラウドが調査したかぎり、日本の漫画の「主観移動ショット」の使用率は世界的に独特と言えるほど突出していたようです。
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つまり、日本の「心を大事にする」「他人の心は察するべきもの(=勝手に共感していい)」という文化背景が、「他人の気持ちがわかる」ことを重視する「共感」の文化を築き、物語の表現も「キャラクターの気持ちがわかる」「キャラクターの気持ちを見せる」キャラクター表現を専門的に発達させていったのではないか。
逆にフランスの「他人の心を勝手に類推してはいけない(=共感しないのが当たり前)」という文化背景から、キャラクターではなく作品の「出来事」や「絵」を重点的に見せる表現が発達していったのではないか。
あくまで仮説にすぎないのですが、こういうアプローチから日仏の漫画文化を捉え直すこともできるのではないでしょうか。
また、比較文化論でもっともたいせつ、また得るものが大きいことは、彼我の文化比較によって「今まで自明だと思い込んでいた事柄が、伝統的な文化に根ざした、非・普遍的な思想にすぎない」と気付かされることです。
当たり前だと思っていることが、当たり前ではないとわかる。これは何かを研究をしたり理解する上でとても重要ですし、本来欠かしてはいけないものです。
特に日本の「キャラクター漫画文化」は、この伝統的な思想による影響がよく表れているものだと思います。
そこを問いなおすきっかけとしても、この日仏文化比較は興味深いトピックなのではないでしょうか。