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「語りかけられる」ことと「眺める」こと

 上岡龍太郎曰く、テレビ番組の話芸は「観客に語りかける玄人の話芸」から「芸人同士の素人会話」を眺めさせる形へと変質した。前者の「話芸」を体験したことのない日本人も増えていることだろう。
 テレビ番組によって「眺める」という態度が醸成された「世代」があると仮定するならば、もしかすると、フィクションの読まれ方もそれが規定しているかもしれない。


 講談社の伝説的編集者、内田勝は「ぼくら」をキーワードに雑誌作りをした。


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内田 勝

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 「ぼくらがぼくらに向けて語りかける」スタイルが受け手の心を掴むと同時に、80年代の『ホットドッグ・プレス』は「童貞が書いて童貞が読むバイブル」などと内に閉じてる様子が揶揄されたりもした。
 これは現代と比較するとどう考えられるか。


 フィクションなどのテクストには「語りかける」と「眺める」の二つがある……というよりも、受け手の育ち方によって、「語りかけられている」「眺めている」という二つの解釈が生まれると考えた方が良さそうだ。
 現代の物語の多くは「語り」の構造が透明化している(つまり講談師などの「語り手」が姿を見せない)ことが一般的であるため、語りかけられているのか、眺めているのかは、「作品の外見」よりも「受け手の心象」によって決まることだからだ。


 最近ネットにアップされた、こんな記事がある。

 どうして自分は『まどマギ』にハマれないのかなぁ、とずっと考えていたんですが、どうもこれが“女の子だけの世界”の話というところに理由があるんじゃないかなぁと気づきました。


〔中略〕


 46歳のおじさんとしては、どこにも自分の居場所がないな、と感じてしまったのです。ここは、女の子特有の美意識、可愛らしさと残酷さだけで作り上げられた世界だなぁ、と。


 「女の子の美意識だけの世界におじさんはハマれない」というロジックには、若干の違和感が伴う。
 正しく自己分析しているのかというと、何か違う気がする。
 だって世の中には(というか日本には)その条件を満たした少女漫画(の、名作)がいくらでもあるのだから……。
 60歳のおじさんである小林よしのり『AKB論』で披瀝していたが、女の子しかいないアイドルグループは「男である自分との恋愛関係」を前提にしなくても「運動会に出てる子どもを応援するような気持ち」で充分楽しめると書いている。
(それも「父親と娘」の擬似的な男女関係だろう、と言えるかもしれないが、私見で言えば本当に全くの他人、せいぜい「母校の有名人」レベルの他人を応援する気持ちでアイドルファンは充分だと感じている。自分が「少女化」する必要もない。)


 自分と全く関わりのない話でもハマれるタイプの人と、なにかしら関わりがないとハマらないタイプの人がいる、という事実は経験上、よく知っている。
 けど、その違いはなんだろう? とかねて疑問に思っている。
 どちらのタイプが優れているとかどうかではなく、その違いを理解していた方がいい、と思っていて。


 冒頭の話は、この疑問にも繋がっている。
 おそらく、「眺める」のではなく「語りかけられる」ことを鑑賞の前提にする人がいるのだと思う。
 そしてそれは、「観客に向けた話芸」が正統だった時代と、その話芸が困難になっていった現代との違いかもしれない。


 「特定の観客に向けて語りかける」ことが困難になると、不特定多数に向けて語るどころか、むしろ「内輪の会話を眺めさせる」ことが最適解になっていく。
 現代の消費者はそうした観賞スタイルに慣れている。ダーウィンの進化説的に、作り手もそれに合わせていく。
 すると漫画史やアニメ史だけで捉えきれない、テレビメディア史を含めたフィクションのブームの変遷と変質、を見直せるかもしれない。


 この文章自体は、元々Twitterのタイムラインに向かって書かれている。
 もちろんTwitterは「特定の観客に向けて語りかけること」にまるで向かないツールだ。
 「ぼくら」に語りかけられるのを待っているオーディエンスは稀であり、それ以上に「不特定多数との相互干渉を眺める」機会を待っているオーディエンスの方が、多いはずだ。
 この在り方が、他のメディアへの態度にもどう影響しているか? を考える価値はきっとある。


 「眺める」型の態度と、「語りかけられ」型の態度には、それぞれ一長一短がある。
 眺める態度は、自分と関係のなさそうな話でもどこかで共感することができ、語りかけられる態度では自分との強い関係を求めて関係がなければ興味をなくしてしまう。


 ただし、語りかけられる態度は積極的に話の中身を呑み込もうと努力するだろうが、眺める態度では表層の理解に留まりやすいだろうし軽視・軽蔑の見下し目線に繋がる恐れもある。


 高畑勲監督は「体験型」の、つまりカメラになって世界を眺める快感が中心となるような映像を「キャラクターへの想像力や同情を喚起しない」と批判していた。
 そして同時に、主人公一人と擬似同一化させることのみを追求した映像にもまた、「キャラクターへの客観的な同情を誘導しない」と否定していた。


 つまり高畑監督が求める映像とは、語りかけであり、なおかつ眺めさせるような、双方の利を備えた映像なのではないか。


 「自分に語りかけられている」という強い没入を作品に感じていながら、結局のところ「主人公一人の視点」、あるいは「自分一人の狭い視点」からでしか物語を感じられない観客もいる。

 しかし不思議なことに、「主人公の特徴を挙げることで作品を語れる気になっている」タイプの作品論は、あたかも、作者の欲望や読者の願望、作品に込められた思想や何もかもが「主人公という存在と一致している」かのように語ることが多いですね。


〔中略〕


 少女漫画や少女小説だと、「私かわいそう、っていうヒロインの話ばっかり」というフレーズが便利な批判として使われることがよくありました。


〔中略〕


 ですが、現実の女性読者に読まれて「(ヒロインである)私かわいそう」と解釈されるだけのお話かどうかは、内容次第であり、そして読者次第だとしか言えないはずです。
 何より、「私かわいそう」と言っているのは、その読者の内心であり、そのヒロイン自身ではないでしょうから。

「主人公の特徴だけで作品を特徴付けたつもりになれる言葉」の過ちと罠 - ピアノ・ファイア


 反対に「眺めているだけでいい」と深い関係を結ぼうとせず、複数の視点による想像力を豊かにしないという点では上記と大差のない観客もいる。


 そういう観客らがいると仮定して、彼らに対して、語りかけつつ、眺めさせたい。
 それは可能なのか、と思えば、考えるべきことはおそらく多い。