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 移行後のはてなブログ:izumino’s note

冬コミ3日目のアニメルカについてお報せ&原稿プレビュー

 直前もいいとこなタイミングですが、冬コミの報告です。
 3日目には、東ハ07b「アニメルカ製作委員会」にて、泉信行が寄稿した同人誌が何冊か置かれているはずです。


 特に、コミケ新刊として頒布されるのが『反=アニメ批評 2012autumn』で、泉信行「おおかみこどもと駿と勲─ジブリに立ち向かうことの意味」を寄稿しています。
 映画監督としての「細田守」と「高畑勲」を並べて論じたもので、文字数は二万字オーバーしています。


 せっかくなので、宣伝がてらプレビュー版をここに載せておこうと思います。これが全体の四分の一程度のボリュームですね。
 ではどうぞ。

おおかみこどもと駿と勲─ジブリに立ち向かうことの意味

ジブリに対峙するとはどういうことか?

「……高畑勲でしたね」
 公開間もない頃の『おおかみこどもの雨と雪』を、友人らと一緒に観終えた直後、率直に口から出た感想がこれだった。
 同行していた、ライターのみやも氏は、ぼくの言葉をこう受け取っていた。
「この作品って、今のジブリに欠けていた穴をようやく埋められたんであって、宮崎駿のテイストを継がなきゃいけないなんて必要はないんだよね」
 『おおかみこどもの雨と雪』の感触は、『おもひでぽろぽろ』だったし、『火垂るの墓』だったし、『平成狸合戦ぽんぽこ』だった。そしてぼくは『火垂るの墓』に並んで、劇場版『じゃりン子チエ』のにおいを特に連想していた。
 そう、細田守の資質は、宮崎駿と比べるなら、高畑勲の方がよほど近い。世間一般が思うほど、細田守は「宮崎駿的」ではなかったのだ。
 ぼく自身、前作『サマーウォーズ』を観たあとでは、細田守は『ラピュタ』のような「活劇アニメ」を目指すべきであろう……、と思っていたクチだから、『おおかみこども』を観て「高畑勲」を感じたのは目からウロコのことでもあった。
 そう、スタジオジブリに対峙しうる劇場アニメを目指すにあたって、宮崎駿の資質を継ぐ必要なんてまったくない。高畑勲に近い仕事をできればその方がいいのだ。
 そう感じていたことを、すこし駆け足で確認していきたいと思う。

ジブリのふたつの顔

 もともとジブリは、宮崎駿高畑勲の映画を作るために立ち上げた会社です。
──鈴木敏夫『仕事道楽─スタジオジブリの現場』p167

 まず断っておかなければならないのは、ジブリ宮崎駿ではないという単純な事実だ。
 しかしメディアでの扱われ方、ネットでの論じられ方はどうだろう? ジブリの「顔」はほぼ宮崎駿とイコールと結び付けられ、その「後継者問題」をかまびすしくあげつらう。まるで宮崎駿であらずんばジブリであらずという論調だ。
 ジブリ設立から組織的成功までに、「宮崎駿以外の」才能が成してきたことが、メディアとネット論壇の総ぐるみで忘却されがちだとしたら由々しきことではないだろうか。
 確かに大塚康生近藤喜文男鹿和雄といったアニメーター(美術監督)の名が挙がることはある。しかしそれは映像クリエイターに対する評価であって、ブランドを代表する顔ではないのだ。と同時に、ジブリというブランドを語る言葉の中で「高畑勲」の名は年々薄まっていくように感じる。
 彼が日本アニメ界に対して貢献してきたことの大きさに比して、不当な扱いと言ってもいいかもしれない。

 げんざい宮崎の個性や作家性といわれるものも、彼が多くのスタッフとの間で不可分にしてきた要素が多い。高畑勲は宮崎のことを「ぼくたちは完全な共同作業者でした」と語っているし、あの独特の澄んだ少女の顔や主人公の顔立ちは、『ホルス』以来の作画監督大塚康生のキャラクターデザインを取り入れた部分もあると小田部羊一は語る。他にもその小田部によるピッピ、ミミちゃん、『三千里』のフィオリーナが宮崎のラナに至る少女の系譜や、ヒルダやキャシーをデザインした森やすじ(康二)の影響を指摘する声もある。
──『宮崎駿の〈世界〉』切通理作、2001年、ちくま新書、p206

 端的に言って、ジブリには宮崎駿高畑勲というふたつの顔がある。*1
 宮崎作品と交互に作られてきた高畑作品は、毎年の高い興行収益を維持していくジブリの高度成長期(およそ90年代のさなか)において、次の成長にバトンタッチをする役目を果たしていた。その維持の先に『もののけ姫』の爆発的なヒットがある(観客動員1420万人、興収193億円)。
 逆に言えば、桁が違う『もののけ姫』のヒット以前では『紅の豚』(動員304万人)や『耳をすませば』(近藤喜文監督、208万人)、『平成狸合戦ぽんぽこ』(325万人)であっても充分「大ヒット」という扱いだったのだ。各年度の邦画配収では1位だったのだから当然である。
 ちなみに『おおかみこども』の興収成績(公開約2ヶ月半後、観客動員340万人・興収41億円突破と報じられている)*2は『もののけ姫』クラスに遠く及ばず、『紅の豚』や『ぽんぽこ』と並べた方が近い、ということは特筆しておくべきであろう。
 その一方、企業間の都合によって「東宝」よりもはるかに不利な「松竹」で配給をせねばならなかった『ホーホケキョ となりの山田くん』が大敗(115万人)して以降、名前の出てこなくなった高畑が、雪だるま式に成績を上げていく宮崎*3との比較で小さく見られるのは仕方ないことかもしれない。
 しかし「内容的な評価」と「興行的な成功」を両立させようと奮闘し、「国民的なファミリー映画」のブランド──鈴木敏夫が皮肉的に使う言葉でなら「優等生のジブリ」──の土台を築き上げたのは、間違いなく高畑・宮崎の二人の共同作業である。
 『おもひでぽろぽろ』にせよ『平成狸合戦ぽんぽこ』にせよ、あえて「子どもは観なくてもいい」という大人向けイメージを打ち出すことで、青年客や、女性客などの大人を呼び込み、成功したと鈴木敏夫は語っている。*4
 子どもから大人までのファミリー映画……、その中でも「大人まで」のイメージを決定づけたという意味で、高畑勲の存在意義は特に大きいと言えるだろう。
 次世代のジブリ監督たちも、細田守も、宮崎駿すらも、この大きな傘を借りて自作を企画していると言っていい。
 しかし高畑勲は、自身のポリシーによってジブリの役員に就くことを良しとしなかった。そのため、「ジブリ」という企業イメージの中に高畑勲を含ませにくい現状も招いている。

■見逃されてきた「高畑勲的なもの」

 参照すべき高畑論としては、映像研究家の叶精二によるものがある*5。この中の「『平成狸合戦ぽんぽこ』論」は、一貫した作家分析として必読であろう。
 さて、それでは『おおかみこどもと雨と雪』の中からにおう「高畑作品らしさ」を思い出してみよう。
 『ぽろぽろ』の田舎と農家の描写や、『ぽんぽこ』で動物が人間に化ける描写を連想するのは誰でもたやすいかもしれない。
 しかし「家族」がメイン・テーマとなる本作において、個人的に印象深かったのは、「他人を頼れない」性格として描かれる主人公の花だった。
 他人を信用できない保護者がご近所づきあいから逃げ出して、扶養すべき家族を連れて引きこもり、自滅しかける。高畑監督の『火垂るの墓』だったら家族もろとも餓死する展開だな……と心配しながら観ていたら、『おおかみこども』ではご近所さんの助力によって家族は危機を切り抜ける。
 なるほど、これはハッピーエンドが許される『火垂るの墓』なのだな、というのが第一印象だった。
 そう思えば、高畑作品と様々なところで姿勢が似ている。
 客観的にキャラクターを突き放して描こうとする高畑勲は、人間の弱さ、愚かさ、不完全さを含めて描こうとする演出家だ。全面的に肯定されるキャラクターというのは描かない。『火垂る』の主人公・セイタが孤立してしまったのも、一見すれば親戚のおばさんが悪者のように見えるが、つまるところ彼の忍耐力の無さとプライドの高さが妹を連れて逃げ出す決定打となっている。
 親戚のおばさんがセイタを追い出すような描写は存在しないから、醒めた目で彼の行動を見返すと、あたかも「妹との愛の巣」じみたユートピアを作り出して自己満足にひたる男のようにさえ映る。
 そのように高畑勲は、「一見可哀想な悲劇だが、一歩引いて見れば愚かな行為だと解る」ような、なんとも残酷な演出を持ち味としている。
 劇場版の『じゃりん子チエ』にもその持ち味があらわれている。
 「母親が家を出たおかげで働く小学生の女の子」というチエちゃんの設定は、現実の尺度で言えばどうしようもなく崩壊した家庭の姿を思わせるだろう。これは喜劇であれば気にならない世界なのに、高畑勲はシリアスな部分もにおわせながら描いてしまう。
 しかも当の母親はというと、父親のテツが追い出したかのように見えるが、よく観察すると「女としての我侭で家を投げ出した」ようなエゴも窺える演出がされている。また、チエちゃんもただ元気なだけではなく、寂しげで物憂げな表情を垣間見せるのだ。原作やTVシリーズからは想像のつかない、少女的な儚さのあるチエちゃんの作画は、この劇場版にシリアスな緊迫した空気を与えていた。
 『おおかみこども』の全編を通して描かれるのも、主人公の花による愚かな判断や、弱さが生む不器用な行いだった。
 花と「狼男」は、天涯孤独な者同士が傷を舐めあうように同棲を始め、なし崩しのように子どもを産んでしまう。我が子がまともに生きられないと予想できても、自己存在を確かめるかのように出産を選んでしまう行為は、ラース・フォン・トリアー監督の『ダンサー・イン・ザ・ダーク』で描かれていた、目の障害が遺伝するとわかっていても子を欲してしまう親のカルマを思い出させる。
 狼男に訪れた不幸な事故のあと、花の家族はとことんまで追い詰められるが、花は『火垂るの墓』のセイタのように、誰にも頼らず自分一人でなんとかしようとする。その結果、子どもを愛するはずの母親が、子を厳しく縛り付け、追い詰めるような存在にもなってしまう──。
 そうした残酷リアリズム演出を、そこそこハッピーエンドにまとめることができて、興行的にもうまくいく監督が細田守なのだ。
 それはある意味、「娯楽映画監督」としては高畑勲の上位互換のようでもある。細田守高畑勲のように、テーマ性やメッセージ性にこだわる様子はないし、『山田くん』のような実験作を採算度外視に作ったりもしないだろう。
 ただし、高畑勲の徹底的な完璧主義や、冷徹すぎる観察力は細田守が持ちえない素質のはずだ。そこに、この二人を比較する余地も生まれてくるのだが。
 叶精二の高畑勲論から、『火垂るの墓』についての解説を引いてみよう。

 高畑監督は、同作品制作の意図として、地域共同性が解体し、皆が個人主義に浸る現代でこそ、この作品を評価しなければならないと再三語っていた。(記者会見用資料/映画パンフレット/「月刊アニメージュ・八七年六月号」ほか)高畑監督は、戦中にあって軍国主義に染まり切れず、従って地縁・血縁の協力も得られず、不器用だが正直に生きて必然的に死んでいくという、この作品の主人公たちこそ、個人文化に浸る現代の青少年たちの生き写しだと捉えた。
──叶精二「平成狸合戦ぽんぽこ」論―「系譜・テーマ・映像・論評」の分析― http://www.yk.rim.or.jp/~rst/rabo/takahata/ponpoko_ron.html

 「地縁・血縁の協力も得られず不器用だが正直に生きて必然的に死んでいく」「個人文化に浸る現代人の生き写し」というのは、ハッピーエンドが得られない分岐[ルート]を選んだ場合の『おおかみこども』そのものを指していると言わねばならない。
 日本のメディアで「無縁社会」という言葉が使われだしたのも、2010年頃と新しい。

〔※先の引用からの続き〕原作が発表された上昇指向の高度経済成長時期には、こうした個人の孤立の悲惨や共同性の解体という問題の大きさを、広く一般が認めることは出来なかった。高畑監督は、混沌と混乱に差しかかる現代の社会環境と政治情勢の下でこそ、この作品の真価が発揮出来ると考えたのである。
──叶精二「平成狸合戦ぽんぽこ」論―「系譜・テーマ・映像・論評」の分析― http://www.yk.rim.or.jp/~rst/rabo/takahata/ponpoko_ron.html

 思い込みが激しく、内省的な花の性格からして、とうとう生活が行き詰まった暁には山奥での一家心中も辞さないような危うさが常に漂っている。個人主義・自力救済に囚われやすい現代人の脆さを作品内に写したという点では、高畑勲の考え通りに「現代でこそ真価が発揮できる」作品となりえるかもしれない。地縁・血縁を持たない「狼人間」の悲惨な生き方は、現代人の個人主義にも通じるはずだ。*6
 高畑自身は、『ぽろぽろ』の中ですでに「個人文化に陥った現代人のハッピーエンド」を奥ゆかしく描いていた。それをもっとエンターテイメントに寄せたのが『おおかみこどもと雨と雪』であるとも評せるだろう。

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*1:ブランドイメージに関しては鈴木敏夫プロデューサーの存在を加えておくべきだろうか。自然や命をテーマにした、ファミリー映画の「優等生」ジブリ──、そんなブランドイメージで見られることを鈴木敏夫自身は否定しているが、彼がメディアとともに作り上げてきた装いであるのは確かだ。

*2:細田守監督:花のように「子を受け入れたい」 第1子誕生に喜び 「おおかみこども」トークショー - MANTANWEB http://mantan-web.jp/2012/10/13/20121013dog00m200027000c.html

*3:千と千尋の神隠し』の興行収入が304億円で記録を更新し、『ハウルの動く城』の196億円も『もののけ』を下回っていない。

*4:鈴木敏夫『仕事道楽』116・145・153頁より。

*5:http://www.yk.rim.or.jp/~rst/rabo/takahata/t_mokuji.html

*6:なお、地縁・血縁と同時にインターネットの繋がりも描いていた『サマーウォーズ』は、ちょうど『おおかみこども』とは対照的な「未来」の社会環境を描いていたと評せるだろう。