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 移行後のはてなブログ:izumino’s note

歴史的教養とフィクションの関係

 mixiのメモから転載。

歴史と漫画

 陳舜臣ものがたり史記』と横山光輝その名は101』を同時に読みながら考えていたことをメモしておく。
 以前、横山光輝の漫画には善悪の区切りというものがあんまり無い、みたいな記事を書いていたが、それは横山の世代の漫画家は歴史を参考にして物語を綴っていたからなのだろうな、という連想をしていた。

 歴史上の人物は「異説」や「異聞」が多く、実在の人物であれば人間臭い表裏があって当然で、特に『史記』を編纂した司馬遷の場合、どんな英雄的な人物であろうとも公平に「裏」まで描こうとするし、逆に悪人と決めつけて断罪することも少ない。横山作品は、史記が持つ「天道是か非か」の思想をそのままに受け継いていると言ってもいいかもしれない。

 ゼロから作られるフィクションの、「物語のテーマ的要求」によって人為的に創作される「正義」や「ヒーロー」とは違って、歴史の中に絶対的な正義が生まれることは無いわけで、そういった視点を基盤に持つ横山作品は、自然と無常さの漂う世界観を持つに至るのだろう。
 その上で、読者に「なんとなくこいつは正義の味方なのだ」と思い込ませてしまうテクニックの巧さ、なんかは演義小説(史劇)の書き手としての巧さに近い。横山漫画の主人公って、冷静に眺めてみると結構ヒドいことを平気でやっちゃう人達が多いのだが、何故か善人として描写しきっちゃうのが横山光輝の妙技なのだ(※誉めてます)。


 で、大雑把な話ではあるが、作家というものを、横山のように「歴史を教養として持つ」作家と「現実にモチーフを求める」作家と「フィクションを参考にして再生産する」作家との三種類に分けて考えてみたい。*1
 そういう意味では車田正美も、チャンピオンREDの人生相談で良く歴史の話(項羽と劉邦とか)を持ち出すのだけど、少年漫画家としては車田あたりがギリギリ「歴史を教養として漫画を描く」世代かもしれない。昔の「番長モノ」って、日本の武将や大名がモチーフとしてある筈だし。
 まぁ多分、車田が参考にするような「歴史」は物語として編み直された「史劇」の方だろうから、「天道是か非か」の思想も薄れて、堂々とヒーローや正義が描けるのかもしれない。


 『野望の王国』は政治やヤクザといった現実がモチーフとしてまずあったのだろうが、『DEATH NOTE』は漫画の再生産に近いと思う。
 『麻雀放浪記』は作者の実体験がモトだが、福本伸行の麻雀漫画は「ギャンブル漫画」というジャンルの拡大再生産(昇華)として生まれている印象が強い。

 今の漫画家は「いかに漫画というジャンルの中で(拡大)再生産していくか」という意識が(潜在的にでも)強いような気がするけども、ジャンルとしての「漫画」がそれほど成熟しておらず強固でもなかった頃の創作において、「歴史」が重要なポイントを占めていたであろうことを今更ながら感じる。
 無論、「フィクションの再生産」がそうじゃないものより悪い、などと言うわけではないが、こういうプリミティブな感覚は時々取り戻しておかないと次第にジャンルが淀んでいくんだろう。


 『Fate/stay night』あたりも、英霊の設定なんかは「いかにも漫画アニメゲームのフィクション世界にドップリ浸かったマニアの発想」であるとも同時に、歴史的教養を根っこにしてる点で言えば、横山や車田のような、作家としてプリミティブな感覚に戻ってるとも言えるんだろう。一面的に言えばの話。

*1:同じフィクションでも、いわゆる「古典」の類は「歴史」とさして変わらない代物かもしれないが。また、同一ジャンル内の作品を参考にするのと、他ジャンルの作品を参考にするのとでも様相は異なる