ネット時代のキャラクター論として、『ゴーストの条件』を読む
講談社BOX編集部さまからご恵投いただいてます。
読了したのは半月以上前に遡るのですが、『リトル・ピープルの時代』との読み比べエントリに続いて単独の読書感想をあげておきましょう。
ゴーストの条件 クラウドを巡礼する想像力 (講談社BOX) 村上 裕一 講談社 2011-09-02 売り上げランキング : 2699 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
本書は、去年のヱヴァ破座談会などでお付き合いのあった若手批評家、村上裕一さんの初の単著になります。
以前から「ゴーストについての本を書く」とは聞いていたのですが、具体的に「ゴーストとは何か」という話を伺ったことはなく、この『ゴーストの条件』で初めてその実体を学ぶことができました。
こぼれ話としては、「何か」や「伺か」が「ゴースト」という呼称に関わっていると聞いていた気もするのですが、書籍の中ではあえて触れてないみたいですね。
キャラクター論としての『ゴーストの条件』
さて。
ぼくは漫画論が専門なわけで、マンガ評論家・伊藤剛さんの『テヅカ・イズ・デッド』が引用される第一部第二章などは興味深く読むことができました。
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そこから展開されるキャラクター論として『ゴーストの条件』を読んだ、というのがぼくの関心領域からの率直な感想です。
その関心の範囲で本書の読解をしてみましょう。
まず、伊藤剛さんのキャラクター論といえば「キャラ/キャラクター」という区別を導入したことで知られています。
『ゴーストの条件』は、この「キャラ/キャラクター」概念を手がかり(のひとつ)にして独自のキャラクター論を展開していきます。
ところで『テヅカ・イズ・デッド』は「漫画論」として突き詰められているだけあって、普遍的な「キャラクター」全般に広げて論じているわけではありません。そのためか、キャラクター論としては結構とっつきづらい書き方がされているものです。
そんな伊藤剛の理論を、『ゴーストの条件』は「一般のキャラクター論」としてうまく咀嚼して論じ直すことに成功しています。まずそこを評価できるでしょう。
例えば、「キャラ/キャラクター」論の理解のさまたげになりやすい誤解のひとつに、「俳優(キャスト)とキャラクターの違いではないか?」という比喩で捉えようとするケースがあります。まぁこれは間違った理解です。
「キャラ」はあくまで、私達にとって「人格(のようなもの)を感じられる存在」という程度でしかなく、俳優のような「人間そのもの」に当てはまらないんですね。
一方、『ゴーストの条件』はこの違いに自覚的です。
例えばp189で、実在のタレントである「中川翔子」に触れているくだり。
「中川翔子」が女優として別々のキャラクターを演じる……、といった「キャスト/キャラクター」型の区別「ではなく」、中川翔子本人(=実際に人格を備えた存在)からキャラ(=人格のような存在)が分離していくという「キャラ/本人」で区別される可能性が論じられています。
オリジナルの「中川翔子本人」は、「キャラ/キャラクター」の前者(キャラ)よりもむしろ、後者(キャラクター)に属するものです。
「キャラ/キャラクター」論のそうした性質が、本書では正確に踏まえられている、と評せるでしょう。
「ゴーストとは何か?」という一読者のレポート
p195
我々は起源を持たないまま生まれてきた実在のことをゴーストと呼んだ。
実は「ゴーストとは何か」、という問いについて、直接説明するようなくだりが『ゴーストの条件』にはありません。
あるのはただ、「xはゴーストではないが、Aなどをゴーストと呼ぶ」「yはゴーストではないが、Bなどをゴーストと呼ぶ」といった逆接的な記述の羅列です。
評論としては、ちょっと個性的な論じ方ですね。
確固とした定義論よりも、さまざまな各論を列挙することで、むしろ「ゴーストとは何か」という問題を読者に考えさせるような形式を取っている……と言えるでしょうか。
というわけで、ぼくもぼくなりに咀嚼した「ゴースト」の問題をレポート的に提出してみたいと思います。
まず大前提として、ゴーストは「二次創作で利用されるキャラクター」と強い関わりがあります。
それでいて、従来イメージされるような「二次創作キャラクター」の在り方と、「ゴースト的なキャラクター」は決定的に異なるものである。その差異の発見が『ゴーストの条件』におけるキャラクター論の骨子と言えるでしょう。
ローカルとクラウドの間で
キーワードとなるのは「都市伝説的感性」と「クラウド上の辞書」というものです。
村上のゴースト論は「キャラクター論」でありつつも、そのキャラクターが立脚する「物語世界」の在り方(認識のされかた)に注目したところに特長があります。
先日の記事では、そのロジックについてこう解釈していました。
『リトル・ピープルの時代』と『ゴーストの条件』を読み比べる - ピアノ・ファイア『ゴーストの条件』と「もう一つの現実」
(中略)
自己生成される物語。
物語世界の全体像はユーザーの認知限界を容易に超えていくでしょう。
「オリジナル=原典」に遡ることが不可能になったまま、「クラウドの辞書」が共有されていく歴史。(中略)
『ゴーストの条件』p164
ある条件が揃ったとき、我々は虚構に極めて密度の高いリアリティを見出すということである。このとき生じるリアリティの高い虚構のことを「都市伝説的なもの」、そしてこのような都市伝説的なものを見出してしまう感覚を「都市伝説感性」と、改めて定義しておこう。
つまり『ゴーストの条件』においては、「都市伝説感性」によって認識されていく点において「クラウド上の世界もまた現実のようだ」と論じているのですね。(中略)
対する『ゴーストの条件』では、その世界のすべてを確認することなどできないという情報の広がりにリアリティを求め、それを「現実」と名指したのだと思われます。
このような「都市伝説」的感性が自立的に、ひとり歩きしていくことで、「大文字のメディア」から遊離した世界が認識されることになります。
このオルタナティブな世界を「クラウド型」の世界と称するなら、従来の「大文字のメディア」をどう呼ぶべきなのでしょう。
むりにIT用語からクラウドの対義語を求めるなら、「ローカル型」、「オンプレミス型」、「コロケーション型」の世界などと名付けることができるでしょうか。
2007年ごろになり、クラウド/SaaSがユーザーに受け入れらるようになると、従来の自社保有型スタイルを区別する必要が出てきたことから、「オンプレミス」という呼び名が使われるようになった。
オンプレミス − @IT情報マネジメント用語事典
- ※ローカルやオンプレミスではなく「ホスティング」や「コロケーション」で喩えた場合、原作者が出版事業者・公式スタッフらと共同で「公式のコンテンツ」を運営・管理している状態を示せるかもしれません。
用語の選択はともかく、原典や事実を基底(ベース)とした従来型の世界像に対して、原典から切り離された世界像を『ゴーストの条件』は想定します。
その実例として挙げられるのが、MMDのゲキド街、東方の幻想郷、ニコマス動画、ニコニコMUGENwiki、やる夫ファミリーなど。
いずれも作品数・作者数が膨大でとても数えきれるものではなく、ユーザーの認知限界を超えていることが特徴です。
書名に込められている通り、これはゴーストの「特徴」というよりもゴーストの「条件」と呼ぶべきかもしれません。
ただし、どれほどクラウド的に遊離していようとも、その多くが「公式に対する二次創作」として言及されることは免れえないでしょう。
事ここに至って、「二次創作のキャラとゴーストはどう違うの?」という素朴なクエスチョンが当然、発生します。
その問いに応えうるのが、ネット発のキャラクターであり、大文字のメディアにまったく依存せずに生まれたキャラクターである「やる夫」です。
彼は最も「ゴースト」の条件を満たした存在として考えることができます。
『ゴーストの条件』におけるゴースト論は、まずやる夫を「ゴースト」の基準とし、それ以外のゴーストたちを「やる夫的なキャラクター」という位置付けで紹介していると言えるでしょう。
つまり、
- やる夫に代表される純粋なゴースト
- やる夫的な半ゴースト
- 従来の二次創作のキャラクター
「原典」のヘゲモニー
やる夫ファミリーと対照的に紹介されるのが、2chのAA文化の前身であるモナーファミリーです。
その黎明期において閉じたアングラ性を内包していたことが『ゴーストの条件』で指摘されますが(p171)、そのアングラ性ゆえに、それぞれのキャラクターに対して「同一性を保とうとする」流れがあったという点で、やる夫ファミリーの在り方と差別化が可能です。
例えばぼくの記憶でも、クックルを登場させるAA職人の間で、「クックルを喋らせることは許せない」といった同調圧力が相応の正義を発揮していたように思います。一種の原理主義ですね。
つまりオリジナルとなる「原典」を争うヘゲモニーが、二次創作のキャラクターにはつきまといます。
このヘゲモニーは否定神学的であり、その「原理」は具体的に記述可能なものではないけれど、「◯◯はそんなことしない」の論法でもって逸脱を抑えつける圧力を伴うことでしょう。
しかし、キャラクター性の保持を志向していたモナーファミリーに対して、やる夫自身は常に可変的です。
よって、ゴーストは否定神学的なように見えて、そうではない、という説明がなされます。
p194(強調筆者)
なるほど、どの物語もがやる夫の中心たり得ないという点では作品たちは否定神学的にやる夫という共同体を作っているようではある。実際、ある微細なニュアンスの共有においてそれは確かにそのように見える。しかし実際はそうではない。全ての物語は即時的にやる夫の部品となり、全ての部品はその瞬接性においてゆるやかに一つのやる夫という共同体を形作る。ゆえにやる夫の全体性は常に更新され変化する。即ち、成長するのである。
この説明のくだりにおいて、モナーファミリーとの比較は特になされていないのですが、23頁前に書かれた記述と対応させることが可能だ、と考えました。
この「性格が破綻し」「活躍していた物語職人が離れてい」ったという現象からは、まさにモナーファミリーが「アイデンティティの可変性を拒もうとする共同体」であったことが窺えますね。
しかしやる夫や、やる夫に引き寄せられたキャラクターたちは可変性を拒まない。そもそも否定神学的な「原理」を必要としない。
そのような存在をゴーストと呼ぶわけです。
ゴーストに引き込まれる現代のキャラクター
そしてゴースト的な想像力は、やる夫のような「純粋なゴースト」以外にも波及していく、という側面があります。
「やる夫ファミリー」に含まれる泉こなた、柊かがみ、翠星石、水銀燈、長門有希、赤木しげるといった二次創作的なキャラクターたちも、やる夫スレの共同体に取り込まれることで、やる夫と同じゴーストのような扱われ方をしていくのでしょう。
いわば「半ゴースト」とでも呼べる在り方ですね。
単なる二次創作のキャラクターから、ゴーストへと生まれ変わる(死に変わる?)ボーダーがここにあります。
この半ゴーストと、純粋なゴーストが、区別なく舞い遊ぶ創作の作法をして「クラウドを巡礼する想像力」と名付けている──と、そう解してもよいでしょう。
スターシステムとの峻別
ここから先は、『ゴーストの条件』の文中で触れられていないことについて、個人的な補足を付け足していきます。
例えば、「ゴーストはスターシステムとどう違うのか?」、という問いに『ゴーストの条件』は答えていません。
この問いに関しては、村上裕一が2008年に編集を務めた同人誌、『最終批評神話』に寄稿された「いまだスター・システムは徘徊しているのか」(執筆者は転叫院)を参考にすることができます。
『最強批評神話』p84-85(強調筆者)
ミッキーマウスは様々なディズニー作品の物語を横断するし、ヒゲオヤジは様々な手塚治作品の物語を横断する。しかし、それがデータベース的消費における「キャラクターの物語からの独立」と異なっているのは、それらのキャラクターはあくまで、「ディズニー作品」を横断し「手塚治作品」を横断しているのであって、彼らが属しているのはあくまで「ディズニー作品」なり「手塚治作品」なりという、大きな「作品世界」という名の物語の中であるということだ。(中略)一方、データベース的消費の時代においては、二次創作という形で作者の超越性・作家性を消失させることが可能になったのであり、これはスター・システムとの重要な差異である。
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つまり、過去のスターシステムにおいて、スターとしてのキャラクターは「公式の」「一次創作として」複製されるのであって、二次創作・n次創作を前提とする現代のキャラクターとはそこが異なるのだ、という論旨ですね。
村上のゴースト論は、この指摘を折り込み済みにして書かれたものとして読んでいいでしょう。
ゴーストは起源を持たない、という意味では確かに「ゴースト≠スターシステム」という理解に落ち着くことができます。
ただ付け加えておくべきは、やる夫スレの作家たちは自分たちの創作手法を「スターシステム」のそれだと認識しているようだ……ということです。
事実、「やる夫 スターシステム」でWeb検索すると、当事者による証言を見付けることができます。
やる夫スレはスターシステムの手法を使っています
やる夫スレのやり方を俺に教えてくれ!!
他作品や有名人のAAに依存しているものが多く、立場や性格も作品に合わせた「スターシステム」の形で配役がなされている。
ニコニコMUGENwiki - やる夫
他にも色々キャラクターは出てくるが大まかに性格や役割が決まっている、いわゆるスターシステムみたいなものだな(^_^;)
温泉ダーツ〜晴れたり曇ったり〜:ちょっっっっw やらない夫がきてた( ̄▽ ̄;;;
このあたりは、私達が厳密な語義に従って「スターシステム」という言葉を使っているのではなく、現代に応じた広い意味でスターシステムと呼んでいると考えた方がよいのでしょうね。
ストック・キャラクターと歴史人物
さらに検証すべき問題として、ストック・キャラクターや、キャラクター化した歴史人物たちの振る舞いがあります。
『ゴーストの条件』は主に(著者がリアルタイムで消費したであろう)90年代〜00年代の創作物に論が絞られており、系譜学的な差異の検証には乏しいと言ってもいいでしょう。
それは比較を重ねていくことで、また新たな発見や、新たな議論の契機が得られるかもしれません。しかしまだそこまでの議論には達していないようです。
本エントリでも問題提議をするにとどめ、ここで筆を止めておこうと思います。
終わりに
以上はあくまで、泉信行による「解釈」です。「要約」や「解説」などではありません。その一点はご了承ください。
また長々と書き連ねてきましたが、最後にひとつだけ注意しておくと、『ゴーストの条件』は「ゴースト論」と対になった「水子論」と併せて読むべき書です。
村上が「水子」と呼ぶそれは、「ゴースト」の裏面であって──ゴースト論の応用発展などではなく、陰陽の関係にある「B面」だと感じました──、その両面でもって完結する本なのですね。
キャラクター論の書として「ゴースト論」のみを理解するのもよいのですが、ゴーストと水子という、亡霊の両面を理解してはじめて『ゴーストの条件』は読了したことになるわけです。
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