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マックス・リューティ『昔話の本質』メモ その2

 真の現実は常に非現実的なものである。(フランツ・カフカ

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  • 「解釈」の方はまだ読んでないのですが、調べてみたら図書館に置いてあるようなので今度借りに行きます


 みやもさんのメモに、

■ディテールがしっかりしすぎている記述は昔話の力強く豊かな感化力を損なう。
 詳細なものは繊細であり、繊細なものは脆弱である。

■昔話は金属的なもの、硬質なもの、形のはっきりしたものを好む。
 具体的には金銀、宝石、ガラス、水晶、刀剣、城、箱などなど。
 それらは時間の流れによく耐える"壊れにくさ"と"明確さ"の象徴であり、その明快なイメージに触れることで昔話を聞く人々は、時代を超えた何かを受け取ることになる。

……とあり、ぼくも前回の記事で、象徴的な事柄を語る「昔話」は情景などのディティールを語ろうとしないことについて触れた。


 リューティは昔話で語られる物事が現実性を失い、重さを失っていく現象を「昇華作用」とも呼んでいて、なかなか興味深いフレーズだと思う。
 この場合の「昇華」とは、アウフヘーベン止揚)や自己実現を意味する方の「昇華」ではなく、個体が気体へと状態変化する方の「昇華」であるようだ。


 『聖闘士星矢』の黄金聖闘衣や青銅聖闘衣が、現実の重みを持たない金属であることを思い出してみよ。「光の速さで繰り出されるパンチ」という技の表現が、相対性理論と無縁なものとして行われることを考えてみよ。

昔話の感化的効用

 昔話は常に現実のものではなく、現実の「象徴」を描く。そうした前提を受け入れた上で、以下の文章に目を通してみてほしい。

p74

昔話から流れ出る信頼は、昔話を語ったり、聞いたりする人々に移る。であるから、子どもが夢中になるだけでなく、大人もその魅力に捕らえられることが多いのは、けっして不思議ではない。昔話は人を喜ばすだけではない。人を形成し、はげます。北ドイツのある語り手が、病院で昔話をすると静める力、治す力が病人に働くようだ、と報告しているが、私たちはこれを信じたい。

p95

そういう物語は次のようなことを暗に指しているのではなかろうか、とノヴァーリスは問うているのである。「人間が自分自身に打ち勝つならば、人間はまた自然にも打ち勝ち、奇蹟が行われる。熊は愛された瞬間に王子に変身するが、人間がこの世の悪を愛するとしたら、あるいは同じような変化が起こるかもしれない。」付け加えていうならば、昔話が私たちにそういうことをほのめかすのに用いている人物は、道徳的な説教よりもはるかに強く聞き手の魂に作用する。

 物語に合理性やリアリズムを求める向きのある人間や、子供向けの物語は子供騙しだから大人の観賞に耐えないなどと平気で考えられる人は、こうした「効用」の意義や価値を良く吟味して考えを正すべきだろう。




p156

 ところで、そういう話を聞かされて子どもは何かうるところがあるか、と問う人があるかも知れない。本当に魔女の話で子どもの想像力をかき立ててよいものであろうか。差支えない。それどころか、そうしなくてはならないのである。昔話に出てくる魔女や悪魔や悪漢は、子どもにとっては悪の象徴である。子どもはそれらの姿を通じて悪の危険を体験する。それからまた、悪は負かされること、それどころかひょっとすると悪は変えられるかも知れないことを経験する。

p157-158

とにかく昔話ではあらゆるものが写実的でなく、様式化されて描かれている。それだけにますます、悪い人物が生きた人間としてではなく、悪の象徴と感じられるのである。ヘンゼルとグレーテルは魔女をやっつけることによって、単に年取った悪い女に打ち勝つのではなく、悪そのものに打ち勝つのである。(中略)
 昔話は本質的な生の過程を描いているような気がする。征服、危険にさらすこと、没落、救済、発展、成熟、展開が非現実的な、しかしそれだからこそ魅力のある人物の姿を通じて、私たちの心の眼の前で演じられる。

 これはぼく自身による最近の着想なのだが、バトル漫画などで「特に根拠もなく精神論だけで正義が悪に勝つ」という筋書きがあったとする。その場合、その物語を「勝算が無くても悪に勝つことができる」という無根拠な幻想を広めるようなものだ、などと解釈し糾弾するのは誤りなのだ。


 そういう話というのは、「こうすれば悪に勝つことができる」という「勝因」や「手順」を描くことが目的ではなく、「どんな理由があろうと悪には勝たなければならない」という「責務」や、「どんな悪でも必ず滅びる」という「世界律(ルール)」を感じさせることに意義があるのだと思う。


 勝因をはっきり書いてしまうと、その「勝たなければならない」という責務の感化力がボヤけてしまうし、受け手の興味は「勝ち方のもっともらしさ」にのみ注がれることになりかねない。
 「勝たなければならない」という使命感や強迫観念を受け手が感じなくなり、「どう勝つのか」でしかバトルもののストーリーが評価されなくなるというのは、「頭を使って勝つバトル漫画」の弊害だよ、というのは常々良く思うことだ。
 「勝ち方」などというのは、物語の登場人物一人一人に固有のものでしかなく、受け手への広がりが薄いものなのだから。


 「勝ち方」を眺めるのは楽しいかもしれないが、ひとしきり楽しんだ後、受け手(とりわけ子供)に益する所があまり残らないのが、「勝ち方のディティールにこだわったバトル漫画」なのだと言ってもいい。
 知能バトルの魅力を漫画のウリにしたい場合は、ほどよくバトルの内容を「昇華」させ、現実を象徴化していることが望ましい。横山光輝のバトル漫画全般や、最近では『テニスの王子様』などが、うまく昇華作用を起こしたバトルを見せてくれる例だろう。

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 特に合理的な理由も無く勝つからこそ、「どうしても勝たなければならないものってのがあるんだな、そしてその勝ち方は自分で導き出さなければならないんだな」「むしろ勝ち負けに関係無く戦わなければならない状況ってのがあるものなんだ」という精神が受け手に伝えられるはずで、優れた少年漫画、ヒーローもの、バトルものというのは、おおむね非合理的な理由で勝利へと辿り着く。


 もしあなたが「いや、あれは合理的に勝ったはずだ」と解釈していたとしたら、それはストーリーの勢いに騙されて、「合理的な勝ち方だったと思い込んでいた」ケースが多いだろう。
 よくよく見ると、「勝たなくてはならないから勝った」という以上の根拠が見当たらないようなケースは珍しくない。そうした物語が教えてくれるのは「利口な勝ち方」などではない――「どうしても戦わなくてはならない時は戦わなくてはならない」というこの世のルールであり、「どうしても勝たなくてはならない時はなんとしてでも勝たなくてはならない」という責務や使命なのだ。
 優れて象徴化された物語は、リアリズムの世界ではなく「天意」や「天命」の世界を描く。


 「昔話」というお題からはそれてきましたが、もう一回続きます。