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石川賢『虚無戦記』感想

 またmixiから転載の手抜き更新で。

06月16日 『虚無戦記』読破

 SF狂を自称する作者がクラークの『幼年期の終わり』とか小松左京の『果てしない流れの果てに』あたりの「外宇宙」を志向するタイプのSFに東洋哲学的なバカでかいスケール感を加えた電波漫画。おそらく「漫画」が表現した「スケール」の中では最大規模の内のひとつに加えられるであろう。間違いなく。
 仏教や道家の思想にも「想像を絶するスケールってもんが存在しうることを、お前らも知っとくといいよ」、という教えが繰り返し登場するんだけど、漫画界における『虚無戦記』は、まさに燕雀にとっての大鵬井の中の蛙にとっての大海、といった存在なのではなかろうか、とその壮大さの前にひれ伏すばかり。


 また、「作者の体力が尽きた」としか思えない終わり方は、いかに「漫画を描く」という行為が「漫画の中の世界の大きさ vs 作者の精神の大きさ」という「精神力の戦い」であるかを思い知らされる。それでも石川賢の「漫画力」の器のデカさは圧倒的ですらある。万人に好まれる漫画を描いてるわけじゃあ決してないんだけど、凄いもんは凄い。
 あと、それを全然ハナにかけてない所も嫌味が無くて良いね。*1


 ところでSFの定義は人によって違うわけだけど、「人間の想像力を超えたものを描く」「人類がいまだ辿り着けない世界を描く」という意味では正道のSF漫画なんだと思う。それは『ゲッターロボ號』を描いてしまった石川賢が必然的に辿り着いた境地のようにも思える。

 少し話を脱線させると、この手の「SF漫画」は「少年漫画」の対立軸にあると考えてもいいんじゃないかと私見(というか偏見だけど)。
 物語的/描写的な破綻はいくらでも許されても、「感情レベルのリアリティ」はギリギリで保たなければならないのが少年漫画。反対にSFは「伝えたいビジョン」の提示さえできれば感情のリアリティとかは無視して構わない、みたいな。
 だから『ゲッターロボ』は少年漫画だけど『ゲッターロボ號』はSF漫画なんだろうなぁ、とか考えてみる。


 ちなみに一番好きな描写は(虚無戦記のテーマ自体とは関係ない部分だけど)やっぱり爆裂拳の初登場シーン、


「爆裂の拳が音速を超えた…… その時 すべてのものは爆裂!!」

の演出だなあ。何の説明もしてないのに説得力ありすぎ。何の文句のつけようもありません。手からレーザーメスみたいなのが噴き出るシーンも大好きですが。*2
 アクション漫画好きは必見。間違いなく大量のエピゴーネンを生み出している筈(……多分)。

 ところで読後にふと思ったことなんですが、自分の顔は結構「石川キャラに居そう」なデザインをしている気がしたり。元々「庵野に似てますね」「むしろ初号機に似てますよね」とか言われるスパロボ顔だしなあ。

*1:これは、永井豪という大きすぎる存在が目の前に立ちはだかっているってのが大きいと思いますが

*2:その時の説明が「光(オーラ)が線になった時 目の前のものはすべて…切る!!」さっぱりワガリマゼン