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 移行後のはてなブログ:izumino’s note

昨日の事後処理

 既に鎮火しているようですが事後処理します。ここから別の話題に発展させられるならそれはそれで。

  • 感情レベルの「嫌いだから擁護しない」について

 ぼくも自分の意見がその時々によって変わる不安定な人間ですから(大抵の人はそうだと思いますが)、必ずしも「その作品自体の嫌悪する感覚>>魔女狩り的なバッシングを嫌悪する感覚」という優先順位で感情を持つわけじゃないだろうなと思います。むしろ「魔女狩り的なバッシングを嫌悪する感覚>>>(超えられない壁)>>>その作品自体の嫌悪する感覚」という地雷犬さんの感じ方の方が自然で健全なんじゃあ? と、自分がよく解らなくなったりも。


 ひとつおかえししておきますと、ぼくは地雷犬さんの言う「嫌いな作品の関係者が犯罪で捕まったらヤッター」という感覚にはまったく共感が持てなかったんですよね。それはぼくの場合「作品の評価は作品の評価、作者の評価は作者の評価であって、作者がどんな人格破綻者やったり犯罪者やったりしようがそれと作品の善し悪しは何の関係も無いやろうが!」という感覚が優先して出てくるからなんですけど(作者本人に恨みがあるなら別。単に打ち切りが嬉しい、ってのはあるかもしれない)。
 地雷犬さんが「嫌いな作品が訴えられてヤッター」という感じ方に、最初まったく共感できなかったというのはこれと同じこと(「魔女狩り(略)感覚」が優先して出てくるから)なんじゃないかと想像しています。
 まぁだから、人やTPOによって色んな感じ方があるぜ、ということですかね。

  • 「正しい教育法」について

 リアルの親御さんからもコメントいただいたりして恐縮です。
 「正しい」という言葉には「正しいことをみんながやれるわけじゃない」という含みもあります。理想論としての「正しい」でした。
 なぜ「何も与えない」ことを理想的だと思うかというと、多分ぼくの憧れもあるんじゃないかと。放任主義で育てられた末っ子なんで、規律のある教育はいいもののように思えます(あと、『老子』の読み過ぎなんだな。無闇な刺激で欲望をかき立てるな、っていう教えがあるから)。
 反動でオタクになっちゃうっていうのは実際そうみたいですね(子供の頃おもちゃを買って貰えなかったらしく、今は自分の金で買う癖がついちゃった友達が居る)。でも、成人してから濃いオタクになったことを後悔するかどうかは、本人の価値観次第のような気も。


 躾の善し悪しについては吉本芸人の今田耕司宇治原史規(ロザンのツッコミの方)の話を思い出しました。二人とも、アホみたいに躾の厳しい家に育てられて、それは良く似た教育法だったらしいのですが、今田は途中でブチ切れてグレまくった一方、宇治原はそのまま素直〜に勉強して京大生、っていう(職業に漫才師を選んだのは躾の反動だったかもしれませんが)。
 つまり子育てに王道無しであって、何がうまくいくか、悪い影響を与えるかなんて解らない以上「これはうまくいくかもしれない」ということだけができるんでしょう。
 スナドリネコさんも「生き物にそうすることが正しいことをやれるかな。俺達にできるのはそうしてもいいことだけだろう」と言ってますしね(唐突に劇場版『ぼのぼの』から引用)。