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 移行後のはてなブログ:izumino’s note

ペトロニウスさんによるスクラン話、それに対するレス

 先日の記事(「読者に気付かれないような仕掛け」を作品に入れることの価値は?)で、ペトロニウスさんの発言を勝手に使ってしまったのですが、ご本人から直接言及して頂けました。
 いつもどうもありがとうございます。
 詳しくはそちらの記事をまず読んで頂くとして……、

小林尽はなんでここまで深い読解力を読者に要求するんですか?(1)|物語三昧〜できればより深く物語を楽しむために

…………。


 読みました?


 ではぼくの方から、ちょっと付け加えさせて頂きますね。
 まず、肝心のこの言葉から。

小林尽はなんでここまで深い読解力を読者に要求するんですか?

 とりあえずこれは、少し訂正が必要な言葉かもしれません。
 普通に考えれば、「意識的に要求している」わけではなさそうですよね?


 「作者の意図」を考えようとした場合、「意図してやっている部分」と「仕方無くそうなる部分」を細かく分けて考えていく必要があります
 そしてスクランの場合、「仕方無くそうなる」と考えた場合、納得のいく部分が多いような気がします。
 あの恐るべき「説明の少なさ」は、スクランという作品がどういう連載なのかを考えてみれば、理解できることではあるんですね。

  • ショートコミックで毎回オチをつけて
  • 週刊誌の読者を毎週満足させ
  • 月刊誌との併行連載という、ただでさえストーリーの掴みづらいスタイルで
  • 大きな流れのストーリーを動かしながら
  • 群像劇を転がしていく
  • (しかもいつの間にか、天下のマガジンの人気作というポジションになってる状態で)

……という、まともな漫画家が聞いたら頭がおかしくなってきそうな難題を課せられている以上、「必要な情報を全部細かく説明する」という努力を、早々に諦めたことは想像にかたくありません。
 文化祭編に入るあたりから、「なんとなく感性で伝わればオッケー」的な描き方にシフトしているような印象が強く、その時点から「感性でなんとなく」という受け取り方が苦手な読者にとっては、読みにくい漫画になっていったのでしょう。
 作者サイドの選択としては、「毎回オチのあるショートギャグ漫画」「とりあえず美少女が登場する漫画」という体裁を残すことで、「細かいニュアンスが伝わらなくてもギャグ漫画(萌え漫画)として読める」という、ダブルスタンダードな読まれ方を選んだのだろう、という推測もできるかもしれません。


 「ストーリーにおける細かいニュアンス」を連載で伝えることを(ほぼ)諦める、ということは、「単行本を買って読んだ時に理解してもらおう」、というスタンスに繋がります。
(ちなみに、ここでいう「単行本で読んだ時の理解」っていうのは、反復リストを用いるような「深い読み方」ではなく、普通に漫画を読む楽しみ方を指しています。)


 しかし「雑誌連載の読まれ方」と「単行本の読まれ方」がダブルスタンダード化して別れていってしまうというのは、ちょっと問題があると思いますし、ネット上の感想などは「雑誌派」の感想が大多数を占めている以上、まっとうな評価も遅れてしまいかねません(これは事実その通りになったと思います)。
 作者サイドとしては、苦渋の選択だったような気もします。


 また、上記のような「仕方の無さ」に加え、作者のシャイな性格が、ちょうど「説明の少ない」作風を助長させたように思える所もあります。
 本人は、かなり色々ストーリーを考えていて、反復構造なども意識的にやっているのでしょうが、「全部説明してしまうのは照れる」「わかる人にだけわかってもらえればいい」的に抑制されている印象などは、良く感じる所でしょう。
 これは善し悪しのある問題だと思うのですが……、でも、そういった作者のセンスが「読み込み甲斐のある」微妙な情報のバランスを作っていることも確かかもしれません。


 では次のお題。

実は、この反復とか暗示とか対比なんてのは、実はこの作品を読み解くために基礎研究に当たるにすぎない、初歩オブ初歩です。これがまず認識されていないと、そもそもこの作品の文脈・・・コンテクストが理解できないので、スタート地点にすら立っていない。・・すげぇマンガだ(笑)。

 実はこれが、まさにその通りだと思います。
 自分で言うのもなんなんですが、ペトロニウスさんがそう言ってくれているので、そのまま言葉にのっかることにします(笑)。
 読み方、というのは「リテラシー(literacy:識字能力,教養)」と同じ意味ですが、「文字が読めるようになる」のと「そのテクストの意味を掴む」ことは、まるっきり別だと思います。
 更に言えば、

そして、、、、さらに主観間を説明なしに連続でうつりかわる感情移入の技法が異様に高度化した手法を読みこなし…そこで初めて、議論がスタートするのだ(笑)。

……こっちの方の「読み方」を、このサイトではまだ書いていません(漫画の表現論的な話なので)。要するに、この「反復リスト」だけでは「初歩の50%」に過ぎなかったりするわけです。
 うーん、自分で書いてて、何ふざけたことを言ってんだろうという気がしてきた(笑)。まぁ、続けます。


 で、「読めるようになった」その後に、「何を感じ取るか」。それが問題でしょう。
 これは逆に言えば、「同じ読み方を使っても、感じ取れるものは人によって違ってくる」ということじゃないですか?
 例えば、

ちなみに、まだ理由はぜんぜんわからないのだが、、、いずみのさんの解説を読んで、、、実は、異様に高野が、八雲に優しいのがわかった。。。。この視点だけで、僕は泣きそうだもん。(ここはあえて説明しないので、調べてみてください)。

ペトロニウスさんがこういう感想を抱くようになった過程は、ちょっと解らなかったりするんですね(笑)。
 いや、そのあたりの話はした覚えがあるし、大体想像はつくんですが……。その結論に至る過程は、ペトロニウスさん自身によるものだろうと思います。


 最後に、ちょっと気を付けてほしいのは、こういった読み方はマニアックではあるけども、「いずみのの独創的な読み込み方」などではなくて、「与えられた作品を吟味することで、自然と導かれる読み方」である、ということです。
 ここは、この議論をする上で非常に重要なポイントだと考えています。
 「そこに描かれた出来事」を、筋道に沿って理解することで生まれる、「物語を読む快楽」だと思います。
 斜に構えて眺めたり、作品をいじり回すことによって生まれる「分解する快楽」(二次創作的な快楽と言ってもいいかも)とは違うものである筈です。


 ペトロニウスさんが言うような、スクランすげーーーー面白いよ」っていうくらいの快楽は、ファン活動や、同人活動とか、メディアミックスへの参加などでも手に入るものかもしれません……というかまぁ、手に入るものですね、はい。スクランの同人誌を読むだけで、人生最高クラスに感動することもありますからね。ねぇはらはらさん(笑)。


 しかし、それらの快楽と、

こういう暗黙のハイコンテクストな作品は、読み解いて、それが一致したとき・・・ふかぁーーーい感動が訪れる。こういう物語体験ができると、人生幸せだよね。

……というような「物語を読む快楽」は、いささか異なるものかもしれません。

 うーん、まだこの問題は考え中でもありますので、今日はここで終わらせておくことにしますね(途中からスクランとは関係無い話になってしまいました。すみません)。


 ちなみにスクラン自体の物語構造については、

  • 「因果性(コーザリティ)の物語」と「共時性シンクロニシティ)の物語」
  • 「余剰をいかに作り出すか?」という問題

といったテーマでちょっと考えていることもあります。それもまた、いずれ機会があれば書くことがあるかもしれません。