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女装っ子萌えについて

izumino2003-12-14

 考えてみる。
 それにはまず、90年代におけるロリ/ショタ漫画の読まれ方を手がかりにしなければならない。
 美少女漫画において自己愛に最も近しかったのがロリ/ショタであり、女装っ子はそこからはみ出した最先端にあると感じるからだ。
 それは「自己愛」を巡る歴史だ。
 愛情には自己愛以外の愛情が存在しない、と言われる。もちろん自己愛を克服しようとした延長線上に他者愛や異性愛が存在するのだが、その根本に自己愛が根ざしていることには違いない。つまり、愛と向き合おうとするなら、自己愛と向き合わなければならない。
 ちなみにこれはぼくの妄想の歴史であって、一般論ではない。あと、ここで言う女装っ子とは、完全な脳内のフィクションとした方がいいと思う。現実にそんな美少年は居ないし、居たところで多分ぼくはどうとも思わない。全ては漫画なのだ。
 

 一般に「ロリエロ漫画」「鬼畜ロリ」というと、ペドファイル御用達の幼児性愛漫画というイメージがあるかもしれないが、悪食がウリモノである「美少女漫画読み」にとってはそうではなかった。
 確かに作者は真性のロリコンである場合も多かったが、「ヒロインに感情移入する」ことを読み方の主軸とした美少女漫画読者は、ロリコンである必要が無かったからだ。
 同時に、ショタエロの読者がホモばかりかと言えば、それは大きな間違いである。彼らは「悪食」の一環としてロリ/ショタを摂取していたにすぎないか、これから述べるような方法でショタエロを愛読していた。


 かつて永山薫や児玉和也が指摘したように、美少女漫画における幼女とは「去勢された少年」だった。バストや腰のくびれを持たない幼児の体型は、「女性に変化する前の少女のそれ」ではなく、性的に未分化な「ちんこを持たない少年の身体」として「意図的に誤読*1」されていた。つまり作品の中で虐待され、絶望の淵に追いやられ、なおも生きようとする幼女の姿は、他ならない「可愛くてちんこを持たない自分」の投影なのだ。ロリエロ漫画において、短髪でボーイッシュな「スポーツ少女」が比較的好まれたのも、そこに少年としての自分を投影しやすかったからだろう。


 このような位相逆転を経て、90年代後半、美少女漫画読みはショタコンを発見する。「可愛い自分」に感情移入できるのであれば、ちんこの有無が問題にならなくなってくるのだ。むしろ、そのちんこそのものを愛おしいと感じさせることが求められた。
 そしてショタエロにおいて、自己愛は完全に「完結」してしまう。自分の中で完全に一回転して、そこから先に向かう必要がどこにも無くなってしまう。


 しかし、その世界にはどこまで行っても一人しか居ない。いや、テクノでパンクでメタリックな世界観が求められた90年代なら、その「どこまで行っても一人」の世界でも良かったのだが、00年代は再びコミュニケーションが騒がれだした時代でもある。
 自己愛で完結した世界よりも、愛されたり愛したりすることが望まれるようになる。


 世界に愛されることを目指したのが「ショタオネ*2」ではないだろうか。もちろんショタと男の絡みを見たくない、というホモフォビアによる必然性もあったかもしれないが、やはり自己完結するよりも他者=異性に愛される方向を求めだしたのではないだろうか。ただし、視点はあくまでもショタ側に固定されているという、ナルシスティックな手つきをそのままにして。


 反対に、自己愛に最も近い形*3で、誰かを愛そうとしたのが女装っ子萌えではないだろうか。
 ぼく個人の女装っ子萌えは、一般にイメージされるような「自分も女装したい(=可愛くなりたい)」という欲求とは遠ざかっている。「自己」はキャラクターにそのまま投影されるのではなく、「外側」の視点に戻っていると、ぼくは感じる。
 女装っ子は中身は少年だが、ショタに比べて年齢が高めに設定されることが多い(=自分に近い存在である)。しかしその外見はどこから見ても女の子なのだ。だから「まるで他者のように」愛することができる。女性ではないから、都合の良い性格に設定できる。
 その一点で、女装っ子に萌えるということは、現時点でほぼ完璧な「他者愛」を成功させている。

  • 余談

 まだぼくが発見していないだけか、それとも単純に、世の「ブリジットたんエロ」が肌に合わなかったせいか、女装っ子萌えはセックスを必要としていないように思える。
 これについてはまだ検討中だが、多分「やおいはセックスを必要とするのに、GLはセックスを必要としない」という仕組みと近いモデルに納めることができると思う。
 ただ、GLは双方向的かつシンメトリーな愛情を持ちえるのに対して、女装っ子萌えは互いにアシメトリーな愛情しか持ちえない(一方が必ず男役を演じなければならない)、という違いはある。

*1:ここで作者の意図は問題とされない

*2:ショタっ子がお姉さんに責められる、という漫画のパターン。視点が「お姉さん」ではなく「少年」に向けられるのが特徴

*3:自己愛から最も遠い形は「家族に似ていない女性を愛すること」だろう