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同性/異性をめぐる恋愛表現と、「気持ちがわかる」という視点

美術手帖 2014年 12月号美術手帖 2014年 12月号
美術手帖編集部

美術出版社 2014-11-17
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 去年発売され、好評だった『美術手帖』のボーイズラブ特集ですが、泉も漫画研究のサイドから、特集ページの一番最後に論考を載せていただいていました。

『美術手帖』2014年12月号のボーイズラブ特集に「恋の心のシミュレート―同/異性をめぐるキャラクターの表現」を寄稿しました - ピアノ・ファイア


 編集部からのオーダーには、泉が『漫画をめくる冒険』で展開していたようなメディア表現論を用いることが含まれていました。
 それを受けて、最初に考えたコンセプトも「BL論」というよりも「メディア論を主にしつつBLを分析対象に入れる論」だったものです。


 具体的には、草稿段階での序文にあたるのが、以下のような書き出しでした(一部の記述は、掲載版と重なります)。

恋愛ものの普遍性

 BL(ボーイズラブ)とは、どう表現され、どう読まれるのか。本論はそれをテーマにしています。
 そこで注意したいのは、BLそれ自体を特権視することなく、広い意味での恋愛表現のひとつとして捉えたいということです。
 マイノリティの性の物語を取り扱ううえで、「それを特権視しない」ことが、将来的な公正さにも繋がるだろうと思えるからです。
 ですから、多くのラブコメラブロマンスの一部として、同性同士の恋愛がどう表現され読まれるかを論じようとしています。
 純粋な「BL論」というよりも、どちらかというと、多岐の性別の組み合わせをひっくるめた、広義の恋愛/性愛の表現を分析した上で、その中でBLを特徴付けていくことが望ましいでしょう。
 本当なら多くの恋愛と同じように描かれ、多くの恋愛と同じように読まれ、論じられたらいい──。BLの特権視を避けるとしたら、そんな主張も込めることになるでしょうか。


 お察しいただけるかもしれませんが、「BL専門」の腐女子ではなく、いわば「雑食」を名乗るタイプの腐女子にもBLは読まれているのだ、という状況を含めて考えられています。


 ただし紙幅の限界というのがありまして、大部分を削った上で、BLについて触れた部分を膨らませて残す、という結果になりました。
 ですが、BL論を切り口に、実際はもっと広く展開できる視点論/メディア論を想定していたので、その大きく削った部分もいずれ公開した方がいいだろうと考え、以下から改稿バージョンを掲載してみたいと思います。

性による読まれ方

 BL作品の多くは女性客を想定し、女性によって描かれます。そこから、BLは「女性文化」のひとつとして捉えることができるでしょう。
 そこではどうしても「女性が思う男性」を描くことになり、その女性性をもってジャンルの特徴とすることもできます。実際、男性向けのゲイポルノはBLと区別しなければ話が混乱してしまう……、とは多くの人が感じるのではないでしょうか。


 つまりBLは、先述したような「多岐の性別の組み合わせ」の一種として語り終えることもできず、女性によって描かれ女性に読まれるという、文化背景にこそジャンルの特徴があるようです。
 それを広げて言えば、「どの性がどの性に向けて描き、どの性に読まれるか」は、あらゆる恋愛表現においても無視できない問題だということでもあります。


 さらに「読者(受け手)」というものは、「想定読者」と「実際の読者」に分ける必要があります。
 少女漫画やBLを読むのが好きな男性もいれば、男性向けポルノを進んで楽しむ女性もいるのが受け手の実態ですから。
 それは当たり前のような話ですし、個々に述べるよりも一覧にして並べて見てみましょう。
 これらは、当然のように発生することでありながら、普段は深く意識されにくい観点ではないでしょうか。

  • カップリングの性別の組み合わせ
    • 男×男 BL
    • 女×女 GL
    • 男×女 その他
  • ※ここでの男と女は、主に「生物学的性」でいう男女を指す
  • 「作者・想定読者・実際の読者」の組み合わせ
    • 男→男→男 男性向けと男性客
    • 男→男⇒女 男性向けと女性客
  • ※少年漫画、成人向けコミックほか
    • 女→男→男 女性作家の男性向けと男性客
    • 女→男⇒女 女性作家の男性向けと女性客
  • ※同上
    • 女→女→女 女性向けと女性客
    • 女→女⇒男 女性向けと男性客
  • ※少女漫画、TL、BLほか
    • 男→女→女 男性作家の女性向けと女性客
    • 男→女⇒男 男性作家の女性向けと男性客
  • ※少女漫画での例は希少だが、少女アニメや女性向けゲームなど
    • 男→両→両 男性作家の両性向けと両性の客
    • 女→両→両 女性作家の両性向けと両性の客
  • ※一般ラブコメの他、GLもここに入りやすい


 「⇒」の矢印は想定されていない受け手に作品が届くことを表しますが、その「想定されていない」ということを、受け手側が自覚しているケースや、無自覚なケースがあります。


 ご覧のとおり、作者と受け手の組み合わせは、カップリングの組み合わせより多様で複雑です。
 さらにここでいう「男女」とは、もちろん本人のセクシュアリティでさらに細かく分けられることになるでしょう。

恋の心のシミュレート

 そこで「恋心のシミュレート」という視点から考えてみましょう。


 もっともシンプルな理解がたやすいのは、同性愛者が同性の同性愛を同性の同性愛者に向けて描く、という表現です。
 『美術手帖』でも取材されていた、田亀源五郎さんのゲイコミックなどが分かりやすいでしょうか。その表現が自然に行われ自然に読まれうるだろうということは、特に難しく考えなくても想像しやすいと思います。
 逆に言えば、このシンプルさの中に「異性の受け手」や「異性の異性愛」が交じるごとに多層な読みが増していくことでしょう。*1


 なぜなら、恋愛ドラマの多くは、カップルとなる二人組双方の内面を表現しようとするものだから。
 特に漫画は、二人以上のキャラクターの内面を同時に描きやすいメディアであって、複数のモノローグや心理描写が同時進行することが珍しくありません。
 そこでもし異性同士のカップルを登場させたならば、「片方のキャラクターの心理描写は作者や受け手の性と異なる」という状況が必ず発生するでしょう。


 一般に、恋愛ドラマは「自分と同性のキャラクターに観客は感情移入する」と思われがちです。しかし本当にそういうものでしょうか?
 異性に感じる恋心というものは、ただ客観的に「この子は可愛い、私は好きだ」と想いを向けるだけでなく、「これは私のこと好きなのかな?」と相手の内面が伝わってくることからも始まるのですし、性愛にしても「気持ち良さそうだ」「痛そうだ」「恥ずかしがっている」などといった共感作用が働かなければ深い関係に達しにくいものです。
 特にポルノ作品では、「異性が感じているだろう気持ちよさ」はとても重要なファクターで、異性が気持ちよさそうだから、受け手の私も気持ちよさを感じる、という構造が欠かせません。

表現する作品、表象する受け手

 ですから、物語を読む際の「理解」や「共感」を、ごく単純に「キャラの気持ちがわかる」という心の働きとして捉えておくのがいいでしょう。
 その働きは「自己の投影」や「感情の移入」とは逆方向の、「心の模倣」を意味しています。自分をキャラの中に投げ込むのではなく、(理解できる範囲で)キャラの情動を自分の中で作り出す機能が私たちにはあります。


 おおよそ「キャラの気持ちがわかる」という共感は恋愛もの全般で不可欠な要素ですし、人が他人の気持ちを理解する場合には、必ず心の中で模倣(エミュレート)が行われています。
 そして、受け手の心がなければ「キャラの心」の実体など、どこにも存在しなくなるのが、表現としてのキャラクターなのですから。


 例えば「AはBのことが気になる」という恋愛表現がされたとき、その「気になる」という感情や情動はどこに発生するのでしょう?
 漫画や小説の二次元内に「情動の実体」があるはずもなく、読者の心身がその情動のシミュレーターになっているはず。
 そして重要なのは、その恋心の模倣は「自分自身がBを好きになる」必要もなければ、「キャラになりきる」必要もない、ということ。
 それは自己投影を意味していません。が、逆に完全な客観視と言い切ることもできないのです。


 『ドラえもん』のひみつ道具に「おすそわけガム」という、他人の味覚をわけてもらえるアイテムがあります。
 美味しそうな食事を描くグルメ漫画などでも、食べられないけど美味しそうだ、と味覚をわけてもらいながら私たちは読むわけです。傷口をぱっくり開いて血を滲ませている人を見れば「いたた」と思うように、ひみつ道具がなくても私たちは他者の感覚を模倣するように出来ています。


 だから「女性」が「男性」の恋愛を描くBL作品が、「女性にとって客観的」かと言えばそんなことはなく、多くは少女漫画のように、内面や心理に踏み込む演出に重きが置かれるものです。
 そこで異性が見せる心理や感覚を、「おすそわけ」で感じないことにはドラマの深みも楽しめないはずです。

飛躍した性の魅力

 女性文化であるBLは、作者や受け手にとって「飛躍した性」を表現しながら発展してきました。飛躍に大小はあれど、「気持ちがわかる」という共感にこそ魅力の根拠があったのも確かでしょう。
 そして、自分とは異なる人間について共感し、またそれが同じ人間でもあると気付くという体験は、どのような物語にも通じる魅力であるはずです。


 ただし、その貴重な体験は「異性になる」「異性に自己投影する」などといった単純な自己同一化(self-identify)を意味しません。これは注意深く強調しなければならないポイントです。


 ですが「気持ちがわかる」以上、心の一部が、自らの性から飛躍する体験を得ているのも確かなはずです。
 ぜひ、そのことによく注意して、「物語を読むという体験」について振り返りながら考えてみてください。きっと多くの視点に気付けることだと思います。

*1:事実、『美術手帖』の取材を受けた田亀先生は、「ゲイではない読者の方が物語を深読みして理解しようとした感想を送ってくる」というような体験を語っていました。