「女装っ子」表現から読み解くキャラクター作画
先日、Twitterでこんな論文が紹介されていました。
図像的フィクショナルキャラクターの問題(高田敦史)
応用哲学会行ってないけど、akadaさんの原稿を読んだ! これすごく面白い!>RT
— シノハラユウキ (@sakstyle) 2014, 5月 10
マンガなどに描かれているキャラクター(この原稿では「ひだまりスケッチ」のゆのが例に出てくる)について、「かわいい」という時、目が大きいとか鼻が小さいとかいった絵のデフォルメからそう判断しているだろうが、それでキャラクターそのものがかわいいと言えるのか、と
— シノハラユウキ (@sakstyle) 2014, 5月 10
高田論文は最後、補足的に、分量としては短いけれど、伊藤剛「キャラ」概念との接続も行っている。高田のいう「分離された内容」と「キャラ」というのが、近いかもしれない、と
— シノハラユウキ (@sakstyle) 2014, 5月 10
そこでは、伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』における「キャラ/キャラクター」論も触れられていたのですが、それを聞いて、昔『ゲームラボ』に伊藤剛さんが書いていた「女装っ子」論を思い出しました。
ちょっとその連載記事を引っ張り出して、要点をメモしてみます。
今読んでも示唆があるので、埋れさせるにはもったいない原稿だと言えるでしょう。
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『ゲームラボ』2008年9〜10号の二回にかけて、女装もの/男の娘ものが分析されます。
まず大きな分類としては、萌え系の「男の娘もの」がある。「こんな可愛い子が女の子のはずがない」ってやつですね。
その一方で、青年誌などに多い「女装もの」を区別する。例として浦沢直樹『MONSTER』や金田一蓮十郎『ニコイチ』の表現など。
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- BL漫画では『俺のカノジョが男なわけがないっ!』なども『ニコイチ』と同じタイプ
キーワード
・「キャラの現前性」を利用した男の娘もの
・「もっともらしさ」を描いた女装もの
このふたつを分けるポイントとして、「キャラ図像」「身体」「設定」のみっつが挙げられます。
「キャラの現前性」を利用した男の娘の表現では、(体格まで及ぶ)「美少女にしか見えない」キャラ図像こそが女装を担保します。
《年齢も性別も曖昧にしたまま「存在感」だけは感じさせることができるというキャラの特性》が前面に表れ、肝心の性別については、「実は男だ」という設定(や作中の言表)でのみ明かされる構造になる。
一方で、「もっともらしさ」の水準では、キャラ図像の強さは薄められ、「あくまで男の体格だとわかる」絵を描いた上で、「作中では周囲に男だと気付かれない」様子が描かれる。
読者には男だとわかるわけです。にも関わらず、女装のもっともらしさを担保しているのは、外見ではなく「本人の仕草の女性らしさ」なのだとされます。
つまり、この「もっともらしさ」の見せ方では、作画上の「読者から見える」男の体格が現実寄りに描かれるのに対して、作中の「他の人物から見える」男の姿は、女性らしい振る舞いゆえに身体への注意が逸らされ、女性に錯覚させている……、という落差のあるキャラクター表現になる。
逆に男の娘への「萌え」については《「身体」への欲望からは遠く、もう一段、抽象的なレベルに向かっていると考えられる》と分析されています。
もちろん、もっともらしさと萌え系の中間領域にある表現も示唆されており、漫画の中では両者を行き来して描かれるのでしょう。
再度強調するならば、もっともらしさの表現では「読者が見るキャラ」と「周囲に見られるキャラ」のあいだで認識の落差がはっきり生まれるのが特徴でしょう。
一見、写実的に描いているようで、実は作中の人間がみな、その「写実」をそのまま認識しているとかぎらない。
写実的ということは「客観的」なのだと先入観で思いがちですが、実はそうではない。客観的に「見て」いるのは実は読者だけで、登場人物はそれぞれの主観で「認識」している、という多重性がある。
一方で、萌え系の男の娘表現では、「読者から見える姿」と「周囲に見られる姿」の違いがひどく曖昧になります。
読者と同じく見えているかもしれないし、まったく違う現実の層を見ているのかもしれない。
まずそもそも、読者にそんなことを考えさせにくい、想像もしにくい。
よって、《年齢も性別も曖昧にしたまま「存在感」だけは感じさせることができるというキャラの特性》は、「周囲にどう見られているか」という状況を曖昧に変え、作中の設定や言表によって辛うじて規定させることになる。
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以上の前提で、ではどのような漫画表現を提案できるのか。
先述したように、中間領域でどちらにも行き来する絵を同一の漫画内で描くことが挙げられます。
漫画はそうした表現がむしろ大きな効果をもたらすことができる。うまく描いた作品に、つだみきよ『プリンセス・プリンセス』などはいい例です。
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そしてキャラ図像の特性は、「男の娘」でなくても当てはまる表現の問題です。例えば、性別や年齢にかぎらず「可愛さ/美しさ」も曖昧にさせるということです。
このブログでもよく言及している「美少女キャラ」表現の話も、こうしたキャラクター作画の表現と無関係ではありません。
読者の関心は、「作中のもっともらしさ」よりも「キャラ図像の可愛さ」に強く引きつけられるケースがあります。その現象も、伊藤剛さんの言う「まんがのおばけ」に絡めて考えられるでしょう。
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まんがのおばけの問題とは、「擬人化されたウサギのキャラがカツラをかぶれば人間のフリができる」という実例がある[図]ように、少年も着替えるだけで少女と見分けがつかなくなる。
ウサギなら体に毛が生えているのでは、とか、さすがによく見れば男の顔なのでは、などと考えさせない作用がある。
そもそもモノクロ漫画では「ウサギの毛皮は肌色をしてないのでは?」というリアリティから意識を逸らすことすら行われます。
異性装をするわけでない普通のキャラクターであっても、「まんがのおばけ」の影響は強力です。
多くの読者が感じる「キャラクターの可愛さ」とは「絵の可愛さ」のことで、「ちゃんと見れば毛皮に気付くのでは?」に似た作中の視点には関心が払われず、「作中でどう見られているのか」が隠蔽されるでしょう。
ちなみに、少女漫画の場合はそうとかぎらず、「作中でどう見えるのか」を踏まえた表現をすることが多いと思います。
それは、少女(女子/女性)を描くというテーマが、「他者の視線への関心」を強く含んでいるから、とも言えそうです。
ここまでは問題提起ですが、もっと表現論として考えてみたらどうでしょう。
伊藤剛さんの「まんがのおばけ」論は、それが単純な線の組み合わせだから起こることを強調しますが、なら複雑な線のキャラならどうなのか。
少女漫画が「絵の可愛さ」だけでなく他者による視線を描くとき、どう表現しているのか、などです。