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漫画感想/久米田夏緒『ボクラノキセキ』1,2巻

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 ペトロニウスさんが紹介していて、敷居さんに勧められた漫画。


 まだ2巻までしか出ていなくて全体像は未知数ですが、面白かったです。
 「前世モノ」「転生モノ」というテーマ自体には馴染みがある(気がする)のに、新鮮な気分にさせる不思議な漫画でした。


 ちなみに表紙に描かれているのは、主人公とヒロインの組み合わせ……ではなく、主人公の「現世の姿」(男子高校生)と「前世の姿」(ファンタジー世界の王女様)です。


ボクラノキセキ 1 (1) (IDコミックス ZERO-SUMコミックス)

フィクションと現実の見分けにくさ

 色々考えさせられることも。
 転生モノで描かれる物語というのは、我々の人生のどんなことを象徴しているのか?


 「前世で別の人生を送った記憶を持つこと」や、「転生によって現世で裏ワザが使えること」というのは、「普通の子供が異世界で冒険すること」*1とも違えば、「普通の人間にスーパーパワーがギフトとして与えられること」*2というものとも微妙に違うんですよね。


 つまり、キャラクターとしての基盤が「現世の人格」にあるのか「前世の人格」にあるのかが、読者から見て曖昧に感じられてくるのが転生モノの特徴なんですが(だって同じ人格だから)、その場合、登場人物のどこからどこまでが「普通の人間の人生を象徴したもの」で、どこからどこまでが「フィクション的に用意されたギフト」なのか区別がつきにくくなってくる、ということです。


 特に『ボクラノキセキ』の主人公は、子供の頃から「前世の人格から連続しているのが普通」とリアルに実感しながら(前世の自分を内部のものにして)育ったという設定ですので、前世から得られる記憶や能力を「フィクションのようなもの」と切り捨てることもしにくくなるんですね(反面、「成長後に記憶が覚醒する」形なら、それは「フィクションのような外部の経験」として片付けやすくなる)。


 とすると、読者はまず、この主人公を「私達と同じ人生を送っている人」として受け入れようとします。でないと「物語を自分の人生観に落としこんでいく」という作品受容の過程で、齟齬を起こすことになるから。


 いや、単純に「特殊なシチュエーションを経験するキャラクターたちの冒険」を、現実と切り離して楽しむだけでも充分ハラハラするし、エンタメ的だと思うんですが*3、その現実離れしたハラハラ感だけで閉じてしまうと「ゆきてかえりし物語」であるところの「ファンタジーとしての力」を失ってしまうと思うんですね。


 その点、主人公の人生観は倫理的と言っていいもので、「なるべく前世の経験は現世に持ち込まないようにしよう」というベクトルで行動しているのが面白いですね。しかし状況はそんな日和った態度を許さず、「より前世寄りの人間として振る舞う」ことを主人公に求めてきます。まぁ、なんせ他の転生者たちから見れば、前世での王女ですから。
 じゃあ、前世と現世のどっちが「ホンモノの人生」なんだ? っていう割り切れ無さが興味深いところです。
 そうそう。簡単にフィクションと現実を割り切れないからこそ、ファンタジーとして面白いんだっていう部分もあると思うんですね。*4


 同じ雑誌(一迅社ゼロサム)に連載している、おがきちかさんがブログでこんなことも言っています。

http://d.hatena.ne.jp/chika_kt/20090207#p1

人生には現実とファンタジーが同じだけ必要ってティム・バートンが言ってて、ほんとーにその通りだと思うのです。だから現実とファンタジーの区別が付く年齢になったら、そこからは大人になるほどファンタジーを楽しめると思うんですよね〜。


 ファンタジー好きなら胸に響く言葉ですね。

キャラクターの見分けにくさ

 また、絵柄として面白いな、と思ったのは、わりと女性作家に多い傾向だと思うんですが、キャラクターの見分けがつきにくいこと。
 「ホワイト髪のヒロイン同士」と、「黒ベタ短髪の男性キャラ同士」は、パッと見で区別がつかないことがしばしばあります。
 具体的には、上岡と高尾。主人公はいったいどっちをカノジョにしたんだ……? と悩みながら読んでました。


 ちなみにぼくはこういう、「見分けにくさ」を、「描き分けできていない、画力が足りてない」みたいな拙さとしてのみ評するのはつまらないと思っていて、(作者の狙いや、実際に描きたかったであろう世界観に達しているかはさておいて)「現実においても人の顔というのは見分けにくいものである」という状況が再現されてしまう効果にも趣きがあるはずだ、と考えています。


 ぼくがその効果のことを考えるときに良く思い浮かべるのが紺野キタの作品なんですが、



……Amazon「この商品を買った人はこんな商品も買っています」のところに紺野キタの『つづきはまた明日』が入っているというのも、なんかどっかで繋がってるみたいで面白いですね。


つづきはまた明日 1 (バーズコミックス ガールズコレクション)

  • 作者の絵柄が「あんまり顔の描き分けをしない」ということをキャラ設定のレベルで利用している作品。紺野キタは他にも、「教師や学舎からみれば毎年同じような少女たちが生活しているように見える」ということを描いた女子寮モノの『ひみつの階段』や、「生徒が呪いにかけられないように、個人識別がしにくい魔法のかかった制服を着ている」という設定の魔法学園モノの『Dark Seed』などがある


 現実の人間は(特に日本の学生などは)、そんなに「描き分け」なんかされていない、どの人間もそんなに変わらない見た目をしているわけなんですが、それでも相手を見分けられるというのは、「その人を個人的に知っているから」なんですね。


 この意味はわかりますか? 私達は、実際のところ「相手の顔に極端な個性があるから」相手を見分けられるのではなく、ただ単に「相手の顔をよく覚えているから」相手の顔に個性があるように感じられるということです。
 実際に、『ボクラノキセキ』の読者がキャラクターの顔を見分けにくい、そして名前も覚えにくい、さらにいえばそれぞれのキャラクターには前世が設定されているので、できれば顔を見ただけで前世の設定も思い出したい……と思っているのに、登場人物紹介に戻らないとそれもわからない(人物紹介に載ってないキャラも当然いる)。
 でも、キャラクター同士は、相手を一目見て誰なのかがすぐわかります。読者以上に、相手の特徴を良く「知っている」から。逆に私達は、良く知らないから見分けがつかない。
 いや、たぶんじっくりこの漫画と付き合っていけば、しだいに見分けが付くようになっていくはずです。キャラクター同士が、「相手とじっくり付き合ってるから簡単に見分けがつく」のと同じように。


 だからってそれがなんだ、と思われるかもしれませんが、こうした絵柄がもたらす感覚も、それはそれで作品の雰囲気に貢献していることがあるんじゃないか、ということです。
 うまく言えませんが、個人個人が見た目的に埋没している(=キャラが弱い)からこそ、見た目以外のところでキャラを立てたり、個性を見出していくような変化に趣きがある、といったところかな……?
 逆に比較的、見た目だけでかなり「キャラが立ってる」と言える広木さん(※可愛い)が、脇役ながらドラマのひっかき回し役という「わかりやすい立ち位置」にいるというのも象徴的で面白いですね。

*1:ナルニア国物語大長編ドラえもんのような

*2:強いロボットに乗ったり、魔法のアイテムが与えられたり、空から人外ヒロインが落ちてきたりするような。ちなみに魔法や超能力であっても、それがその世界において「誰でも持ちうる能力}として設定されているなら、ギフトというより「才能の一種」を象徴することになる。現実における「得意技」や「専門分野」を象徴したのが、必殺技や超能力になるわけだ

*3:もっとも、それ以前に「そもそも感情移入できないから楽しめない」という読者もいそうだが、そこで感情移入を拒むのも狭量な読み方と言えて、もったいないと思う

*4:逆に、ストレートな少年漫画で描かれる魔法なんかは、フィクションとリアリズムが「単純に割り切れる」方が良くなると思う