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フィクションのためのフィクション/葵せきな『生徒会の九重』

生徒会の九重  碧陽学園生徒会議事録9 (富士見ファンタジア文庫)生徒会の九重 碧陽学園生徒会議事録9 (富士見ファンタジア文庫)
葵 せきな 狗神

富士見書房 2010-10-20
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 次巻で完結予定になっている『生徒会の一存』シリーズの第9巻。
 どっちに行くかハラハラさせていた6,7巻からすると、ここまで進めば安心の展開として読めますね。


 読んでいてなるほどなー、と思うのが、この小説のキャラクター心理っていうのはものすごく「フィクションのお約束の世界の人間であること」が前提になった精神構造をしているということ。
 たとえば女性キャラクターは主人公以外の男性キャラに心が動いたりはしないし、だから初恋が絶対で失恋というものが現実以上の悲劇性を帯びたりします(にも関わらず、三角関係という破綻した状況を作らざるをえないというのがフィクション・ラブコメが原理的に抱える「病」なわけですが)。


 で、主人公やその他のキャラクターは、そういう「お約束ゆえの特殊な」人間性を疑問に思うことなく、行動原理の前提にしている。
 だから「失恋くらいよくあること」「別に主人公しか好きになれないわけでもない」といった現実的なツッコミは、むしろ無慈悲な考え方として排除されるんでしょう。
 なぜなら、(ある種の)お約束世界の女性キャラは、失恋に耐えられる心も持ち合わせていないし、複数の相手を好きになる精神構造も与えられていない(ことになってる)から。


 しかし、かといってそこで描かれていることが完全にフィクショナルかというとそんなことはなくて、今まで数多の受け手を感動させたり感情移入させたりしてきた「お約束の心理」は、現実的ではないにしても、実際にある人間心理の忠実な反映なんですよね。そこがポイント。


 その、「みんなが共感してきたフィクションのお約束世界」がまずあって、そのお約束世界の不条理を意識的に救おう、としているのがこのシリーズの基本設計じゃないかと思ってます。


 何重ものメタフィクション構造で描かれてる『生徒会の一存』シリーズなんですが、ドラマを描こうとする動機やアプローチ自体が、既存のフィクションに対して自己言及的な感じなんですね。


 しかもその自己言及性を、あまり読者に意識させず、自然に展開している(普通の小説の範囲内でやれている)あたりも良さだと思います。