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【研究用メモ】言葉にできない「読む」という行為

 去年書いていた神のみぞ「見る」のように、言葉に関する研究のメモをエントリにしておきます。
 実はちゃんと漫画の基礎研究に繋がる問題なのですが、研究テーマの前提となる話にすぎないので、今回も「オチ」はありません。

「よむ」の意味論

 「よむ」と一言で済ます言葉には、複数の意味が詰まっていて、文脈で使い分けられている。
 辞書で調べてみると、「よむ」(あるいは漢字の「読」)は語源的に言って、「声に出して文字を読み上げる」(つまり「朗読」や「音読」)という意味合いが先行していたようだ。
 しかし現代では、「黙読」のケースで使われることの方が本流だろうと思う。


 では、「よむ」に関係する語彙を並べてみよう。

単漢字として

 まずは漢字から。

  • (よ・む)
  • (しょう・ずる)
  • (よ・む、えい・じる、えい・ず)

 「誦」は「読」よりも「声に出して読みあげる」という「朗読」の意味に限定された字で、さらに「暗誦」と言うと、「文字を見ずに暗記して読み上げる」……つまり「そらんじる」という言葉になる。
 「暗−」と熟語にせずとも、「誦」だけで「そらんじる」の意になるようで、それは「目の前に書物があって読む」というスタイルではないのだから、昔の日本人が「誦」を「よむ」と訓読みしなかったのは当然だったかもしれない。
 なお、「読」を使った熟語で「暗誦」の意を表すのは「背読」。


 「詠」は、誦と同じく「声に出して」という意味合いを持つが、更に「言葉にフシ(抑揚)をつけて音を伸ばしながら」という、朗吟のように読み上げるニュアンスが加わる。
 言偏に付く「永」の字は、「言葉に長さを与える」という意のようだ。
 ちなみに日本語で距離を表す「長い」と時間を表す「永い」はどちらも「ながい」だが、漢字の「永」も距離・時間の双方の「ながい」に用いられる字だったようだ。だから「泳」は「水の中の距離を移動する」という字なので「およぐ」の意になる。


 また勿論、「詠む」は「作詞(詩)する」という意味でも使われるし、「詠む」「詠める」と書けば「なが・む」「なが・める」とも読む(「眺める」と同音同意)。
 「詠」は、字の意味が複数あるという、「読」や「誦」には無い特徴がある。

熟語/慣用句として

 次に、用法から。


a.音読(朗読)/読み上げる
b.黙読


 このふたつに二分されるのが、第一として……。
 「言葉の意味を理解する」というニュアンスの用法もある。慣用句で表現するなら「読み取る」だろう。


c.読み取る


 いわゆる「識字」というものは、文字の音を「声に出して読み上げられる」かどうかは問題としないため、


「読みがわからない漢字でも、私は読めます」
「発音のわからない外国語でも、私は読めます」



……つまり「読み上げられないが、読み取れる」という、一見パラドックスのような言葉遣いでも意味が通ることになる。
 ちなみに今はどうだか不明だが、以前の欧米では「他国語のスピーカー」に対して「他国語の識字者(literate)」が少なかった(自国語の識字者すらかつては少なかった)ために、日本人では多い「喋れないのに漢文や英文が読める」、つまり「読み上げられないが、読み取れる」タイプの人間が奇妙に感じられたのだそうだ。


 日本人がIT関係で「プログラム言語が読める」「ソースが読める」などと言う時は、この「意味を理解する」という使い方になるだろう。
 プログラム言語を声に出して読み上げる必要なんて通常は無いし、「プログラム言語の正しい発音」なんか知らなくてもプログラムは読み書きできるのだから(全くの独自の判断でテキトーにルビをふって、心の中で「読み上げている」人は多いと思う。この現象については後述)。


 また、この「読み取る」という用法の場合、人間ではなく機械(コンピュータ)を主体にして「読める/読めない」という言葉遣いがされることがある。
 「コピー機が紙を読まない」というように、何かのデータ、つまり情報を理解したり解釈したり、中身を受け取ったりすることを「読む」と喩えているのであって、メタファーとしてはどことなく「食べる」や「飲む」に近いニュアンスもある。
 別にパソコンやコピー機が、その情報を「読み上げ」なくても「読む」と表現するあたりで、「読み取る」の意に限定して「読む」を用いていることが確定だろう。
 機械が受け取った情報を、それ自身が「読み上げる」場合は、「再生する」「走らせる」「立ち上げる」「吐き出す」といったメタファーで言い表されるはずだ。
 純粋な音声読み上げソフトでないかぎり、データを与えた機械がそのデータを再生することを「読んでいる」とは喩えない。
 機械が「読んでいる」と喩えていいのは、データを「読み取っている」時だけであり、このことだけでも、今の日本人にとって「読む」という言葉が本来の「音読で字の音を読み上げる」という意ではなく、「黙読で文意を読み取る」という意が優先されていることの理解になるだろう。


 会議の席などで、誰かが「では、Aの書類を読んでみてください」と言った時に、声に出して読んでみろ、という意味で通じるケースは滅多に無いだろう。
 参加者にとっては「では、書類に目を通してください」と言われたくらいのつもりで……黙ってパラパラと書類をめくることになるだろう。
 決まった誰かを指定した上で、「では、(みんなに向かって)読んでください」などと言外のニュアンスを込めてようやく、「声に出して読んでみろ」という意味になるのであって、今の日本ではおそらく、「読む」という言葉を(語源的には)本来の「読み上げる」という意味で用いることは、むしろイレギュラーなケースなのだ。


 しかしこの「読み取る」を意味する熟語を探すことは難しくて、「積極的にじっくり意味を理解しよう」という言葉としては「熟読」「精読」があるが、別にじっくり読まなくても文章は「読める」のが普通なのだから、熟読や精読はむしろ「読み込む」に近い概念だろう。
 しいて言えば「解読」が近いが、自然に文章が「読める」ことをいちいち「解読」と呼ぶのは大袈裟だな。
 それだけに、「読む=読み取る」という用法が今は自然であり、単に「読む」あるいは「読書」と言って済まされている問題なのかもしれない。
 では中国語や、古典の漢文では「読み上げる」と「読み取る」の違いはどう区別されていたのだろうか? 気になる。


 ちなみに英語の「read」は、この「文意を読み取る/意味を理解する」の傾向が強いようだ。
 英語で「聞こえますか?」と(声が聞こえるか、ではなく会話の意味を聞き取れるか、という質問として)電話越しに尋ねるのは「Do you read me?」と言うらしい。
 するとヒアリングの「hear」というのは「発音の聞き取り」(=「音の読み上げ」と対偶)であって、「発言内容の聞き取り」(=「文章の読み取り」と対偶)は「read」なのかもしれないね。


 また、「坊主読み」という日本語もあって、「言葉の意味はわからないまま音の読みだけを読む」という意味だそうだ。「南無阿弥陀仏」を「ナムアミダブツ」と読むことはできるが、意味は知らない、というようなケースだな。
 そういえば「文脈文盲」という侮蔑語もあるけど、それは坊主読みに近いリテラシーを指すんだろう。


d.熟読(精読)/読み込む


 というわけで前出したが、これも「読む」のバリエーションのひとつ。積極的に文意や文章を理解しようとする読み方を指す。あまり聞かない言葉として「玩読」「味読」「クローズ・リーディング」というのもあるようだ。
 当然、黙読で読むことが多いと思うが、ブツブツ口ずさみながら読み込むこともあるだろう。
 ニュアンスとしては、熟読の場合「言葉に込められた意味」を、精読の場合「一字一句の言葉の表記」をそれぞれ確かめるという差があるかもしれない。


 「読み込む」は、ただの文章だけではなく、「裏(真意)を読む」、「先を読む」、「心を読む」というように「推測」や「推量」を指す使い方もある。「深読み」もそう。
 ただ、「先を〜」や「心を〜」の場合は、意識的でなくとも自然に理解できることもあるので、これらは「読み取る」でも「読み込む」でもどちらにも当てはまる使い方かもしれない。
 ちなみに心理学用語の「視点取得」は「マインド・リーディング」の訳語なのだが、人間の視点取得という機能にしたって、自然に「読み取る」場合もあるし、意識的に「読み込む」場合でも当てはまるだろう。


e.抄読/流し読み・飛ばし読み・拾い読み


 これは「読み方」の問題で、飛ばし飛ばしに「文意」を読み取ろうとする場合もあれば、「音訓の読み」だけを(坊主読みで)読み取るケースもあるだろう。
 「文意」の飛ばし読みは「熟読」の対義となり、「音訓」の飛ばし読みは「精読」の対義となるのかもしれないな。

既存の言葉には無い「読む」

 実は、以上の用法の中に含まれず、しかし自然に私達が「読む」という言葉のニュアンスの中に含めている行為がある。
 それはどれだけ辞書をひいてみても、載っていない言葉なのだ。


 「声に出さずに、心の中で読み上げる」という「読み方」である。


 例えばHTMLのタグを手打ちで入力する時や、開いたソースを読み取る時などに、心の中でその「読み」を唱えながら読み書きしている人は多いはずだ。
 自分の場合、blockquoteは「ぶろっくくぉーと」だし、alignは「アライン」と正しく読むこともあれば、キータッチする時に「あらい…じーえぬ」と読むこともある。


 たまに気分のノリが良い時などは、ブツブツ口許で呟きながら「読み上げる」こともあるだろうが、私達はこれらの「ルビがふられていない音」を「黙って」「読み上げて」いる。
 では、この行為を日本語ではなんと言い表せるのだろうか? 漢文では? 英語では? ……知るかぎり、どこにも載っていないのだ。


 特に「抑揚(イントネーション)をつけて読み上げる」という、「誦」や「詠」と同じ要素を加えた読み方ともなると、全く言葉が見当たらないのだ。


 単に「誦ずる」「詠む」と書いた場合、辞書的には「声に出して」という前置きがどうしてもついてまわるのだが、今の人間は「声に出さずに心で読み上げる」というスタイルの方が全然自然なはずだ。


 「黙読」ではダメなのか? とまず思われるだろうが、音読の対義語でしかない「黙読」では、「心の中で抑揚をつけて読み上げる」というかぎられた意味に特定することはできない。
 字を見て意味を読み取るだけや、飛ばし読みすることすらも、広く「黙読」の中に含まれるからだ。


 繰り返して強調すると、この「黙って読み上げる」というのは誰でも自然にやっている読み方である。
 オタクなら小説を読む時に、好きな声優で脳内CVをつけて台詞を脳内再生するスキルが身につくものだが、それだってまさにそうだ。


 著名人か知り合いのインタビュー記事や対談を読む場合でも、脳内で本人の「話し声」が文章にオーバーラップして流れるように読んでしまうことがあるはずだ。


「ピンポーン♪」


……という表記を見ても、頭に浮かぶのは「ピンポーン♪」と喋る誰かの「声」だったり、実際に鳴るチャイムの「音」だったりするはずだ。


 反射的に音が再生されてしまう時は、「読む」というよりむしろ「聞こえる」と感じることすらあるだろう。


 また、特定の声優や人物なんかを想定しなくても、「なんとなくイメージできる架空の喋り方や声質」を思い浮かべながら、小説や漫画の台詞を読む人もいるだろう(これは実際に何人かにアンケートしてみて確かめてみた)。


 それはキャラが喋る台詞にかぎらず、地の文でだって行われることだ。


「ふるいけや かわずとびこむ いけのおと」


 こういう句を黙読する場合、声に出すわけでもないのに、心の中では「ふる・いけ・や〜」「かき・くえ・ば〜」と抑揚やリズムをつけて「読ん」だりはしないだろうか?


 そういえば「速読」というのは、同じ黙読でも「心の中で声に出さずに素早く意味を読み取る」という読み方を指すのだろう。
 この、「心の中で一音ずつ読み上げる(意味は読み取れなくてもよい)」という「ふる・いけ・や〜」式の読み方とは、全く正反対の読み方が速読なのだろう。
 速読法の場合は、一字ずつ読み上げたりせずに「これは芭蕉だな」とか、「ハイ、蛙が水に飛び込んだ」などと素早く認識することを目指すのだろう。

では問題

 この、黙って読み上げる「読み方」をなんと言い表すべきか? をちょっと考えてみなければならない。
 造語としては「黙誦」や「黙詠」がジャストかもしれないが、なんとなく大仰だ。


 ちなみに速読と正反対の読み方だとさっき触れたが、日本速読・記憶法セミナーでは「内読」という造語を使っている。

  音読では、(中略)読むのが遅くなってしまうのです。しかし、さらにやっかいなのは「音読している意識がない人」です。口元が動いている人ならすぐに気がつくことができますが、音読をしているのに声も出ず口も動かない人がいます。これを内読といいます。このやっかいな内読の癖を克服するには、先に読み急ぐトレーニングを繰り返します。

 しかしこの「内読」という用語は、上記の通り「一音ずついちいちゆっくり頭の中で発声してしまう」というネガティブな面をアピールしているので、あまり使いたくない言葉である。
 文章に気に入ったフシやアクセントをつけて、リズム良く読みすすめることを楽しむ、という行為の説明にならないのも、うまくない。
 でもこのセミナーは欧米由来の原理に基づいているらしいので、この「内読」の対訳が何なのかは気になる所だ。誰か調べてほしい。

 「祈る」「唱える」「念じる」という言葉は、実態として「黙って読み上げる」に近い行為を言い表しているが、宗教的なニュアンスが先行してしまうのでイマイチ使いがたい。
 黙祷のことを英語では「silent prayer(黙って祈る)」と言って、これをもじって「silent player(黙って再生する)」と表現するのも面白いかもしれないが、まぁ懲りすぎかな。


 ちなみに「黙想する」は英語で「musing」となり、ミューズ(ギリシャ神話の詩の女神)が語源になっている、というのは少し興味深い。
 やはり「心の中で詩を口ずさむ」→「黙想する」、という連想で生まれた言葉なのだろうか。

オチにならないまとめ

 このように「黙って読み上げる」という、ごく普通の行為にも関わらず、それを表す言葉が無い、という事実そのものが示唆していそうなことがある。
 「本を一人で黙々と読む」という読書の仕方が、ごく最近になってようやく民間に広く認知されたのだ、という人類史上の経緯だ。
 古くは「読む」と言えば「読み上げる」の用法で満たされていて、「(人前で)どう音読するか」を言い表す語彙はバラエティに富んでいるのに対し、「(一人で)どう黙読するか」を細分化して表現する語彙はほとんど発達しなかったのだと思う。


 あと、口語文体の発明(話し言葉で書かれた文学は近代の発明であり、文章は書き言葉で書かれるものだった)にも関係してるかな。
 文語の黙読は、台詞のように「イントネーションをつけて脳内再生する」必要も無いだろうし。
 いやでも、詩のたぐいならば、脳内再生する時でもイントネーションやリズムが必要なはずだ……。戯曲だって台本を「読む」時は脳内再生されるはずだ。


 熟語では「口吟」と言って、「口ずさむように詩を読む」という意味の言葉はあるのだが、これも小声や口の中で口ずさむことを指しているのだろうし、「頭の中で読む」ことを指してはいないだろう。


 というわけでこれは、なかなか結論を出せない難問なのだ。
 漢文や語学に強い人に相談できたらいいのにな、と思うくらい。

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