ショートコミックを雑誌で読むことの難しさ/今週のスクラン(♯211)から
今週も面白い『School Rumble』ですが、解説しないとわかってもらえないと思うので感想を書いてみます。
ここ数週間で「潜りに潜った」情報をとっかかりにして読まないと、表層的な所での情報しか読み取れない回でしょう、多分。
以前、↓で書いたことの続きになるのですが、
週刊連載と単行本の読みやすさの差/今週のスクラン(♯209)から - ピアノ・ファイア
しかし、いつか「拾われる」まで、その暗示は潜在情報として「潜った」ままになるわけです。
この「潜った」潜在情報を、「二週間、三週間先まで」連続して覚えてられるか?
「描かれてないからといって、無かったことになるわけじゃない」という見方(物語やキャラへの感情移入)を保てるかどうか?
……というのが、雑誌でスクランに「ついてける人」と「ついてけない人」を二分している、という印象を持っています。
(中略)
しかし良く考えてみれば、スクランに描かれた「情報」が一回や二回くらい「潜る」のは自然なことなんですよね。スクランは基本的に9頁ずつ掲載されますから、単純に「2話分を足して、普通ならようやく一話分*1」だからです。
スクランは時々「ショートコミック」のカテゴリに納まりきらない心理劇に突入することがあって、その時は確実に、この「9頁」という頁制限が足枷になります。
……というわけで、とりあえず細かい演出に触れつつ、今週を読んでいくことにします。
今週のキーポイントとなるのは、多分このコマです。
めちゃくちゃ緊張感のあるカット。
このコマの直前までは、全て八雲主観で進んでるんですが、主観ショットによって読者は沢近主観に放り込まれることになります。
「沢近主観である」ということが、これ見よがしに強調されるということは、逆説的に「コマから八雲の主観が完全に消えた」ことを表していて、読者は「この時、八雲がどんな気持ちでいるのか?」をコマから窺い知ることができなくなります。ですが、「このシーンで、感情の変動値が一番高いのは八雲なんだよな」っていうことが読者にもわかっているので、何を考えているのかが描かれないだけに、ただならぬ様子(「怒り」に値する感情)を想像させる構図になっています。
ここでようやく先々週の「八雲が現在の天満に、かつての天満を重ねて見た」ことが意味を持ってきます。しかし、雑誌派でそこまでキャラの心情を追いながら読めてる読者はどのくらい居るんでしょう。
八雲は、子供の頃に「天満の愛情の強さ」を目の当たりにしてしまって物凄いショックと感銘を受けただろうキャラクターですが、そしてその「天満の強さ」に気付けない他人や、自分のように感銘を受けたりしない他人は許せなくて、心の中では怒りの感情を覚えるキャラなんだっていうのは、何度かに分けて描かれていることです。
Vol.1収録 | Vol.13巻収録 |
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そんな八雲の内心を想像させられつつも、沢近の主観のまま漫画は進んでいきます。
上から順番に、どんどん沢近の目が生々しく、写実性を増した絵柄に変化していく流れ。
これはスクランの特徴的な演出の一つで、沢近の内心がクローズアップされ、感情的に崩壊していく様子が読み手にも感じ取れるようになっています。
そして感情が崩れきった後に出てくる、極めつけなのがこの横顔。
絵を描く人ならわかると思いますが、露骨にデッサンがいびつになっていて、いかにも「ムリに作った表情」のように感じられる横顔。
「かわいくていい女」という自己イメージを自分からは絶対に崩そうとしてこなかった沢近が、露悪的に「イヤな女」を演じてて、それを悔いていることも読む側に伝わってきます。
先々々週のこのコマ(=覚悟のスマイル)も、「自分から悪い女を演じる」という意味で「自己イメージを裏切る」ものだったろうでしょうが、今回はそれに輪をかけて沢近のイメージが崩れることになります(読者にとってじゃなくて、沢近自身にとってのイメージの話です)。
当たり前ですけど、こういう状況に一番耐えられないのは沢近本人の筈ですから、これだけ顔も歪んでしまうわけです。
で、今回は「一番大切」と言葉で説明してしまってますね。二番目のキーポイントだと思います。
また前回の記事で書いたことを再掲しますが……
週刊連載と単行本の読みやすさの差/今週のスクラン(♯209)から - ピアノ・ファイア
その為、前回のヒキ(究極の選択…!?)で読者に暗示させた、
「選択……って、天満と播磨?(どっちを選ぶかは大体予想できるけど)」
とか、
「ひょっとして、沢近は播磨のこと(=恋愛感情)が割とどうでも良くなってる?」
とか、
「あ、沢近は4巻の頃の美琴*2と同じことを繰り返してるんだな」
……といったフックの数々が、完全に「潜った」形になっています。沢近は天満をほったらかして播磨との絡みに終始し、天満のことを意識する描写が無い。
……結果的に、今週の「一番大切」という言葉が、先々々週の「究極の選択…!?」という暗示の答えになっているわけで、三週間分「潜っていた」暗示が今開示されたことになりそうです。
この「潜っていた」情報を(感覚的にでも)覚えているかいないか、というのが「話についてこれてるか」を分ける境目になるんでしょう。
で、ラストで八雲がひっぱたく*3わけですが……、八雲は「姉さんの凄さをこの人は理解してない」つもりでひっぱたいてるんですよね、多分。
でも実はそうじゃなくて、沢近は「天満の大事さ」を充分理解できてる筈なので……そこを八雲は誤解している。ディスコミュニケーション(認識の相違)が発生していると言えば、そうでしょう。
ディスコミュニケーションによって愛情や恩義が深まりやすいスクラン世界において、不思議とケンカばかりになる八雲と沢近の関係は、特殊なケースに入るのかもしれません。
でも、沢近は「八雲にひっぱたかれたおかげで、天満を失わずに済んでいる」んですよね。そして、八雲は多分そこまで気を利かした行動をできる性格じゃないので、それは偶然の結果でしょう。
そういう意味では、やはりディスコミュニケーションが「幸運な結果」を招いてもいるわけで……ちょっと考えてみると深い問題です。
ここ8回の連載ペースのおさらい
今週の内容については以上の通りなのですが、少し視点を変えて、新年号以降の掲載内容を並べてみましょう(どの回も頁数は9です)。
- ♯204 エビパーティ前編*4
- ♯205 エビパーティ後編(「まだ気がつかないんですか?」)
- ♯206 9Pのひなまつりコメディ(「まさか」)
- ♯207 オハイオ*5
- ♯208 究極の選択…!?
- ♯209 9Pのおでかけコメディ(天満出発)
- ♯210 9Pの雪景色コメディ(天満が雪だるまに)
- ♯211 9Pの白銀コメ……(※今週)
こうして思い出してみると、「エビパーティ〜究極の選択…!?」までの5回は「週刊連載」でも楽しめる「ヒキ」がありましたが、♯209以降の3回分は「27pで1話」として読まれるべきなのが解ります。
ちなみに27pなら、普通に『花とゆめ』なんかにおける一話分なんですよね。
そして次回は
さて、♯209〜211の3話をワンエピソードとして捉えてみると、「来週はまた視点が変わる」可能性も充分ありえます。一つの「強力なヒキ(暗示)」を作った後に場面転換して、またすかさず「暗示を拾う」、という手法*6はスクランでは良くありますから。
つまりその時に、今回の「八雲がひっぱたいた」という暗示が、一,二週間「潜る」ことを読者がどう受け止めるか、という所で週刊連載の読み方が変わってくるわけです。
(※単なる「ひっぱいた」という具体的事実だけでなく、「何故そうなったのか」「八雲はどういう気持ちでそうしたのか」「逆に沢近はどういう気持ちだったのか」という、潜在的な情報を「覚えてられるか?」という問題です。)
男性にとってと女性にとっての読みやすさの違い
最後に私見なのですが、「その回の内容の中に、具体的なことが描かれているかいないか」ということにこだわるのが男性読者で、「具体的な描写の有無にあまりこだわらない」のが女性読者、という風な捉え方もしています。
「具体的な事実」しか印象に残らないタイプと、そうでないタイプの違いですね。
一度頭の中に印象づけられた関係性があれば、特に具体的な描写や言及が無くても(情報的に「潜って」いても)持続的に読み続けることができるのが、大抵の女性読者で。大抵の男性読者に比べて、複雑な人間関係や恋愛心理のドラマを、割と自然に読むことができるのは、そういう意識の力が強いからじゃないか、という気もしています。大雑把な分け方ですが。
これは「やおいの裏読み」にも通じてくる話かもしれません。勿論、男性の中にも、そういう女性的な読み方が得意な人も多いと思いますし、意識すれば鍛えられるものでもあるでしょう。
ただ、潜在情報の読み方が不器用な人は、「ストーリーと関係の無い暗示」をうっかり読んでしまって、それに振り回されることが多いのかもしれません(器用な人は、妄想を妄想として区別して片付けることもできるのですが)。