瞳のハイライトの表現史[ざっくり版]〜星の瞳のハイライト
漫画表現の中の、光を反射しない眼について - ポンコツ山田.com
漫画の中でしばしば見かけられる表現として、「つや消しの眼」、「光を反射しない眼」があります。百聞は一見に如かずと言うことで、例をいくつか挙げてみましょう。
(うしおととら 愛蔵版 11巻 p143)
(中略)
私たちは特に誰に説明されたわけでもなく、これらの表現を受け入れ、ある一定の解釈をしています。
大体の場合において、眼が光を反射していないキャラを見ると私たちは、「そのキャラは正気を失っている」のように解釈するのではないでしょうか。
(中略)
広く使われているこの表現ですが、いったい誰が使い始めたんでしょうね。広まっているからそうとは感じませんが、現実にはまずありえない表現でもって何かを表象するというのは、非常に偉大な先駆です。
はてブのコメントにも書いたことですが、表現の歴史の順序としては「黒目のハイライトを消す」表現の流行ではなく「黒目にハイライトを加える」表現の流行から考えるべき問題ですね。
ディズニーから初期の手塚まで、瞳はただの黒丸(というか白目自体が無かったりする)だというのが元は「普通」だったわけですから。*1
だからまずは「ハイライトを描かない方が古典的」で「ハイライトを入れるのは先進的だった」という前提で語った場合、ハイライトなるものは「表現として、消すもの」というより「表現として、加えるもの」と言った方が実際に近いということになります。
そうすると、ハイライトを入れることで漫画表現に何が加わったか、ということを考えないと話を始められないのですが、ざっくり論じてみましょう。
端的に挙げられる点をひとつ挙げれば、それは(従来から良く指摘されているように)キャラクターの「内面」の有無です。
瞳にハイライトを加えることで、漫画のキャラクターはその内面を読者に訴えるようになった、という表現の進歩がまず漫画界にはあったはずです。
そして、なぜハイライトに内面を感じるかというと……様々な説明は可能だと思いますが、個人的には「その瞳が見ているもの」を映しだしているような気に読者がなれるからだと考えています。
人と見つめ合った時、その瞳の中に「自分の姿が映る」場合、人間は「相手は私を見つめている」と感じます。
それと似たように、「瞳の中に映っているもの」は「その人が見ているもの」を教えてくれることになります。
まぁなんで、目が$マークになったりハートマークになったりした時に「その人がお金や色気に目を奪われている」ように思えるかというと、そのキャラが「$やハートを見ている」のだと読者が思うからでしょう。
『巨人の星』のように瞳を燃やしているキャラを見ても、「そのキャラの目は炎を映している」のだと読者は考える。
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で、$や炎ではなく、ハイライトの場合は「(少なくとも)小さな光だけは映している」という、ただそれだけの情報を読み取ることになるのでしょうが、瞳が黒丸だった場合は「共感できる情報ゼロ」なのに対して、「少なくとも光を見ている」という共感情報を得られるというのは、大きな差があるはずです。
人間は他人の内面というものをとにかく認識しておきたがる下世話な生き物で、更に言えば「ちょっとでも知覚を共有できればその内面と一体化できた気になれる」という楽天的な錯覚もしやすいものなので、「少なくとも光を見ていることだけは通じる」という程度の共感でも、そこに内面を読み取ったような気になれるのでしょう。
ちなみにこれは、絵という情報の少ないメディアだから「瞳のハイライト」が内面理解の決め手になるだけで、日常生活では「呼吸音」や「衣擦れ」などの「肉体音」が決め手になってるんじゃないかと思います。
呼吸音や発声が聴こえるということは、相手の体内の音の反響を聴いているということであって、そこから相手の身体的な主観感覚(つまり内面)を共感情報として読み取ることができるから。
だから「息もせず音も立てない人」、というのは我々にとって相当不気味な存在になるはずだと思います。
で、話を戻すと、だから漫画の場合、まず作品単位で考えてみれば「ハイライトの無い古典的な漫画」と「ハイライトのある新しい漫画」とでは、作品全体の雰囲気からして異なると考えられます。
前者の方が、後者よりも「人間の内面を感じさせない」作品になっているはず。
また、タフで快活な、裏表の無いスーパーヒーロー(※だからそれがちょっと怖くもある)が活躍しやすいのも、前者の作風だと思います。
『赤胴鈴之助』とかですね。上下のキャラのイメージと見比べてみてください。
で、次に「同じ作品の中の」キャラクター単位でハイライトの有無を描き分けるような手法を考えてみます。
ワンピースがまさにそうで、ルフィのような内面を読み取りづらい、器の大きなキャラ……というか要するに「赤胴鈴之助」的なタフで裏表の無いキャラは黒丸の目ですし*2、ナミのように繊細な傷付きやすさを持ったヒロインにはハイライトがあります。
まぁ、昔から「漫画に出てくるヒロインにはマツゲと瞳のハイライトを入れる」というお約束がありまして、単なる「少女であることの記号」のような意味があるのかもしれませんが。だとしても、「タフなヒーロー」と「内面のあるヒロイン」を描き分けていることにはなりますね。
吉崎観音なんかは、そういうキャラ間の落差ってのを意識的にやっている。
そしてようやく、この次の段階から「一人のキャラクターで」ハイライトの有無を描き分ける表現の意味を考えられるわけですね。
これは「キャラデザの描き分け」などではなく、複雑な感情表現に関わる手法ですから、「描き手がどんな気分になって描くか」、というのも重要なポイントとなります(読者からどう見えるか、だけでなく)。
キャラクターの感情というのは、基本的に「漫画家がそのキャラの気分になって描く」ことで「その気分が絵を通して読者にも伝わる」、という関係が結果論として生まれやすいからです。
漫画家は「自分がそのキャラの表情になったつもりで描く」ことが多いもので、読者もキャラの表情を眺めることで、無意識にその表情に感染したような状態になります。
現実でも、他人の笑顔を見れば無意識にこっちも口の端が上がったり、瞳孔の閉じた猫の目を見ればこっちの瞳孔もすぼまる、といった反応は、実験的なデータが取れるはずです。
漫画をめくる冒険―読み方から見え方まで― 上巻・視点 泉 信行 ピアノ・ファイア・パブリッシング 2008-03-14 |
先述した「相手の瞳に何かが映っていれば相手がそれを見ていると感じる」という共感にしても、原理的には「相手の瞳に何かが映っているという状態が、自分の瞳にも感染する」という結果として説明した方が早いのかもしれません。
ですから、ハイライトの有/無は「内面の有無」を切り替えるスイッチであると同時に、ビフォー/アフターの落差によって読者に影響を与える表現となりうるのでしょう。
細かく要素を考えてみれば、ハイライトが消えて白黒の比率が変わるということは、膨張色と錯視などの関係で「一気に瞳孔の面積が広がった」と感じさせたり、逆に「白目に対して黒目が小さくなった」という錯覚を感じさせると思います。
「瞳孔が広がる」「目が小さくなる」というのは、そのまま読者が無意識に影響を受けてしまう部分ですね。
立体感や奥行きも変わります。また、黒丸の瞳ではなく白丸の瞳を描いた場合は、白色の膨張があるだけでなく、「視界が真っ白にぼやけた」という盲目の表現にもなるはずです。
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(うしおととら 愛蔵版 11巻 p143)
だいたい必要なことは書き出したと思うので、今日はここまで。