漫画の構成要素(キャラ・コマ・言葉)に関わる「キャラの横断性」
また研究者向けの更新なのですが。
マヴォ実験漫画ラボラトリー
このコーナーでは、学生作品を中心に、従来のスタイルにこだわらない、新しい「漫画のかたち」を模索した作品、漫画表現の本質を追求した作品を紹介していきます[竹熊]
『電脳マヴォ』にて、学生制作の実験漫画が連続掲載されています。
その関係で、このブログの3年前のエントリに少しアクセスが集まっていました。
ここを紹介していただいたのは、マヴォ編集のサトウタカシさん。
『放課後、雀荘で』と『(注)解答用紙は別紙』の2作品は2009年の日本マンガ学会で発表され、夏目房之介さんや泉伸行さんのブログでも採り上げられています。私たちが普段「マンガ」と呼んでいるものは何なのか?を考える端緒となる作品。http://t.co/iXxAr7Ts #電脳マヴォ
— サトウタカシ (@HONEx2ROCK) 2012, 11月 21
マンガ表現研究のパイオニア、自称「マンガコラムニスト」の夏目房之介さんによる『放課後、雀荘で』、『(注)解答用紙は別紙』についての考察(レジュメ) http://t.co/BOOErK28 #電脳マヴォ
— サトウタカシ (@HONEx2ROCK) 2012, 11月 21
漫画研究家の泉伸行さん@izuminoによる『放課後、雀荘で』、『(注)解答用紙は別紙』を端緒としたマンガの「コマ」についての興味深い考察はこちら http://t.co/pcXmHs9U 実験漫画ラボはこちらです http://t.co/04QvKH25 #電脳マヴォ
— サトウタカシ (@HONEx2ROCK) 2012, 11月 21
実は、そのエントリの補足を当時から考えていたのですが、良い機会なので触れておきたいと思います。
「絵・コマ・言葉」から「キャラ・コマ・言葉」へ
従来から「漫画の構成要素」として挙げられていたのが「絵・コマ・言葉」の三要素であり、それに替わる分類として伊藤剛が提唱したのが「キャラ・コマ・言葉」の三要素でした。
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その伊藤剛による「キャラ・コマ・言葉」論を膨らませるかたちで、「キャラ=同一性」/「コマ=空間」/「言葉=キャラではない文字や記号」と、各要素の意味を掘り下げていったのが、前掲のエントリとなっています。
その上で、こうした主張に対する疑問のエントリが当時ありました。以下に引用します。
「ピアノ・ファイア」でイズミノさんは大きく分けて二つの事柄に言及している。ひとつは、別の空間へと開かれた窓として機能する空間=コマの演出が「漫画らしさ」には必要であるということ。もうひとつは、キャラの同一性がそのような空間=コマの連続性を保証しているということである。
キャラの同一性 | MORTALITAS
前者については私もおおむね同意するが、後者には疑問が残る。その疑問とは、キャラの同一性は何によって保証されているのか、だ。
〔中略〕
なぜ、空間=コマにおける描写が似ていても指示対象(描かれている場)の同一性は保証されないのに、キャラの同一性だけは保証されるのだろうか。
〔中略〕
もし、前者のように、たった一つの空間=コマのなかでもキャラと非キャラを区別する指標が存在するのであれば、先の主張は通りやすい。たった一つの空間=コマにおけるキャラの認識→複数の空間=コマにおけるキャラの同一性の認識→そのキャラが描かれている複数の空間=コマの連続性の認識というように順序立てて考えることができる。ただ、この場合の指標が一体何であるのかは私にはわからない。
ここでは《もし〜キャラと非キャラを区別する指標が存在するのであれば〜》と疑問が呈されていますが、「もし」ではなく、『テヅカ・イズ・デッド』で述べられているところの「キャラ」とは、ちゃんと一枚絵で機能するものです。
『魔法なんて信じない。でも君は信じる。』に収録された、大谷能生の漫画論を引用しながら説明しましょう。
「キャラの強さ」=キャラクターの複製可能性
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大谷氏は『テヅカ・イズ・デッド』の理論をひきながら、漫画のキャラには「イメージを繁殖させていくエネルギー」があるとします。
戦後日本の赤本漫画に「スターをモデルにした漫画」が多かったことも例に挙げつつ、「漫画」の中だけで完結しないような、複数のメディアにまたがっていく「キャラ」の働きは《「マンガ」の魅力的な本質的部分を成しているだろう》とも述べています。
そして漫画というメディアを飛び出していく「キャラ」の複製可能性は、その造形のいかんによって、「キャラ立ち」の強弱が区別されるようになります。
大谷氏は『少年サンデー1983』に掲載された、小林まことインタビューを引用し、キャラ立ちには強弱があることの傍証を試みます。
小林 当時、なんとなく書店を歩いていたら、『うる星やつら』のポスターが突然、目に入ってきたんですよ。それがもう、あまりにもいい絵なんだよ。〔中略〕「あ、この絵には勝てない」と思ったな。それは『タッチ』にも同じことが言えて、役者でいうところのオーラが、キャラクターから出まくってるんですよ。
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ここで小林まことが述懐する《役者でいうところのオーラ》なるものは、コマ割りされた漫画の紙面上ではなく……、一枚のポスターの上から感じ取られている、という事実に留意すべきでしょう。
つまり、高橋留美子の『うる星やつら』や、あだち充の『タッチ』に登場するキャラクターは、「漫画のキャラクター」から「ポスターのキャラクター」へと変換され、複製され、メディアを横断してなお、「キャラとしてのオーラ」を失わないからこそ「キャラが強い」、と称しうるわけです。
小林まことを脱帽させた『うる星やつら』のように、非常に強い「キャラ」が存在する一方で、もちろん「キャラが弱いキャラクター」というのも存在するでしょう。しかしそれは相対的な比較であって、仮に弱いものだとしても、漫画が描かれている以上は、そこに「キャラ」の力(エネルギー)があるわけです。
コマを横断する「キャラ」
この「キャラの強さ」による「複製可能性」と「メディア横断性」の強さとは、実は漫画表現そのものに関わっています。
3年前のエントリでは、「キャラ」の本質を「同一性」だと説明していましたが、「同一性」を別角度から言い直すと「複製可能性」となります。
「同定可能性」と「複製可能性」は同じ意味であって、そのどちらも備えうるものが「キャラ」なんですね。
「キャラ」にはメディアを飛びこえる複製可能性(=複製されても同定可能な同一性)を持つのと同時に、だからこそ、漫画のキャラクターとしてコマ間をまたいでいく性質も持ちえる、ということです。
「同定可能性」と「複製可能性」を同時に含む言葉として、「横断性」と称してもいいかもしれません。
「キャラ」の横断性によって漫画が(物語が)展開していくという理解は、プライベートでは漫画研究者の岩下朋世さんとよく共有している問題です。
こういう議論自体には、あまり意味がないようにも見えますが、これを手がかりにして発展していく考え方もあります。
興味のある方には、『ユリイカ』の荒川弘特集号に掲載された岩下さんの「鋼の錬金術師」論が読みやすくていいかもしれませんね。
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