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マックス・リューティ『昔話の本質』メモ その1

izumino2008-03-04

 真の現実は常に非現実的なものである。(フランツ・カフカ

 友達に借りて読んだ本なんですが、フィクション全般、とりわけ少年漫画に相通じる所が多く、感銘を受けること多々でした。

昔話の本質昔話の本質
マックス・リューティ 野村 ヒロシ

筑摩書房 1994-12
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 まず先にみやもさんの箇条書き感想を読んでいただくと、本の内容を想像しやすくなるかもしれません。

身辺雑感/脳をとろ火で煮詰める日記: 昔話の性質についてのメモ

 マックス・リューティの『昔話の本質』という本を読みながら、私見をまじえてメモる。


■昔話はエンターテインメントである。
 「昔話には何らかの教訓が込められているはず」というのは、ある時代以降の、人工的な脚色を加えられた物語(宗教譚や、特定人物に編集された童話群)に引きずられた近視眼的な見方である。教訓と昔話の本質には直接の関係はない。(艶笑譚のたぐいを参照せよ)


■ディテールがしっかりしすぎている記述は昔話の力強く豊かな感化力を損なう。
 詳細なものは繊細であり、繊細なものは脆弱である。
 たとえば「呪文をとなえた」というプロセスが単純であやふやで適当なことを単に幼稚さと見下し、正しいラテン語で長々と記述された呪文の描写を挿れれば何か上等なものになるかのようにみなすのは理知の害悪である。
 「ある日、大きな森に入った」という場面はただそのまま述べられることで、どんな時代にも通用するイメージとなる。何年何月のどの地域のどのくらいの面積にどんな植物があるか情景をことこまかに特定するのは物語を個別化し、時空間上の限界をもうけてしまう。それは各時代各地域の文学がやればいいことであって、昔話の関知するところではない。


■昔話は叙事詩であり、登場人物の心情や関係はいつも外部の出来事や目に見える物体に投影される。喜怒哀楽はその人物の行動と即物的な状態によってのみ示され、内面に直接もぐりこむことはない。


■昔話は金属的なもの、硬質なもの、形のはっきりしたものを好む。
 具体的には金銀、宝石、ガラス、水晶、刀剣、城、箱などなど。
 それらは時間の流れによく耐える"壊れにくさ"と"明確さ"の象徴であり、その明快なイメージに触れることで昔話を聞く人々は、時代を超えた何かを受け取ることになる。
 昔話の本質のひとつは、時間・眠りという死滅の圧力を跳び越えられる、朽ちない世界・朽ちない事物を描くことにある。(いばら姫を参照)


■昔話は繰り返しと、繰り返しにともなうインフレを好む。
 同じ状況を二度三度と繰り返し、それを少しずつ加速・荷重させて、一番最後に繰り返された状況が最大の難関と最大の収穫or最大の損害をもたらす。
 旅の途中で魔物を倒してお姫様を助けることを三回繰り返した騎士が結婚するのは最後に助けたお姫様である。そしてたいてい、最後のお姫様はそれ以前の姫たちに比べて、なんらかの優越性(美しさ、聡明さ、資産など)を備えており、騎士は他のどの姫と結ばれるよりも幸せになれる。


■(上の続き)そもそも昔話そのものが繰り返されるものである。
 昔話は「かつてこういうことが一度起きた。たぶんまた起きるだろう」という再現性への信頼を物語り、その意味で昔話は語り継がれている限り、永久に現在進行形の文芸となる。


 以下はぼく自身の感想。シリーズ化して、何回かのエントリに分けることにします。

昔話における「説明の少なさ」について

p62より

 この昔話はどういう風に物語られているか。まず目に付くことは、どこにも立ち入った記述がないこと、詳しい描写が見当たらないことである。海の怪物が(スカンジナビヤ風にトロルと呼ばれているが)どんな様子をしているのかひとことも語られない。この場合こそ、怪物の描写がなんとしても欲しいところなのに。(中略)トロルが実際に出てくるところで、トロルの外見の描写が期待されるのだが、ひとこと「怪物」としか書いてない。昔話にはこれで充分なのである。海も浜も描写されない。トロルが海の底からとび出してくるときにはじめて、泡と大波の渦巻くのが見える。昔話は信号で事件を伝えるようなものだ。事件の現場や関係者の描写には深入りしない。一方、なんと多くの創作童話が、主人公の入っていく町の有様をていねいに描いていることか。

 象徴的な事柄を語る「昔話」では、情景や心理のディティールが一切語られない。
 素直に考えてみれば、人間にとって世の中や人間というのは「はっきりしたことはよくわからない」のが自然な状態なのであって、フィクションにおける精緻さや、全知性というのはむしろ「異常」なのだ。


 昔話に不可解な出来事、心情を察するに難しい人物などが登場しても、そこで昔話を批判してはいけない。「物語とは受け手に意味を理解させるものである」という受け手主体の考え方自体が、近代的な発想と言わざるをえないだろう。世の中は元々わけのわからないことばかりであり、物語もまた然りなのだ。


 他方、詩人の手による「創作童話」にはディティールが与えられる*1のだが、こうした違いは、昔話というものが「民間の言い伝え」であり、詩人(アーティスト)が創作するものではないという違いから来ているのだろう。


 非凡なアーティストの才能によってではなく、世俗の民間人に語り継がれるからこそ、それは誰の心にも通じるシンプルさを持つのだろう。
 それは現代のエンターテイメントにも当てはまるだろう話で、「アーティストにとって関心を誘うものが民間からの興味を誘うとはかぎらない」のだ。
 「ミュージシャン志望の人が好む音楽」*2は「一般人の好きな音楽」ではないことが多く、「漫画家志望の人が好きな漫画」は「一般人の好きな漫画」ではないことが多い、というように。


 昔話は、ディティールだけでなくプロットも単純化され、判を押したような繰り返しが好まれる。これも、民間での語りやすさ、語り継がれやすさが好まれた結果だろう。
 昔話は元々、本で読んだり読み聞かせたりすることで伝えるのではなく、口頭で語り伝えられてきたものであるから、書物に遡って一語一句を確認するようなことはできない。だから、単純な繰り返し(反復)で発展していく「構造」そのものを記憶させるよう進化したのだと考えられる。
 ディティールではなく、構造そのものを刷り込もうとする表現というのは、長期にわたる漫画連載や、テレビシリーズなどの表現にも通用する考え方かもしれない。週刊誌をコンビニで立ち読みし、バックナンバーを読み返しもしない読者たちはどうだろう、昔話の聞き手同様、複雑なディティールを覚えていられる記憶力も無いのだ。


 それでも詩人は、自らの芸術性を誇るために「ディティール」を昔話に付け加えるかもしれない。だがマックス・リューティは、そのような行為を「編集者や翻訳者が、現代の読者に合わせてそこのところを緩和したり、ニュアンスをつけたりするのは最大の害悪である。(p69)」と断じる。

 そして、シンプルであるからこそ的確なプロットを持つことについて、「昔話は真の芸術作品の特徴を示している。(p74)」と評価する。


 つまり技巧的であることが、かえって芸術性から遠ざかる要因にもなるのだろう。
 アーティストは自らの芸術性を愛するかもしれないが、民衆の愛する芸術とは、それとは別の所(民間に横たわる、心の奥底の方)にある。


 もちろん、その「別の所」に到達するための技巧を磨く、というアーティストの営みは大いに礼賛されるべきだろう。


 続きます。

*1:つまり「わけのわかること」として描かれる

*2:いわゆる「ミュージシャンズ・ミュージシャン」の音楽