ジャンプ漫画各種反応/テニプリ、アイシル
【8/22】手塚ファントム考察の現状 (The 男爵ディーノBLOG)
靖斗HBさんの説は、ぼくが以前オフ会で架神さん達に披露した「電磁竜巻仮説」とほぼ同じですね。
ぶっちゃけ、ぼくはその解釈でも構わないと思います。というか、許斐先生は概ねそんな感覚で描いてそうです(←これは、合理性よりも見かけ上の勢いを重視しなければならない少年漫画としては、正しい創作態度だと思いますが)。
古典テニス学の立場では、先読み/コントロール仮説を支持し続けますが、新古典テニス学の席上に立った時には、ぼくは迷い無く電磁竜巻仮説を主張することでしょう。
ここらへんの、「漫画に対する辻褄合わせ」に関するぼくの姿勢は、その内まとまった考えを発表してみたい気もします。
http://d.hatena.ne.jp/kaien/20070821/p1
その「努力する天才」を倒してしまったら、今度こそあとはなさそうなものだが、そこで前述の峨王と白秋ダイナソーズが立ちふさがる。どんなに才能があっても力ずくで骨を折ってしまえばおしまいだ、というわけ。
一応、理屈は通っている。通っているが――こんなことで勝ち進めるなら、何のために技術を磨いているのかわからないよなあ。
えーと、少年漫画文法的には、主人公サイドが積み上げてきたものを、根底からブチ壊す存在を登場させて、それをなお「積み上げてきたもの」によって打破するという展開はお約束の範疇であって、文法からの逸脱ではない、と考えています。まぁ最終的に白秋が負けるんだからアリなんじゃねくらいの感覚ですが。
「こんなことで勝ち進めるなら、何のために技術を磨いているのかわからないよなあ」という読者の声は、まぁ率直な感想だとは思いますが、率直であるがゆえに、「そういう残念な気持ちを読者が抱くこと」はストーリー上では折り込み済みの部分なのでしょうし。
それこそ阿含戦にしたって、「才能だけで勝ち進めるなら、努力もチームワークも意味無いよなあ」という、価値観崩壊の危機を、「いや、意味はあるんだ」とやり返す構成になっているわけで、今回の白秋戦はおかしい、などと言って退けてしまうと、「少年漫画の敵は、常に主人公の価値観を破壊するという試練を与える存在である」という基本文法も退けることになってしまうと思います。*1
まぁ、今まで積み上げてきた「強さの価値観」をひっくり返すというのは、レゴブロックの完成品を破壊する時のようなカタストロフ感があり、それがえも言われぬ無常感や気味の悪さ、薄ら寒さを生む……、というのはあるのですが、まぁ「そういう気味の悪さを読者に感じさせる」ことも含めて少年漫画文法に収まる範囲内だったのではないかと(描き方の上手い下手は別問題として)。
ちなみに、「主人公サイドが積み上げてきたもの(=技術や戦術)」に対して「純粋な力」を登場させることで価値観(パラダイム)をひっくり返した作品といえば、「バキ」が思い出されますが、その後、主人公である刃牙すらも「技術」を捨て、その新しいパラダイムである「純粋な力」の領域に乗り上げてしまった……というのは、今後予想される『アイシールド21』の展開と明確に対比されていい部分だと思います。
西部がこのまま白秋に勝つのか、あるいは西部に勝った白秋と泥門が戦うことになるのかは解りませんが、とにかく白秋がよもや範馬勇次郎のような絶対的強者である筈も無いわけで、これまでと同様に「主人公サイドが積み上げてきたもの(+α)」によって敗れるであろう存在であることは間違いないでしょうからね。
確かに、白秋の「主人公の価値観を破壊するという試練を与える存在」としての描き方は少年誌の世界観的にギリギリ、とも言えます。
これが、世界観の限界を度外視するようになると、「超能力の前にはフィジカルな強さは無力」「神の奇跡の前に人間の力は無力」「裏金による不正勝利の前でフェアプレーは無力(←このレベルならアイシルの世界観でも描けそうな気はしますが。ヒル魔なら簡単に裏をかけそうだし)」などなど、いくらでもインフレは可能なのですが、まぁそれでも「最終的に主人公サイドが勝てば少年漫画だよな」という、ざっくばらんな読み方をすればオッケーだとも言えます。
*1:そういう意味で、「同じ価値観の中で競い合う存在」というのは、少年漫画的には「敵」ではなく「仲間」なんですよね。「強敵」と書いて「ライバル」とか「とも」と読む感じ