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萌えの入口論 解説(3)

 この「解説」は、基本的にぼくの主観で、言いたいこと、伝えたいことを重点に書いています。その分偏向した意見だと言えるし、気持ちだけ先走って理屈になっていないようなことまで書いてる可能性もあるでしょう。
 「入口論」自体はできるだけそうならないように気を付けた、むしろぼく以外の人の意見を代弁するような論調で書いている(要するに「相手を立てる」文章にしてある)のですが、こちらではぼく個人の主張がより強くなっています。
 だから、入口論の「筆者」と、こっちの「ぼく」は別の論者が書いてると思って読んでもらった方がいいかもしれません。適当にバイアスをかけて読んで頂けると助かります。

2:敷居と入門」の補足解説

 さて、そういえば前回「視点」のことで書き忘れていたことなんですが、受け手側には「感情移入の器用さ」という要素があると思います。
 日本人は、比較的「器用」な民族だと思います。


 例えば、映画『ゴジラ』では、普通なら観客は「ゴジラから逃げまどう民衆」や「ゴジラをやっつける隊員や科学者」に感情移入して観る筈なのですが、何故か「街を破壊するゴジラ」や「やっつけられるゴジラ」にも感情移入して、その爽快感や滅びの美学に感動します。子供も「ゴジラごっこ」と「自衛隊ごっこ」を同時にしますよね。
 作り手側も、人間とゴジラの価値観を行ったり来たりして映画を撮影している。ある程度、観客の器用さを信頼して作ってる部分があって、子供でもその信頼に応えて観ることができます。


 逆にハリウッド映画は「観客は不器用だ」という前提で作られることが多いみたいで、ハリウッド版『GODZILLA』だと、GODZILLAは単なる「軍隊にやっつけられるモンスター」としてしか描かなかったりして「あぁ、アメリカ人は不器用なんだなぁ」とか日本人は思ってしまうわけです(えらい失礼な偏見ですが)。
 『バットマン・リターンズ』なんか、観客の器用さによって見方が変わってくる映画でしょう。『EP3 シスの復讐』もそうかも。


 これと同じことは、前回説明した、恋愛モノやポルノ(ラブコメ、ギャルゲー、エロ漫画)でも似たようなことが言えます。
 ぼくが「男性本位の形式が守られている」と評したギャルゲーであってもそうで、ギャルゲーマーがどんどん「乙女回路を内臓」していくのも、主人公の視点とヒロインの視点を行ったり来たりしてるからです。こういう器用なことを無意識にやってのけてるわけですね、ギャルゲーマーの諸兄は。
 『ラブひな』で、主人公が退場した後からヒロイン視点になってつまらなくなった、とか言う人は(こう言っちゃ悪いけど)感情移入の仕方が不器用な人なのかもしれません。
 ギャルゲーの主人公がスーパーマン(or イケメン)すぎると感情移入できない人、ってのも不器用といえば不器用でしょうか。


 こういった「器用な読み方」を意識的に行った例が、「貪欲な美少女漫画の読み方」として説明した、「積極的に女性視点を楽しむ」スタンスだと思います。器用さを鍛えるトレーニングだと言ってもいいかもしれません。
 まぁ、みんなで真似しようぜ、とまでは言いませんが、そういう読み方もありうるんだという程度には知っておいてほしいと思います。


 また、「男は男性キャラに必ず感情移入して、女は女性キャラに必ず感情移入するんだ」という法則もありません。
 内田樹は『女は何を欲望するか?』の中で、読み方をそのように限定する考え方を「モダンすぎる」と批判し、例えば『赤毛のアン』を読む男性はアン・シャーリーに感情移入して、アンの気分で恋をしたりもするのだけど、別に読者がオカマになったというわけでもない。「物語」にはそういう「性別や年齢を超えて感情移入させる力」があって、そういうものなんだ、みたいなことを書いています。
 この「感情移入させる力」というのが「演出の力」であり、例えば漫画だとここの後半に書いてあるような主観操作のテクニックが有効活用されているのでしょう。


 一方、「異性に感情移入できない人」は不器用だと言えますが*1、逆に「異性に感情移入したまま自分に帰ってこれない人」もやはり不器用だと言えます。
 その問題について考えようとしているのが四頁目の「出口論」です。

3:梯子から内面へ

 三頁目では、「萌えの世界に入門することで、その世界への足掛かり(梯子)が手に入る」ということを述べているのですが、これは、どんな娯楽や芸能の世界でも言える、一般論として通用することだと思います。
 料理だと「味覚に目覚める」って言いますよね。テクノを聴き続けたら「テクノ耳が出来る」とか。
 「入門」と大袈裟に言ってますが、武術や職人芸の「奥義」を会得することにも喩えられます。
 精髄を知る、滋味を味わう、微細な感覚を得る、とも言いますが、つまりその道の「本質(エッセンス)」を掴むということですね。


 世の中には非常に感覚に優れた人というのが居て、「○○の神様」だとか「天才」「開祖」と呼ばれる人は、自分自身で「本質」を掴んだ人だと言えます。人類の革新?
 (ちょっと話が飛躍しますが)合気道の世界だと植芝盛平がそうです。まぁあの人も武田惣角とか出口王仁三郎に師事してはいたのですが、最終的な「武産合気」に開眼した後は「自分は誰にも教わっとらん」とか言い張っていたわけです。入口が無い所から、天賦的な感性で我流の奥義に辿り着いちゃったわけですね。
 逆に、植芝盛平以降からは「植芝流合気道」の理論が体系化されて、弟子達に丁寧な「入口」(入門用の練習メニュー)を用意するようになったわけです。
 まぁまた別の喩えで言えば、「最初にナマコ食った人って凄いよな」「最初にキノコを食べた者を尊敬する」という話。
 ナマコはそのままだととても食えそうには思えませんが、刺身にしてお皿に盛ると「旨そうだな」と箸をつけられるわけです。「タコはワサビ醤油で食べると旨い」とか気付いた人も天才ですな。


 萌えの世界で、手塚治虫吾妻ひでおが「神」呼ばわりされるのも同様の理屈で、手塚治虫は誰に教えられるでもなく(?)「二次元は萌える!」ということに気付いてしまった。しかもそれを人に伝えられる才能(料理人としての素質)を持っていた。そのインスピレーションを作品に焼き付けて、すると読者がどんどん「入門」していく(※間違った方向の性の目覚め)。
 後は芋づる式です。
 開祖の影響を受けた世代が夢中になって「入門」用の作品をリリースし、「萌えの本質」を後世に伝えていく。新興勢力も分派も突然変異もある。そして現在の状況があるわけです。


■「萌えの世界」に架けられた梯子

*仮説のひとつ
 ここで挙げる他にも、オタクの世代や趣味によって実に様々なルートがありうる筈で、どれも無視できない。

 だから結局、「梯子を手に入れる」という経験は「入門用の作品による原体験」あるいは「天性の感性による開眼」で得られるもので、これこれこう、と限定できません。「入口論」では、解りやすい例や、世間では見逃されがちな例(特にシモ方面)を挙げているだけですね。
 なのでぼくが挙げている実例と自分の体験が合致しなくても当然ですので、そこらへんはご了承ください。むしろ足りない部分を自分の個人史と照らし合わせて補強していただけたらと思います。


 ちなみにここらへんに書かれていることは、みやもさんにアレンジしてもらってロフトプラスワンで発表されていた秘密
 これ見に行った人、居るでしょうか。

本田氏「ここで発表するのはもったいないくらい(の妹理論ですね)」
アニメ会「ここ以外で、どこで発表できるのか!」

 ……とか言われてるのが、今見ると面白いですが(笑)。


■キャラクターは支配できない

 ゆえにキャラクターを愛するオタクは、究極的には「他者性」の介入を許す。自分の好きなキャラが、原作、あるいは二次創作で自分の支配から解放される瞬間を望むのだ。
 だからこそ、物語の中で愛しいキャラが(本人の思いもよらず)傷付けられた時、我々はまるで自分のことのように心を痛め、悲しみ、更に愛を深めることもできるのである。
 既に述べたことの繰り返しになるが、理想的な萌えキャラとは「自己投影」と「他者性」が適度にブレンドされた存在なのだと言えよう。人は他者をこそ真剣に愛するのだ。

 ここは割とサラッと流してますが、重要なことを書いていると思います。
 「キャラが傷付けられた時」、というのは喩えのひとつであって、要するに意外性が求められるということですね(「どうせ心の底では相手を傷つけたいと思ってたから喜ぶんでしょ?」とツッコまれそうな記述ではありますが、まぁそういう時もあるし、そうじゃない時もあるでしょう)。
 「相手にこっちの期待を裏切られる」「見たくない部分を見せられる」というのも、面白いことにキャラ萌えに強く作用するようです。
 生々しいシスプリなんてその典型だと思うんですが、これは別に参加者達がオリモノフェチの変態なわけではなく(いや変態のような気もするが)、「別に見たくも知りたくもないリアリティ」をあえて取り込むことで、キャラクターを「コントロールの効かない他者」のレベルにまで押し上げようとしているわけですな。


 また、こういった視点は、「キャラ萌え」と「現実の人付き合い」の比較検証を重ねる為にも大事です。特に重視してほしいのはここだったりします。
 二次元での愛情は「入口」から相手の内部に入り、「内面の理解」がまず先で、その後で「他者性」を求めるのですが、現実での愛情は「他者性」がまず先であり、その向こうに「内面の理解」が待ち受けていることが理解できるでしょう。


 ぼくが考えるのは、「この違いを認識して、現実と虚構を混同するな」というありふれたお説教ではなく、逆に、虚構と現実の結びつきを見出し、「二次元のキャラクターに対する愛情の力を、なんとか応用して現実に向ける為にはどうすればいいのか?」という、工夫についてです。
 この問題も四頁目の「出口論」に繋がってくる話ですので、後で改めて触れることにします。


(「4:総論/出口論」の解説に続きます)
http://d.hatena.ne.jp/izumino/20050826#p1

*1:そういうポリシーがあるだけかもしれないから、「不器用」と悪く言うのもアレですが。あえて女には感情移入しない、という男の人もストイックで格好いいんじゃないでしょうか