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『サマーウォーズ』が時かけの失敗を繰り返さなかった、簡単な理由

 映画『サマーウォーズ』は8月の上旬に、四人でつるんで観てきました。
 その日に身内向けに書いていた感想を、かなりの長文になりますが公開しておきます。
 もうすっかり秋ですし、『サマーウォーズ』という夏の映画の問題をそろそろ片付けておこう、ってことで。

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鑑賞後直後のつぶやき

「びっくりするほど普通に面白かった映画ですね……。時かけで失敗していたことと比べてみれば」


「(なぜ時かけからこんなにも変わって見えるのか)だいたい分かりました」

友達とダベりながらの感想

「1800円ぶんは充分楽しめる。いわゆるプロの仕事ですね」


サマーウォーズでかなり語れますね。いいですね」

映画監督・細田守の資質

 おそらく細田守の、(映画監督としての)作家性は、キャラクターを客観的に観察するようにしか描けない、あるいはそういう風に描きたがる、という点に特徴があります。


 『時をかける少女』と『サマーウォーズ』でもそれは共に同じですが、時かけでは明らかにそれが悪い面として出ていました。
 時かけはヒロイン一人の心理に焦点を絞った物語であり、その内面をじっくりえぐって踏み込むことに主眼のあるプロットなのですが、それを細田守は、観察者の目になって眺めるように描写する、という悪趣味さが含まれていました。


 悪く言ってしまえば、時かけの観客は、この悪趣味な監督の視点の共犯者にさせられるのであって、しかもそのことに対して無自覚にさせる作りも難点でした。


 この悪趣味さは、ソポクレスの『エレクトラ』における構造を思いだしてもいい問題です。

中村善也『ギリシア悲劇入門』p85-87より

エレクトラ』に関していえば、エレクトラの「こころのドラマ」を観衆にたいして効果的にしているものは、劇冒頭においてオレステスらの今後の計画が彼らには明かされたが、オレステスの味方であるべきエレクトラにはそれが知らされなかったという工夫にある。〔中略〕何も知らされないヒロインの一喜一憂するさまを眺めることができるというこの工夫は、エレクトラをいわばガラス箱に入れられた「被験動物」として、与えられた刺戟にたいするその反応を観察するという立場に観衆を置くものであった。そして、この立場が、エレクトラの「こころのドラマ」をなめつくし、しゃぶりつくすことを観衆に可能ならしめていたのであった。
 もっとも、こういう観衆の立場は、『オイディスプ王』の場合においても考えられうる。〔中略〕
 だが、『エレクトラ』では、エレクトラという「被験動物」の反応を見守っていたわれわれの目は、多少品悪く言えば、私室での彼女の自由なふるまいを、こっそり望遠鏡ででも眺めているに近い「のぞき見」的な遊びの目であるという感がなくもない。〔中略〕そして、この作品はどういう意味において「悲劇」なのかという問いも、ありうることだろう。

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 ソポクレスの場合は、自覚して露悪的に物語る作家だというのが、細田監督との差として考えられるのですが……。
 そして時かけでは、ヒロインの内面に踏み込んでいながら、そこに精神的なオチを付けることができていませんでした。結局は、客観的にしか人物を捉えられないカメラだったからです。


 さて、そんな演出構造を持っていた時かけに対して、『サマーウォーズ』の焦点は「家族」にあり、ヒロインや主人公一人に絞るよりも、群像劇であることに意義のあるプロットです。


 そのため、映画『サマーウォーズ』ではどのキャラクターへの踏み込みも比較的フラットであり、また、その内面をクローズアップすることがほぼありません(註:漫画版の『サマーウォーズ』ではキャラクターの内面への踏み込みが各所で見られる)。
 細田守が、作家性としての「客観的な視点」とマッチした題材を選んでいる映画が『サマーウォーズ』だった、と我々は思うことができます。


 キャラクターの内面をクローズアップするということがほぼなく、その行動の結果だけが描かれていく、という作風。*1


 内面を描かない代わりに、あの一族の構成員それぞれの伏線とドラマ(=課題や試練)は「行動の結果のみで」ほとんど拾いきっており、その点ではかなり律儀なシナリオです。*2


 そういえば「行動しか描かない」というのは前近代の文芸を評する言葉でもあって、作中で「戦国武将の合戦記」をことさら引用しているのも、ひょっとしたら(内面を描くという発想そのものが無い)「前近代の物語」のイメージを意識してのことかもしれません。
 偶然の一致だとしても、この一致自体は示唆的で、興味深いところですね。


 ……と、ぼくが上記のようなことを説明してから『サマーウォーズ』を観るように薦めたのが物語三昧ペトロニウスさんなんですが、そのペトロニウスさんによる解説もあります。

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20090816/p1

キーワードは、「内面の描写」です。群像劇は、たくさんの人が集まって小さなエピソードを重ねることで状況を進める手法なので、主人公の内面をクローズアップして説明したりしません。この手法は『サマーウォーズ』でも使用されているので、そういった観点で見てみるのも悪くないです。この違いを抑えると、ハリウッドのスターシステムや昨今の日本の私小説の伝統に連なる、内面を執拗に追い詰めていく作品との表現上の違いが分かるので、興味深く感じられますよ。

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20090814/p1

 物語の類型史に詳しい人、、、小説の発生の歴史を知っている人は、近代以前の物語が、内面を語らないで人物を動かすことで状況を動かしていく手法をとっていたことを知っていると思います。〔中略〕つまりは、近代小説と呼ばれるものは、主人公に内面を発生させ、「ああこれって私のことだな」という風に感情移入させることによって発達してきた経緯があります。ちなみに、小説が内面を描いたせいで、「このように内面で考えるものなのだ!」と逆に大衆がトレーニングされて内面を深掘りするようになったといわれています。


〔中略〕


 つまりね、物語の復権の一類型だと僕は思っていますが、ようは、古き小説物語のスタイルに回帰しているんですよ。


 描写の仕方として、時かけから向上している部分を挙げるなら、ヒロインが大粒の涙をこぼす、大泣きのシーンが最も見分けやすいでしょう。
 『時をかける少女』の大泣きシーンは、延々カメラが女の子ひとりを長回しするのですが(場面中には女の子一人しかいないので、カメラが彼女の内面をなめつくしているような視点が生じる)、群像劇の『サマーウォーズ』ではそうならない。
 まず、長回しする時間そのものが短めで、すぐにサッと「横にいる主人公の視点」に切り替わるから。
 「夏希の泣き顔」が消え去り、「その泣き顔を見て心を痛めるケンジの視点」→「そのケンジを背中側から眺めているカメラ(=観客)」……というように、ヒロインの内面からカカッとバックステップしていくカメラワークも気持ちいいのですが、それがうまく「複数の人間を、離れた距離から外面だけ眺めている」というサマーウォーズらしい視点を提供してくれています。


 こうした演出上の対比の上で、『サマーウォーズ』という作品の良さを語ることができます。ですが、それでも細田守の「資質」が両義的なものであるのも確かで、いわば「もったいない」「盛り上がりが足りない」「フラットすぎる」といった感想を抱きやすい「ちょっと残念な映画」にもしている原因を作ってもいるのですが……。

サマーウォーズの良かった部分

 しかし普通の映画として、1800円相当のクォリティがあるという意味で「充分アリ」と肯定していい作品であり、基本的には好意的な評価を受けるべき映画である、と評せるはずです。


 一件「ナシ」なように思える所は、見なかったフリをするよりも、脳内補完で結構なんとかなるものです。というか、補完解釈による辻褄合わせゲームを友達同士で味わえるという点においても、しみじみ面白い映画だと思います。


 例えばこんな風に。

「サマーウォーズ量子論」説 - ピアノ・ファイア

ケンジたち56人の暗号解読者たちは「突然変異か何かで脳の中に量子コンピュータを積んで生まれてきた天才たちだってことですよね!」というウソSF解釈で盛り上がれたりします。


 また例えば、こんな風にも。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/radio/11307/1252241131/

141 :いずみの:2009/09/06(日) 23:24:55
ラブマシーン(の被害)がしょぼいのは、
サイバーテロやったところで、人はすごい迷惑するけど、
ひたすら迷惑するだけで、大量殺害ができたり、カタストロフが
起こせるくらいの全能感は手に入らない」という意味では、
テロにロマンを感じてしまうような子供に対しては教訓的だったのかもなー
と後で思うようになったりも


衛星落としは、「こんなにやってるのになんで人が死なないの?」っていう
ラブマシーンの、子供じみたキレ行動から出たもの、って思ってみると
ラブマシーンが幼稚でムキになってるAIって風にも見えてきますね


 語りどころは沢山見つかるので、うまい解釈をひねり出せるかどうかが試される映画ですね。

サマーウォーズのもったいない部分

 次に、「もったいなさ」を感じさせる所について……。
 「行動だけを描いている」「客観的に離れて眺めているような」視点の置き方が、どうにも演出とキャラクターとをコミットメントさせないことになって、「フラットで冷める演出だな」という印象になる傾向があります。


 しかしその「キャラクターとの距離が遠い」演出も一貫しておらず、時折「キャラクターの活躍と強くコミットメントするような場面」に「見せかけている」部分も多々あるため、そこに期待するような盛り上がり(=感情の上昇曲線)がピークを迎えないまま過ぎてしまいがちです。
 この「期待するような盛り上がりの無さ」の話なら、こいこい勝負の演出の仕方を代表に確かめることができます。


 こいこい勝負のどこがもったいないかというと、あのレア装備が夏希にプレゼントされる前後の流れ。
 普通にあそこを盛り上げたいなら、ピークをちゃんと「偶然にもあのアイテムをプレゼントされた奇跡」に持っていくか(いわゆる「奇跡のインフレ、大安売り」の演出)、もしくはそれを踏み台にしてガガガガっと畳みこめられるように描くはず。*3


 ただ、そうしなかった理由もわからないではない。
 基本的にこの映画の盛り上がりの作り方は「リスクの分散」のロジックに従っていて、「ここが勝負どころ! ここのために他の全てがある!」という根性の入った場面は作らないようにしてあるからです。
 一箇所に乾坤一擲するよりも、カツカツと小刻みに「中くらいのピーク」を連打していくことで中規模のリターンを重ね、リスクが一箇所に収束してしまわないようにしてあります。しかしそれは「大規模なリターン」がどこにも無いということでもあり、でもそのフラットさが『サマーウォーズ』を「群像劇のサマーウォーズ」にしているゆえんでもあるでしょう。

この記事の草稿をmixiにアップしていた頃のチャット

ろくさん: >普通にあそこを盛り上げたいなら、ピークをちゃんと〜
いずみの: こいこい勝負の話?>ピークをちゃんと〜
ろくさん: ああ、あれはなんでしょうね?
いずみの: あれは語りどころですよね
ろくさん: あそこで盛り上げたかったんですかね?
ろくさん: いま、思いましたが、あれって細田のテレですかね? 笑いに持っていこうとする気質というか
いずみの: 妙にローテンションなんですよね
いずみの: 照れかなあ
ろくさん: 盛り上げきれない。熱を溜め込むのが恥ずかしくてできない。
ろくさん: 恋愛は結構ヤレル人なのか
ろくさん: ただ熱血が無理という
いずみの: 逆に、ボロボロのキングカズマが弱ったラブマシーンに一発入れるまでの所なんかはテレてない感じだけど
いずみの: だからカズマがヒロイン、先輩空気、とか言う観客が出てくるんだと思う
ろくさん: ああ、あそこか
ろくさん: あ〜あれは熱血だな〜
いずみの: あそこは熱血キッズアニメっぽい恥ずかしい流れをやれてますね。ただ、「なんでラブマシーンとキングカズマの一騎討ちしか選択肢が無いんだ」というツッコミどころがあって、初見時は冷めるんだけど
ろくさん: >基本的にこの映画の盛り上がりの作り方は「リスクの分散」のロジックに従っていて、「ここが勝負どころ! ここのために他の全てがある!」という根性の入った場面とかは作らないようにしてある。
ろくさん: では,こーゆー意味でのテレかな
いずみの: 「なんでカズマ以外が戦闘しないんだよ」って思いますよね、あそこは(笑)
ろくさん: うん
いずみの: バーサスモード中はカズマ以外のアカウントは手出しできないって脳内補完はできるけど、映像だけでわからないからなー(手出しができるのは、ラブマシーンも複数のアカウントで戦っている時だけ?)
ろくさん: 長いキッズアニメなら、宿敵な形になってるからトドメは子供に、とか若い才能で未来を切り開く的な展開になってるだろうから、納得できそうだけど
いずみの: でも乾坤一擲の演出ができないかというと、時かけだと結構、乾坤一擲で作られてません?
ろくさん: う〜ん・・・
いずみの: 大泣きシーンと泣き走りシーンと、前向きタイムリープシーンさえあれば感動させられるぜというヤマを信頼してる感じはする
ろくさん: wwwwwwwwwwwwwwwww
いずみの: で、そのヤマがないサマーウォーズはむしろ成功してるかもね、と
いずみの: カズマリベンジやこいこい勝負とかを、もっとヘタクソな「ヤマ」として演出が大勝負かけてたら
ろくさん: 失笑を買っていたかもしれないと
ろくさん: ああ、リスク分散してますね
いずみの: 一番のヤマってやっぱりおばあちゃんの死だと思うんですけど
いずみの: あそこの盛り上げ方は、かなり上手くいってると思うんですよね。んで、そういう安全で確実なパンチを、クライマックスではなく映画の折り返し地点に入れている
ろくさん: なるほど
ろくさん: テクニカルな判断だ
いずみの: 一番でかいピークが折り返し地点にあって、クライマックスは中パンチをカツカツ入れてるんですよね
ろくさん: 勝負の描写では製作者が勝負していないのか
いずみの: なんかちょっと、M1の漫才を思い出したんですよね
いずみの: M1の漫才って「どっ」と大笑いさせてもテクニカルな審査をされない伝統があるらしくて
いずみの: 10分中に、何回ボケとツッコミを連打できるか、笑いどころを何回作れるか、っていう技術で「巧さ」を比較されるらしい
ろくさん: おお、なるほど
いずみの: 質より数なのか〜って、素人からすると驚く基準なんですけど
いずみの: だからオードリーが負けると。仮にオードリーの方が面白くても(笑)
ろくさん: サマーウォーズはシナリオ的にも詰め込んでますよね
いずみの: だから、戦術的だとは思いますよ。「M1勝ち抜こう」ってM1向けのネタを用意する漫才師程度には、戦術的
ろくさん: M1は評価する側がそうだから、ですけど、サマウォは誰に対して狙ってるんでしょうね
いずみの: どうでしょうねえ、一般客はカツカツ当てた方が喜ぶぞ、と判断してるんだろうけど
ろくさん: M1はあんま見ないから解らんですけど、サマウォは誰に目掛けているんだろう
いずみの: 少なくともアニメ評論界に「カツカツ詰め込む方が技術的に優れたアニメである」、なんて価値基準は共有されてないと思いますからね
ろくさん: ですね
いずみの: M1も、一般客はカツカツの漫才と、オードリーの漫才は好みで五分五分だと思うんですよ
ろくさん: ああ、なるほど
いずみの: 好みで五分五分だからこそ審査員は技術で見なきゃ、公平なこと言えないんでしょうけどね
いずみの: 映画もたぶん五分五分だと思うんですよね。あと、映画はM1と違って尺の長さを作り手側で選択できるから、そこも条件が異なるはず
いずみの: まぁとりあえず、『サマーウォーズ』の「114分で群像劇をやる」「リスクの分散で作る」というのはひとつの形式を作ったというか、技術的なステップアップを目指したことにはなるでしょうね


 こいこい勝負は、「ギャンブル場面としてもったいない」と思わずにいられないシーンでもありましたが*4、もしここを映画全体のピークにしてしまうと、夏希先輩が全部を持っていきかねない所です。
 群像劇にするために、(おばあちゃんの死だけを除いて)ピークをフラットに抑えている……という風にも見える作りでした。


 一方で、この一点(=リスクの分散を志向して全体をフラットにしていること)をして「この映画には王道が無い」と言い切ることも可能です。
 王道ではないというより、細田守は「王道好きの気持ちがわからない人」なのだろうと思います。それはほぼ間違いなく、そうでしょう。


 時かけでは、一点に収束させようとしてかなり「キャラクターの内面の問題」と「映画的な演出」がズレたことになっていましたが、その過ちをくり返してないという意味でも、サマーウォーズの志向したことは正しかったように思えます。


 しかし……、物語を一点に収束させることをせず、ほとんどの描写が外面的で、はっきり真偽を識別できる情報の少ない『サマーウォーズ』には、また別の問題も生じています。
 まるで量子論コペンハーゲン解釈のごとく、観測によりフィルム上の情報が確定していくのであって、人によっては「とても同じ内容の映画を観ているとは思えなくなる」ことも多々あるという、困った現象を引き起こすことにもなっています。

「サマーウォーズ量子論」説 - ピアノ・ファイア

ろくさん: 悪い客なのか、いい客なのか良くわからない、それww
いずみの: いや、「だいたいいい話だな」というのは初見でも感じると思うけど(笑)
ろくさん: そうなのか〜わりと私の評価はもっと低い位置ですけど


いずみの: サマーウォーズ量子論説、というのをぼくは唱えていて


ろくさん: wwwwwwwwww
いずみの: 観測者によって、収束する情報が変わってしまう映画だっていう
いずみの: わりとマジな意見
ろくさん: そうですね。あれだけ散らばってると、取捨選択は視聴者がやることになりますからね
ろくさん: 核家族非モテ論争やりたい人ならそっちに収束しそうですし
いずみの: 別の人とサマーウォーズの話をしていて、「本当にこの人は、俺と同じ映画を観たのだろうか……?」って思うくらい、語っている映画の内容が食い違う、ということが多々ありまして
いずみの: しかも、「一緒に観にいった友達の観測」も情報の収束に影響するみたいですね、ぼくが知る範囲の体験談だと


 また、フラットな群像劇であるということは、観客が「どのキャラクターを中心に感情移入するか」によって情報が組み替えられ、それ以外の情報を「見えなく」してしまう、ということでもあります。


 人々の間で感想が交わされる映画としては、ちょっと憂鬱になる話ですね。

【ちょっと休憩】友達とのダベりのトピック

  • 「こまけえことはいいんだよ」とか思考停止することがさも正しいかのように語る肯定派へのdis
    • 全然擁護になってないから「こまけえことはいいんだよ」と一回言うことに国家は税金をかけていいと思う
  • カズマは女の子だと思ってた、カズマがヒロイン、といった感想へのdis
    • ネタバレ抜きで観賞した三人が三人とも、「一瞬迷ったけど」男だとすぐ認識できていたので、そういうのはただの誤読なのでは、という印象が(二次創作で盛り上がるのは理解できるが)

ハリウッド脚本術から考えるサマーウォーズ

 麻草郁さんの『サマーウォーズ』感想に絡めて行われた議論も、ここに載せておきます。

細田監督作品の、きらいなところ。(絶叫機械+絶望中止)

 細田監督は、ひとつの作品内で観客に参照快感を学習させるのがとてもうまい。引用やオマージュはなく、あってもごく控えめに、詳細がわからなくても楽しめる作品を作る。だが、それ以外の脚本技術が壊滅的にひどい。基本的に物語の転がる原因がすべて「失敗」だ、と言えばわかってもらえるだろうか。もちろん彼の作品テーマがすべて「失敗からの回復」だとしても、シナリオのあらゆる分岐点が失敗で彩られていい理由にはならない。

 この記述を読んで、麻草さんに以下のような質問を投げてみた。

 麻草さんの言う「失敗からの回復」が細田特有のテーマで、他の文脈からすれば気になる……というのはちょっとわからなくて、失敗続きなのは普通に、ハリウッド脚本術に忠実なだけなんじゃなかろうか。

いずみのの疑問に対する、麻草さんのレス

>失敗からの回復
 確かに脚本術としては基本テクなんですが……。
普通は失敗を回復するために払う犠牲(命やそれに相当する何か)を、払うに足る失敗を、逆算して作るんですね。だから主人公が悲惨な目に遭う理由は自業自得が一番(殺したから殺される等)、次に近親者の失敗(恋人が主人公と喧嘩したあとで誘拐されちゃうとか)があって、任務だの正義感だのは障害になりこそすれ行動理由としては弱い。
 で、主人公とは無関係な第三者の失敗がプロットを動かすのは観客を主人公の後悔や内省への感情移入から引き離すもっともひどい悪手と言われています。


 細田さんはこれをよくやる。最初は主人公の自業自得だったはずなのに、途中で主人公の責任を取り去ってしまう。でも最初は自業自得風に見せるんだよなあ。

いずみののレス

>で、主人公とは無関係な第三者の失敗がプロットを動かすのは観客を主人公の後悔や内省への感情移入から引き離すもっともひどい悪手と言われています。


 あ、そこ! そこですね。
 ぼくは細田守を今回、「客観視点で群像劇を描いてこそ発揮される作家性」だとみなしてからこの感想を書いているのですが、この観点に気付くことができれば、「主人公への感情移入」というのは『サマーウォーズ』の前提にすべきでないことがわかるはずなんですよね。


(そういえば、クーンツ先生もハリウッド脚本術も、「主人公を焦点化させない、群像劇の脚本の書き方」は教えてなかった気もしますね。そこはどうなんだろ?)


 だから氷を運び出してしまって親戚の子供を失望させた警官のあんちゃんには、あんちゃん自身の群像劇が駆動することになり、「主人公があんちゃんのヘマを取り返す」という話には焦点化されません。「あんちゃん自身がヘマを認め、家族の作戦の輪に加わる」という、「彼の行動そのものを試す話」になっていく。


 群像劇だから主人公への焦点化はそんなに重要じゃなくて、むしろ前半ではひたすら「家族の家長としてのおばあちゃん」が物語の焦点を集め、そこで主人公は脇役である。
 おばあちゃんの死(=退場)を折り返しにして、「群像劇の脇役」だった主人公が、自分のドラマを断片的に演じ、それが群像劇の中に回収されます(警官のあんちゃんが勝手に自分のドラマを駆動させていたのと同じように)。


 肝心なのは、あの主人公のドラマって一見、巻き込まれ型のボーイ・ミーツ・ガールを経ておばあちゃんに見込まれ、その期待を現実にすべく頑張って女の子を守る! という王道の契約/再契約ストーリー……に映るんですが、本質的には「誤字ミスで日本代表になれなかった計算の天才が、今度こそ凡ミスしないよう、本当の正念場で誤字グセを克服する」というタスクを与えられているということですね。
 だから彼はクライマックスで「(今度こそ凡ミスは無しで)よろしくおねがいしまーす!」ってわざわざ叫ぶ。あれ、日本代表の筆記試験かなんかを思い出してるんでしょうね。
 実はラブマシーン事件や夏希先輩のこととはまるで関係の無い、「彼自身の過去」から来る試練を行動で返す、ってだけの話になっている。
 この段取りは、「親戚の子供に殴られてマイナスを作ったあんちゃんが→今度こそ家族と結束して信頼を取り戻す」というタスクを与えられてクリアした流れと同列で、スパンは違うけど横に並べられたものにすぎません。


 とまぁ、これこそが群像劇であるな、と。


 とにかく「細田守の映画はひたすら観察者の目で眺めるもの」という前提がわかった時点で、主人公への感情移入はたいした問題じゃないと区別がつくと思うんですが、そうか、そこでそんなルールを気にしないといけないんだな……さすがクーンツ先生がおっしゃる「売れたければ定番のルールから離れたことはやるな」という言葉は正しいっていうことですかね。
 細田監督が悪いというより……、サマーウォーズでこのことが問題扱いされるというのは、どっちかというと「クーンツ先生が正しすぎて困る」という現象のような気がしますね。

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 (ちょっと考えてる)っていうかやっぱり夏希先輩が主人公なんじゃ?
 まずこの物語は、甘い考えで後輩を実家に連れ込んだ、夏希のヘマから始まる。
 その後輩もヘマ属性持ちなので、どんどんトラブルが実家の中に起こるが、それだって夏希が内省しなきゃいけない問題だ。後輩を「甘い考えで」連れ込んだのは自分なのだ。


 「ウソの恋人を連れてきたヘマ」と「ケンジが指名手配されること」「おじさんが事件の元凶だったこと」はまるで別の問題なのだが、別問題であるがゆえに複雑な内省が解決されないままプロットは進み、まるで自分の過ちに対する罰であるかのように、好きなおじさんはいなくなり、おばあちゃんは死んでしまう。


 おばあちゃんの喪失は、自分から後輩に手を伸ばすことで埋められる。それはケンジに「許される」ことでもあり、後輩に迷惑をかけてしまった責任から来る内省を解消するものでもある。


 おじさんも、暗証番号を自力で解くことで取り戻すことができた。


 そして親戚がやったことの多くは、あの家の中では、共同責任として扱われる(警官のあんちゃんがカズマを怒らせたことも含む)。
 だからこいこい勝負の場面は、家族全員と一緒でやることに意味がある。


 「外とコミュニケーションを取れ」と言い残していたおばあちゃんを失って、しかしその遺志を受け継げずに「家族だけでなんとかしよう」としていた連中だからこそ、一億人が「協力してくれた」ことに夏希がハッとしたりもする。
 その時にはじめて、おばあちゃんのレベルまで陣内家が「追いつく」ことができたという展開であって、それが夏希の女性的な魅力による、というのも「作品世界を支配しているおばあちゃんの存在→夏希への小さな継承」を象徴している。


 偶然連れてきた男の子が、迷惑をかけただけではなく実はすごいやつで、そいつに手を伸ばしてみたら気持ちを返してくれた、というのはこういう諸々のがんばりに対する「奇跡のようなご褒美」なのだろう、物語的には。


 夏希に焦点化させると、わりとなんか落ち着く話になる感じだ。


 あ、ちなみにぼくは細田守の作家性そのものは、(麻草さんもそうであるように)まだまだ懐疑的で、「でもサマーウォーズがこんなにまともに出来ているのはなぜなんだろう」ってスタンスでこれ書いてるんですよね。

麻草さんのレス

 群像劇の指南書って読んだことないな、そういえば。


 演劇は内省を描きづらいので、自然と観察めいた冷たい群像劇になりがち。で、おれはプロットの不備を「人生の不条理」とかいって逃げる舞台を見すぎて食傷気味なのかもしれん。>シナリオのあらゆる分岐点が失敗で彩られていい理由にはならない


 あと『グランドホテル』と『ポセイドン・アドベンチャー』だったら『サマーウォーズ』は後者のタイプだと思うんだけど、だとしたら視点がブレすぎだし犠牲も払ってなくね? と思ったが、ヒロインが主人公ならそれもアリなのか、といずみのくんのコメントを読んで思ったよ。

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細田守が次に作るべき映画とは?

 そろそろ結論に入ります。
 さて、アニメファンという立場で、次に考慮しなくてはいけないことは何か? それは当然、細田守の「次回作」についてです。


 好みも分かれる所でしょうが、細田守には、娯楽性の強い、軽快なエンターテイメントを志向していってほしい、という希望が大きくあります。
 宮崎アニメでいうなら、難解な『もののけ姫』や、不可解な物語であるハウル千尋・ポニョではなく、ラピュタ・魔女宅の方向性ですね。

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 毎年の夏休みに、テレビで必ず放送されるようなポジションを得ていく映画が望ましいと思います。
 その点、『時をかける少女』の方は『耳をすませば』みたいなもので、サマーウォーズの方がよほどテレビ向きなわけです。


 だから細田守には、次もラピュタのような活劇映画を作り、その次もラピュタか魔女宅を作り……、っていう方向に進んでほしい。
 まぁ『紅の豚』くらいならいいんですが、ジブリアニメの『もののけ姫』以降の流れには行ってほしくない。
 そう考えるためには……、

ぼくは細田守を今回、「客観視点で群像劇を描いてこそ発揮される作家性」だとみなしてからこの感想を書いているのですが


……『サマーウォーズ』の特質について先に述べた、このシンプルな理由が要点にもなってきます。
 例えば、Twitterでしていた会話から。

izumino 時かけは、真琴一人の主人公視点の演出になってるおかげで、いろんなことが酷いことになっている映画、で、サマーウォーズはそういう失敗が無いから気持ちよく見れるよね。という感想を更新する予定です。
izumino @stein_ 細田監督はいじめとか描かせるとあんなことになっちゃうし、悪意とかを書かせるとダメな人なんじゃないかなーと思ったり
izumino こう、(自己中心的だろうと)内部でちゃんと充足して大団円になるような話の方が、たぶん向いている。オススメとしては、夏の夜の夢のアニメ化とか、どうかな!
miyamo_7 @izumino 細田監督が次に何を作るか(時代が・客が何を作らせるか)は本気で心配されるべきですね。いずみのさんの感想楽しみにしてます
miyamo_7 群像劇ドタバタラブコメの極地だな>夏の夜の夢


 また、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』と比較しての話で、ヱヴァ破が「次回作まで消費しきれない」「消費されにくい構造の映画」だとすると、逆にサマーウォーズは「ひと夏で消費できる映画」なのかもしれない、という意見もありました。

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真希波・マリ・みやもトリアス
@miyamo_7
 ヱヴァは続き物の途中だし次まで年単位の開きがあるので、早々消費され尽くさないようにコントロール効かせてるのが大きな違いですね。(2009-09-08 05:55:36) link


 そんな「消費のされにくさ」とは逆の要求で作られるもの――、まさにTUBEの歌や盆踊りのように、夏のエンターテイメント(=風物詩)として供給される「軽快な夏映画」を定期的に作り出すことが、今は求められるのではないか。
 それが映画界的にも、アニメファン的にも、きっと望ましい方向であって。細田守監督らスタッフにとっても、ですね。

*1:これは「114分の映画で群像劇を描く」という尺の問題もあるだろうし、だからここで「映画監督としての作家性」と断りを入れているのもそのため

*2:ひとつ補足しておくと、侘助にかぎってのみ「回想シーン」があり、彼の内面のドラマだけは観客の「のぞき見」の犠牲になっている。作中で悲劇エンドを体験しているのも侘助のみで、彼だけが近代的な自我の描かれ方をしていたとも言える。つまり、侘助時かけの真琴ポジションのキャラだということだが(愛する者とのすれ違いを含む離別、未来への投資を担う所など)、しかし彼は「群像劇の一員」にすぎず、その心理ドラマが「作品の主題ではない」ということ自体が、彼の悲劇の「救い」になっているとも言えよう

*3:と、いう代案は、あのアイテムの効果をどう設定するかで演出の方針も分かれてくる。本当に「レア」なことにしか価値のない雰囲気アイテムなのか、それとも運upアイテムなのか……

*4:余談だが、「脚本協力に冲方丁でも連れてくれば良かったのに」という意見もちらほら