『セカイ系とは何か』小メモ
目の前に置いてあったので(某氏の忘れ物)、前島賢『セカイ系とは何か』を読んでいる。以下、著者へのメッセージも兼ねて覚え書き。
from いずみの
旧エヴァには、シンジが主婦の会話(CVが林原めぐみと宮村優子)を立ち聞きするシーンがあったりと、第3新東京市の生活をリアルに感じさせようという意図は充分にあったから、「ほとんどわからなかった(描かれなかった)」と締めくくるのは誤解を残すように思える。
むしろ「社会を描いていたのに、そこに立脚しなくなっていった」のが旧エヴァである、と考えられるのでは。
そして「新劇場版は社会を感じさせる」というが、実際のところ新劇場版も、二作目・ヱヴァ破のラストではやはり「街の生活を描いていたのに、そこは棚置きして主人公はヒロインを抱きしめ、世界が破滅しそうになる」というセカイ系を踏襲する展開になっていて、社会との距離という意味では、旧作との描写上・展開上の違いはまだない。
新劇場版が「社会を描いているように感じさせる」というのは描写レベルの問題というより「続編(結末)への期待感」に属する問題である。逆にいえば、こうした期待感は「旧エヴァ」の描写レベルでもちゃんと生じていた――が、その期待に沿わない展開へと進んだ――ということだ。
TV版の第拾壱話「静止した闇の中で」は、新劇場版よりももっと具体的に「エヴァを運用するNERV内部の人々」を活写していたことも記憶されてしかるべきで、その第拾壱話のエピソードは新劇場版ではカットされている、という逆説も成り立つだろう。
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その上で、セカイ系をなぞったように映る新劇場版の展開は「一周回っている」とか「突き抜けている」などと称されうる類で、シンジはちゃんとヒーローしているし、世界の破滅も第三者の意志で制止される。
だから続編への期待が「これはセカイ系に留まらないものになるだろう、旧作よりも社会(第三者)に立脚した話になるだろう」というスタンスになることは自然な道理であり、正しい。
前島賢『セカイ系とは何か』
p238
しかし、現在起こっているのは、(中略)物語からコミュニケーションへ、というもっと直接的な変化ではないか、と著者は感じている。
(中略)『ラグナロクオンライン』、『ファイナルファンタジーXI』などのオンライン・ゲームの流行も、ゼロ年代における重要なトピックである。これらを題材にとった川原礫のライトノベル『アクセル・ワールド』、『ソードアート・オンライン』は近年まれに見る大ヒットとなっており、需要層の大きさを明らかにした形だ。
さて、オンライン・ゲームは、ネットを通じた人との交流を楽しむゲームと言える。高性能なチャットツールと評されることもあるくらいだ。
from いずみの
この後、オンラインゲームから『東方Project』の話題に移って、「東方自体は基本的にシューティングゲーム」→「でも東方の二次創作には物語の徴候がある(かもしれない)」という論点の提供に進むのだけど……、だとしたら「オンラインゲームはコミュニケーションゲーム」→「オンラインゲームに取材した川原礫の小説も売れた」と締めくくるのではなく、「オンラインゲームに物語を与えて、川原礫の小説は売れた」と評価するといいのではないだろうか。
川原礫の小説を「コミュニケーション消費が増加傾向にあること」の補強に挙げるだけでは少々礼に欠くような気もする。
川原作品は、「コミュニケーションゲームとしてのオンラインゲームの魅力」を小説で再現したという類のものではないし、「大きな需要層を持つオンラインゲームの流行」に支えられて大ヒットしたと言い切れるものでもない、というのはその読書感想を探して読んでいればある程度わかってくることだと思う。
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余談
ところで先日、TwitterのTLに『セカイ系とは何か』の議論が流れていたのでぼくも参考作品を挙げるなどの対話に参加していたのだけど、とりあえず『セカイ系とは何か』の論旨を踏まえるかぎり、QOHを持ち出すのは「補足」にはなっても「批判的な指摘」にはならないことでしたね。