映画監督・庵野秀明の、天才的な情報コントロールセンスについて
ヱヴァ破について考えている中、↓こういう言葉を読んで思いついたことを、書き留めてみます。
春録
映画にとって大切なことは「テーマ」じゃない。僕は何度も言った。「文にできる伝えたいことがあればそれを書けばいい。語りたいストーリィがあるのなら小説を書けばいい。映画を撮るのなら、映画にしかできないことをやるべきなんだ」。
上記のような「映画観」は、しごくまっとうで健全な映画観でしょう。映像作家にとって「常識(コモンセンス)」と言ってもいい考え方だ、と思います。
ただ、こういうありがたい言葉も、「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」「薬も過ぎれば毒となる」――「分別過ぐれば愚に返る」と言うべきか、ナイーブにこのことばかり考えていたら、本質から逸脱してしまいそうな心配もあります。
つまり、「映画の本質はテーマじゃない」という思想が、いつの間にか「映画でテーマをやってはならない」「良い映画にはテーマなんて存在しない」といった暴論にすり替わるときもある気がします。
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『Cut』の鶴巻監督インタビューにおける「庵野さんの驚異的な所は、編集や映像のテクニックにある」「“純文学的な”作家性からは離れようとしているのかもしれない」という言質を逆手に取って、「庵野はヱヴァ破で物語性を放棄しているのだ」という風に読みとる行為なども、そんな「分別過ぐれば愚に返る」延長にある結論かもしれません。
春録
是非問いたい。貴方は「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」を「この映画のテーマはなんだろう」なんて考えながら見ていただろうか。見終わった後に「テーマが…」なんて言葉が出てきただろうか。そりゃあ評論を書くために考えたかもしれない。でも貴方は板野サーカスのような連続攻撃の前に言葉を失い立ち尽くしたと僕は思うのだ。
やはりぼくはモノカキなので、まさしく「この映画のテーマはなんだろう」なんて考えながら見ていたクチでした、と正直に述べておきましょう。
そして一度目の観賞時は、ほとんど「言葉を失い立ち尽くした」状態に近かったことも告白します。
しかし世の中には、「語るべき言葉を持った人間」というのがちゃんといるもので、一度目からダイレクトに「重大なテーマ性」を感じとり、ぼくに向かって熱く語ってくれた友人もいたのです。
その友人と二回目の観賞をした後、別の友達も引き込んでテーマ語りを膨らませ、その意味の大きさに興奮しました。
おかげでぼくは、ヱヴァ破という映画を「圧倒的な映像」と「高いテーマ性」の両面で体験できるという、幸福な時間を過ごすことができました。
さて、多くの声を聞くかぎり、一回目の観賞で「立ち尽くした」あるいは「わけがわからなかった(けど凄かった)」という人はやはり多いようです。
しかしそこをもって、「映像だけが素晴らしい映画なのだ」という結論を導かせるのは、あまりにもあんまりな早計になると思われます。
庵野秀明の性格
ここで私達は、庵野監督の作家性(アニメ監督としての性格)を思い出すべきであって、元々彼は「勝手に深読みするオタク」を真剣に嫌っていた人です。
彼の性格から普通に考えてみれば、オタクや批評家の語りというのは「興味がない」……もっと言えば「黙らせたい」ものだったはずです。
「本来はくだらないことなんだっていうことをわかって深読みするならいいけど、意味の無いことまで真剣に深読みする連中はバカだ」という「エヴァ論者批判」も堂々としていて、このスタンスそのものは今もあまり変わってないんじゃないかと思います。
と同時に、ガイナックスはずっとド真面目に「テーマ」を描いてきた集団でもあって、だからこそ「余計なことはなるべく語ってほしくない」(=的外れなことが語られるくらいならただ楽しんでほしい)という願望が出てくるのも、自然なことでしょう。
現にその願いは叶っているのか、新劇場版をめぐるネット上の議論はどこか「折り目正しい律儀さ」が感じられて、謎解きや元ネタ探しはもちろん盛んなのでしょうが、それに夢中になるほどの没入はみんなしていないような気がします。
かつてのような「この謎を解けばエヴァがわかる!」といった重度の思い込みは、確実に減っていると言って良さそうです。これは「みんな醒めてる」とも言えるし、ある意味で「ファンが育っている」とも呼べる状態でしょうね。
そこで庵野秀明は、何をしたのか?
本来ある「語るべき作品の価値」まで失わせているはずもなく……、ただ卓抜した映像力と情報コントロールセンス*1によって、語り手たちを「沈黙させている」あるいは「迷わせている」ようにぼくには見えます。
中途半端な読みでは、「なんかわけがわからなかったが……凄かった!」などと言って黙るしかないか、判断を迷うような情報で「出来て」いるのが、新劇場版です。
私達観客が「語るべき語り」に辿りつけた時にだけ、ヱヴァ破について語りだせるように作られているのが、新劇場版……、と思ってもいいでしょう。*2
逆にくだらない語りは、くだらないと了承した上でワイワイ語る。そんな雰囲気も作られているように感じます。
プロパガンダ作家としての庵野秀明
さて、実はここからが本エントリの本題です。
もうひとつ、庵野秀明の言動で思い出されるものがあって、――90年代当時は「自分は太宰治になれる」とか「自分は教祖になれる」とか大言壮語が多かったのですが、その一種として――「自分はプロパガンダ映画が撮れる」という発言があったと記憶しています。
この「プロパガンダ」というのは、ナチス宣伝省のゲッベルス、リーフェンシュタール監督の映画、『愛と幻想のファシズム』のゼロ*3などのイメージが念頭にあったんだと思いますが、今回の「破」を観てからだと、ああ、あの時の自己評価はあながち間違ってなかったのかも、と感心するようになりました。
新劇場版のプロモーションを見ていると、「情報」に対して鋭敏な意識を働かせていることが良くわかります。
まずスタジオカラーが、マスコミに対する管理・検閲を、スティーブ・ジョブズ並の厳しさで徹底させていること。竹熊健太郎さんいわく、「厳しすぎるほどの検閲」をかけているそう。
世間に流れるヱヴァの情報を掌握し、管理下に置いておきたいということは、それこそアップル社的なプロモーション効果を発揮できるように意識してるんでしょう。
何より、「総監督本人がマスコミに露出しない」ということもイメージ操作として巧く利用しているフシがあります。
そして、ぼくが一番「情報コントロールのセンス」を感じたのは、「破の全編」および「Qの予告編」における情報の出し方です。
おそらく、計算ではなくほとんどカンでやっているのではないかと思うのですが、これってつまり「二年半ぶんのヒキ」なんですよね。
観客は二年半、手持ちの燃料だけで続編を待たなければならないわけです。
その二年半、という時間の長さを考えてみると、ヱヴァ破における情報の出し方は「絶妙」の一言に尽きるような気がします。
つまり、「あっ」という間に考察が済んでしまったり、予想が出揃ったりするような状況を避けなければならないのだと。続編が、一週間先や数ヶ月先にあるわけじゃないですからね。TVアニメの「ヒキ」とは、求められるものが違いすぎます。*4
かぎりなく「二年くらいかけても全然考えきれないような情報の出し方」をしなければならない。
その上で、「考えきれないこと自体がストレスにならないよう満足させて、何度もリピートしたくなるような映画」にしなければならない。
しかし、それをちゃんと実現させる「情報の出し方」ができてるんです! それって凄いことです。
確かに、出てくる情報はどれも断片的すぎて、本当に「Qが出るまでに考えられることがほとんど無い」映画になっている。
なおかつ。「予想したい」「謎を確かめたい」といった欲求(フラストレーション)も特に感じなくていいようにも描かれていて、「破」だけを何度も楽しめるようなフィルムになっている。
通常の「ヒキ」は、「続編への期待感」とともに「予想したのに予想の確認をさせてもらえないストレス」を観客に強いるものですが、ヱヴァ破の場合は「Qへの期待感」はあっても、「予想を確かめられないストレス」はあまり無いはずです。そもそも「予想しなくても良い」ようにコントロールされた情報しか出ていないのですから。*5
そんな「二年半先」を見据えた情報コントロールを、「単品でも充分満足できる作品」の中でやっているわけです。序破急という、連作映画のブリッジにあたるフィルムの作り方としては、ほぼベストでしょう。
でもこの離れ業が為せるのは、「二年半用のヒキ」というものを、どれだけ狙って作り出せるかという、情報コントロールのセンスひとつにかかっているんですね。
これだけをもってしても、天才的なセンスだ、と評価できるでしょう。「お見事」と言っていい。
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*1:「全体の構造やテーマ」などは情報として与えないように上手くコントロールしつつ、必要な物語やテーマ性の断片を積みかさねていくセンス
*2:ちょっと初歩的な前置きをしておくと、このレベルでいう「語るべきこと」は作り手側の意図を越えたものであってかまわない、という点にf注意
*3:主人公・鈴原冬二に「お前はゲッベルスになれ」と言われるキャラ
*4:続編までのリリース期間が短ければ、観客のフラストレーションを一気に高め、「すぐにでも続きが見たい」という心境にさせることが肝要になるが、リリース期間が長く「すぐに見たいのに見れない」状態が継続するようだと、観客は期待だけで燃えつきたり、やり尽くした予想に飽きたりしてしまう
*5:情報の出し方としては、例えば「ネブカドネザル」というキーワードを検索してみても、全くエヴァと関連付けられなくて即座に予想が頓挫するとか、最大の関心事であろう「アスカの安否」については、予告編ではちゃんと登場しているのでハラハラしないで済む(しかしどう再登場するのかは全く予想がつかない)ようになっているとか