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釣りエントリタイトル案「作画の善し悪しでしか作品を語れないアニオタはシャバい」

 すでに話題になっているエントリですが。

鉄腕バーディー DECODE:02 第7話の作画について知っておくべきこと - WebLab.ota


もちろん,名前の知られたアニメーターが作ってるから,すなわち素晴らしい作画である…とはなりませんが,「作画崩壊!」と言いたいなら,とりあえず,彼らの名前が解って,どれくらいのレベルのアニメーターなのかが大体解ってる状態であるほうがいいでしょう.


こういうことを言うと,「そんなこと知らなくたって,だめなものは駄目だし,作画崩壊作画崩壊だろう(「俺が作画崩壊だと思ったんだから作画崩壊なんだ」というロジック)」なんて言う人が沸きますが,そーゆーこと言う人はときどき凄いバカなことを言います.

今回のバーディーの作画が,失敗か成功か?ってのは議論しなければならないところですから,おいて置きますが,ときどき本当に凄い仕事を「作画崩壊だ!」と言っていることがあるからです.

 ↑の記事に対して、バーディを観てもいなかった当時のぼくは、↓のようにはてブでコメントしていました。

こういう騒ぎを呼ぶこと自体は演出家の力不足だと考えた方がいいと思います。作画マンは自分の仕事をしただけなわけで。


 しかしそれに続くid:n_euler666さんのエントリは、「作画がいいんだから許されるし、作画を楽しめないアニオタが悪い」とでも意訳できるような主張にとどまっていた、と言えるでしょう。


 「個人的見解を多く含む」と文頭で断ってはいますが、ではその「個人的な思い込み」に意見することにしましょう。


 演出への影響を度外視して、作画だけで作品のデキを語るようなアニメオタクはシャバい、シャバすぎる。
 それも「アニオタなら,声優のことも監督や金の流れや,音楽・作画なんかについて,表層のレベルで知っておくべきだし,学ぶ意志を持つべきだろう」とか主張しているオタクの書くエントリがこれか、というお話です。
 「今回のバーディーの作画が,失敗か成功か?ってのは議論しなければならないところ」とは書いていたはずなのに!

欲しいのは、「それは全て演出家のやったこと」という評価の仕方

(TVアニメでいう「演出」のクレジットは、だいたい「各話監督」の意味で解釈すれば良いもので、それを監修する役割が「監督」です。)


 まず演出家が「その作画を通した」なら、あとは全て演出家と監督の責任問題になるはずで、その「通した」際の演出が「作品的に活きるものだったか」という是非がまず問われるべきでしょう。
 進行や予算の都合があったとしても、マズいなりに良く見えるような工夫をするとか、最終的に「血反吐を吐かせてでもリテイクさせる」「ポケットマネーで作る」「不可能を可能にする」などの奥の手を打つほどのことでもないこととして「通した」、という判断も含めて演出家の仕事なのですから、結局は全部、「演出と監督のやるべきだった(責任のかかった)仕事」として評価しておけばいいんです。
 現場の実情は別の話で、「とりあえずシロウトはその程度に認識していればいい」というコンセンサスを作るためにも、クレジットに名前を出しているようなものなんですから。


 なのにネット上での議論の中心は、作画が良かったとか上手かったとか? まぁ「演出的にはダメだったけど作画は良かった」とか、「作品的にどうなのかはわからないけど作画は良かった」とか語るのなら構わないでしょう。


 というかぼくの思想としては、作画崩壊なんかよりも演出崩壊の方がよっぽどマイナス評価の対象になるんですが。それは「アニメってのはアニメーション(Animation)、動くものなんだぜ、動画なんだから動いてナンボだぜ」と思っているような人達とは違って、「アニメってのは映像(Movie)の一ジャンルでしかなくて、つまり時間の彫刻であり、アニメ番組なら25分の時間の流れを切り出すリズムがアニメの命で、そのリズムをアニメ的にするのがアニメ作画である」というくらいに考えている「映像好き」だから。


 極端に言えば、「一枚絵を20秒間止める」のも「時間の彫刻」としては「流れるリズムの演出」になる……、逆に言えば、動かすべきでないタイミングでものを動かすのは愚の骨頂である、という見方が大事になってくるものです。

  • 「時間の彫刻」でちょっと検索してみたら、ここの説明がわかりやすい方かも


 そこで「時間の彫刻としての良さ」を度外視して、「作画が統一されてないとヤ、完成画じゃないとヤ」っていう人と、「作画マンの個性が出てると神、良く動くと神」っていう人は、完全に同類・同レベルの「作画オタク」として断じちゃっていい、とぼくは思っています。
 作画統一は作監が頑張った結果の評価で、良く動くのは各作画マンが頑張った結果の評価という違いがあるだけで、アニメーターまかせにして安定した顔アップばかりの「作画アニメ」はクソつまらなくなる道理ですし、動かなくていいシーンで意味も無く動く「作画アニメ」もクソつまらなくなるのは同じです。
 どっちも演出家が頑張ってコントロールした結果として、全編・全話で一貫したリズムを作りあげた時点で、アニメとしての評価の基準が生まれます。
 そう、逆に言えば、「時間の彫刻」である演出が崩壊していなければ、他の部分がどう崩れていようがアニメは成立するし、叩かれることも最小限になるはずなんです。


 ちなみに、「うる星」や「銀魂」とかなら、アニメーターが暴走していても面白いアニメになるじゃないか……という意見もあるでしょうが、それはそれらがコメディ(ギャグ)アニメだから。「コメディの範囲で暴走させる」という意味でのコントロールが効くジャンルと、そうでないジャンルがあるということです。


 ネット上の議論としても、作画を擁護したい側が、素直に「演出が間違い! だから作画も作画マンも悪くない!」と鋭く主張していれば、それで荒れずに済む問題だったでしょう。
 しかしまぁ、「演出は残念だったけど作画は綺麗だったね(良く動いてたね)」というのは作画マンに対するホメ言葉としては機能しても、アニメそのものに対しては「最悪の評価」に近いと言ってもいいと思いますが……。


 と、まぁここまで過激に言ってしまえば「バーディの演出はそんなに悪くなかったよ!」っていう演出論にテーマをシフトさせる人達(別に作画オタじゃない人も含めて)が出てきてくれるかもしれません。
 ぼくはここで「演出がマズかったということにしようよ」と主張してはいますが、もちろんそれが結論になると思っているのではないです。
 そこから演出論を絡めて、「そこまで言わなくてもいいと思うよ」といった議論に移ることを期待しているんですね。


 そっちの方が、アニメ語りとしてはいいものだと思うのですが、まぁ「作画語り」の方がカンタンでやりやすいってのは確かにそうなのでしょう。
 でも、どうせアニオタとして勉強したいという意志を持つなら、ムダに作画オタを目指すよりも演出語りに参加できるようにしておいた方が健全ですよ、というのも間違ってないでしょうね。

「部分を誉めるオタク」に必要な矜持

 ところで、作画オタクにかぎらず、あるジャンルの一要素が大好きで、それ目当てに購入してます、という人にとって必要な矜持がひとつあります。
 自分の好きなモノが、そのジャンル内の作品を構成する一要素でしかないという自覚は言うまでもありませんが……、何よりも、「もし自分の好きなものが作品の全てを支配したらその作品の命は絶たれる」という認識です。


 だからこの矜持を持つオタクほど、「自分とは違う好みを持ったファン」に対して寛容であり、「好きな要素が暴走すること」を恥じる傾向があるはずです。
 パソコンのハードマニアは「ハードのスペックが上がること」に興奮し、ハード業界のレベルが進化することにロマンも感じているでしょうが、「ハード至上主義」と化した業界が、(自分の理想通りの業界でもなんでもなくて)その命運を絶って自滅するであろうこともちゃんと知っているはずです。


 だから本当の「○○オタク」の場合、「作品を害さない範囲で」自分の好きな○○が魅力を発揮している瞬間を、何よりも愛し、控えめに喜びの主張もする。
 そして、もし自分の好きな要素が、「作品全体を活かす働き」をしてくれたなら、その時こそ手放しで絶賛する……。


 それが、自分の趣味や好みにプライドと矜持を持ったオタクというものでしょう。
 今の作画オタクの人達は、それができていると胸を張って言えますか?