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今のスクランの沢近編に追記

 なんでタイトルが「追記」かというと、手元のメモで最近のスクランについて書いてる文章の追記部分からの転載だったりするからです。

(今のスクランは「シリアスに寄りすぎていたバランスを一般ウケしやすいギャグラブコメに揺り返させたのが偉い」のであって、別に「持ち直した」わけではない、という話からの続きで)


 あれが面白くて、沢近もいつにまして可愛いってのは、「勘違い主人公」として耐用年数を超えてすり切れてきてしまった播磨に代わって、「沢近が播磨の立ち位置に入った」からこそ生まれるという、構造的なものですね。


 「(烏丸)←天満←播磨←沢近」という片想いの連鎖があって、それが順繰りに上昇(役割交代)していけば、こういう形での完成を見る、と。

 このエピソードではずっと沢近の視点で話が進みますが、その沢近が「播磨と同じこと(=過剰なボケと一人相撲の恋愛)」をやると、(沢近は播磨と違って女の子だから)ああいうドキドキ恋愛ものになるってことですね。播磨の場合は、熱血恋愛ものになってたのに対して。


 播磨から八雲、八雲から花井へと流れるルートをメインラインにしていたスクランにおいて、「後の続かない」沢近への流れを動かすっていうのは、満を持してという感じになります。
 この形は構造的に当初から予期されていたことで、ただし賞味期限をそれほど延ばせないネタでもあるから、連載ペースが牛歩戦術を取っていた時期(つまりアニメやってた頃)は使えない技でもあったと。


 ただ、この状態だけを見て「面白くなった」って言ってる人って、じゃあこの話が終わったら「つまんなくなった」って言うんだ、みたいな。

 やらなきゃいけないエピソードの残り具合からすれば、このまま沢近の話に決着がつくわけでもなし、このエピソードって、どうせすぐ一区切りついて別の話に移りますよ、話的にはっていう。


 だから週刊連載なのにショート漫画で大きなストーリーを動かすのって、凄く「軽く読む読者」に対して不利な形式なんだということなんですが、それを差し引きながら流れや勢いを見据えて読もうとする読者と、そこまでしない読者に完全に二分されてしまうのが、「立ち読みで読めてしまう週刊誌」のジレンマですね。

追記

の記述より。

連載マンガは、それ単独で作られる「映画」や「小説」とは違い、変容する生き物なのです。だから連載された作品の一面をとらえて「これは○○についてのマンガだ」「このマンガは○○が描けていない」と批判するのは、的外れなのです。

 そういう近視眼的な読み方を、個人的には「現国教師の授業」と呼んでたりします。
 長編小説の一節を抜粋して「この文章で作者が伝えたいことを答えなさい」と問うような。