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(ネタバレ少なめ)『School Rumble』最終回について

 データベースの更新が3話分も追いついていませんが、先週のマガジンで最終回を迎えたスクランについての所見を書きとどめておきたいと思います。


 描き残された部分が大きすぎるという致命的な欠点を除けば、あの流れの展開へと進んだこと自体はアリでしょう。「天満と播磨」「ひとつのクラス」を描いた物語の最終回としては、こういう形になるのでしょう(最終話のサブタイトルも「CLASS」)。

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 特に播磨の性格の描かれ方についてですが、作中で烏丸が「月の満ち欠け」を喩えに出していたように、元通りに繰り返されるもの/変わったように思わせて変わったりはしないもの/ぐるぐる回るもの、というのはスクランの世界観……というか強力なルールのひとつなので、テーマ的に予想しやすいことでもありました。

(花井の描かれ方が「かっこいいモテる花井」へと何度変化しても「暑苦しいストーカーの花井」の側面も同時に保ちつづけることが象徴的で、播磨の描かれ方も花井の姿を模している。)


 ただ、いわゆるサザエさん空間ではなく、「時間の流れ」のある作品ですから、「元通りに戻りつづけること」と「変わらないこと」はイコールにはならないような世界にもなっています。『方丈記』にいう「ゆく川の流れは絶えずして、しかもその水はもとの水にあらず」や、劉廷芝「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず」のように、本人の性格なんかは置き去りにして、それよりも取り囲む状況や人間関係の方が、どうしようもなく変化していってしまう。事実、もう天満との関係は二度と元に「戻らない」。
 未来のキャラクターたちに高校の制服をわざわざ着せている(キャラクターの加齢の描き分けも全くしていない)のも、漫画の見かけ的には「学生時代から何も変わっていない」というイメージの空間を描いているようで、読者にはかえってその「変わらなさ」が不自然に思えてしまうのが当たり前であって、「本当ならそんな格好をしているはずがない」という「見えない変化」の方が気になってしまい、むしろ変化の本質が強調される結果が生まれます。


 ところで、これからの播磨の恋愛、というものに目を移してみると、要するに播磨っていうのは(いくら格好良くても)「こういう男」なんですよね。
 結局、播磨を好きになる女の子は「こういう播磨」を好きでいられるかどうか? というハードルがあるわけで。
 歩行祭で美琴が「あんなんでいーのかな」と八雲に同情していた播磨が再現されているということですが、その美琴に「あんなんでいーの?」と沢近がツッコんでいた花井ともオーバーラップしてくる部分です。


 なので播磨の描かれ方については、GiGiさんの播磨観(「播磨はそうゆう奴ですね」)がそのまんま当てはまったような感じだと思いました。

水曜朝のスクランチャットログ - ピアノ・ファイア

GiGi >> しかしまあ、沢近さんにしても、いざ本当に播磨と付き合う事になったら「こいつダメだ…はやくなんとかしないと…」という気分なんじゃなかろうか(笑)



GiGi >> あわよくば、と思ってみたものの、間近でみたら100年の恋も冷めるというか(笑)

 実際、最終回を読みながら、↑このまんまの気分をリアルに味わった読者は多いんじゃないか。

(中略)


みりん >> 播磨って沢近さんが自分の事好きって知ってるんでしたっけ?



いずみの >> まぁだいたい勘付いてるけど「そんなに重大にホレこまれてるわけでもない」ってノンキに構えてそう(天然で酷い)>播磨

GiGi >> 播磨はそうゆう奴ですね>「重大でもないだろ」

いずみの >> 沢近が成長しない女だとしたら播磨も成長しない男ですからね<そういう奴

 でも歳はとっていくし、生活や関係は変化していく。つまり構造としては、これから「今までのスクランのストーリー(=2−Cの一年)」の繰り返しが予告されているのと同時に、「何もかもが学生時代とは変化しているので必ずズレが発生する(=2−Cはもう無い)」ことも約束されているということです。


 一方、最も「変化」したキャラクターが烏丸であるというのも意味深なんですが、この状態の烏丸って、良く考えてみれば「最初に描かれていた(読者や天満に見せていた)烏丸のイメージ」と同じなんですよね。
 今も脳の病気ということで、「精神が壊れた」人になっている烏丸ですが、(言い方は悪いけども)元々烏丸は「壊れたキャラ」として読者からは認知されていたわけで、これも特定の面から見れば「元通り」になっていると言えます。
 天満にしても「壊れているようにしか見えなかった頃の烏丸でも好きだった」過去がちゃんとあるわけで、「こういう烏丸」を好きになれるかどうか? というと、今の烏丸(=見かけだけではなく本当に壊れた後の烏丸)だって愛せるわけでしょう。
 天満が「あんなんでいーの?」と問われるなら*1「いい」んですよね。仮にこのまま病気が改善しないとしても、元々「こういう烏丸」と一緒にいようと努力していたわけですから。*2


 個人的に、天満と烏丸のカップリングは『プラネット・ラダー』における「かぐやとセーウ」の関係に似ていると前から思っていて、歩行祭で烏丸の内面が描かれた頃は「セーウと烏丸はちょっと違うキャラだな」と思い始めていたんですが、最終章の「壊れてしまった後の烏丸」はやっぱり「セーウのキャラに近い」んですよね。
 人間に触れられると「思考停止」するあたりはセーウまんまで、そんなセーウでも愛することのできるかぐやの姿は、やはり天満とかぶって見えます。

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漫研チャットログ(2008-06-18)

いずみの >> あぁ、ぼくは『プラネットラダー』のかぐやとセーウだと思ってたんですよ。そしたら違った。

いずみの >> 感情が全くない男と一緒に暮らす話なんですが、烏丸は感情あるんですよね。もっとセーウみたいに、感情そのものが薄いイメージだったんですけど

いずみの >> 「恋愛感情が薄い男と一緒でもいいんだ」っていう結論になるんだと思ってました。あーでも病気が治らない場合の烏丸ってそれですよね

いずみの >> プラネットラダー前提だと、あの状態の烏丸を愛し続ける天満でも、別にいいかなって思うくらいです。

*1:沢近は天満に対しても「壊れた人が相手でもいいの?」と問いかける役だった

*2:その反面、「月の満ち欠け」に喩えられることで、再び烏丸が「壊れていない烏丸」に戻る暗示も用意されていると言える