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ドラマと「恩義の貸し借り」感覚

 以前から中国学の分野に興味があったので、入門用にと、加藤徹の『貝と羊の中国人』を購入しました。読んでみると大変面白かったので、同じ著者の『漢文の素養』も購入。今読んでいる所です。

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 内容とは直接関係無いのですが、『貝と羊の中国人』の中に「日本人と中国人では恩義の貸し借りに対する感覚が異なる」という記述があって、気を引かれました。
 《スクラン考3》の最後に引用していた、「ありがとう」を言わない国の話と同じように、「環境によって、感謝の言葉の価値は違ってくるのだ」という側面が感じられたからです。

 ここ一連の日記では、誤解やディスコミュニケーションといった視点から《スクラン考3》を掘り下げてきましたが、「誤解」よりもむしろ「恩義の感覚」というキーワードの方が、この問題の本質に近かったんじゃないか? という気もしてきました。
 いずみのが書いた記事そのものの中では、一応、以下のような切り込み方になっています。

スクラン考3:双方向を目指す想い(2/2)

 スクランには、世話焼きや親切な人達が良く登場し、彼らのお節介こそが物語を動かしているとさえ言える。しかし「片想いは、振り向いてもらえない」というラブコメの法則と同じレベルで、彼らの親切心がそのまま相手に届くということも、その感謝を本人に返すということも、殆ど無い。

 つまり親切にした側は、結果的に「見返りの無い善行」をしていることになるし、逆に親切にされた側は、感情的に「借りを返したつもりになれない」まま、いわば「ツケ」だけが内攻して貯まっていく。すると読者にとってどういう「感じ」が喚起されるかというと、親切にした側を見ては「いいことをして満足した気分」や「無償の愛の強さ」を感じ取り、親切にされた側を見ては「何かお返しをしたくなる負い目」と「愛されている気持ち」が強く湧き起こるのだ。

 以上を踏まえた上で、『貝と羊の中国人』と「ありがとう」を言わない国から、参考になりそうな箇所を引用してみます。ちょっと国際文化比較? みたいな感じにもなってしまいますが、ぼくはその方面の専門家ではないので、ただの読み物として読んでみて下さい(引用した記事の内容が正しいのかどうか、ぼくは判断できませんから)。
 単に「人の価値観によって、恩義の感じ方は変わってくるんだ」ということを表現してみたいだけですので。

加藤徹『貝と羊の中国人』

p50-51

 日本人は、恩義の貸借関係に敏感である。語表現でも「してあげる」「してくれる」「していただく」など、「恩義の方向性」を示す言いかたが、発達している。
 恩義の貸借関係に敏感な日本人は、心の負担を軽くするため、ときに変わった言いかたをする。
 「お茶が入りました」という日本語も、そうである。
 論理的に考えれば、お茶がひとりでに入るわけはない。正確には「私は、あなたのために、お茶を入れました」である。しかし日本人の感受性では、そのような言いかたは恩着せがましく、下品である。それゆえ、相手に心理的な負担をかけまいというやさしい思いやりをこめて、あえて「お茶が入りました」と、自動詞的な表現を使う。「お風呂が沸きました」「ご飯ができました」などの日本語も、同様の心理を反映している。
 中国語には、このような発想はない。
「お茶が入りました」にあたる中国語は、「我給[イ尓]倒好茶了」ないし「我替[イ尓]倒好茶了」である。「給」は「あげる」、「替」は「代わりに」の意である。直訳すると「私はあなたのためにお茶を入れてあげました」「私はあなたに代わってお茶を入れました」となる。

同p52-53

 中国人は、「私は、あなたのために……してあげる」「あなたは、わたしのために……してくれる」など、いちいち人間関係の「念押し表現」を好む。それが、中国語では自然なのだ。幼いときからそういう言いかたに慣れてきた彼らは、「してあげる」と言うほうも、言われるほうも、恩着せがましさや屈辱を感じない。

 日本人の挨拶では、数ヶ月ぶりに相手と再会したときも、「この前は、お茶をおごっていただき、ありがとうございました」などと、最後に会ったときの恩義の貸借関係を、おさらいするのが普通である。
 いっぽう中国人は、世話になっても、お礼はその場で一度しか言わない。もし相手から数ヶ月も前のことを感謝されると、「この人はなぜ、そんな昔のことを蒸し返すのか。もう一度、お茶をおごってほしいのか」と勘ぐってしまう。
 中国人も、「大恩」については、これを忘れない。しかし、お茶をおごってもらうとか、おこづかいをもらった、などの「小恩」については、その場で一度「謝謝(シェシェ)」と言って、おしまいである。日本人の目に、中国人が傲慢な人種に見えがちな一因は、ここにもある。

同p53-55

 中国人の「恩義の感覚」を理解するためのキーワードは、「功徳(ゴンダー)」である。

 「功」とは、自分の職業や仕事を通じて、世のために働くこと。
 「徳」とは、見返りがないことを承知のうえで、人を助けること。
 ある人が会社のために三千万円ぶんの貢献をして、自分への報酬は五百万円でよい、とするのは「功」である。また、良い物を安く売る商人は、高く売る商人よりも「功」が大きい。ただし、これらは自らも現世的な見返りをもらっている以上、あくまでも「功」なのだ。
 これに対して、貧しい人のために金銭を寄付するのは「徳」である。人に見えるところで公然と施しをしてもよい。が、もし人知れずに施しをするなら、まことに奥ゆかしく大きな「徳」となる。
 日本人は、今も昔も「功」と「徳」を区別しない。日本社会では、自分の仕事を通じて世のなかに貢献することは、慈善事業と同じくらい賞賛に値する行為である。
 いっぽう、昔の中国人は、社会階層や職種にもよるが、必ずしも自分の仕事に誇りを持てなかった。役人や警官は、阿漕な方法で庶民から金銭を巻きあげた。そんな悪辣な彼らも、「徳」を積めば罪障の一部を償うことができる、と考えられた。

 日本の場合は「お茶が入りましたよ」などと、相手にプレッシャーを与えない言葉を選びながらも、相手がちゃんと立場を察して「ありがとうございます」と言い返せなければ「失礼な人」とみなす――というマナー精神のシビアさもあって、そこは日本っぽい感覚です。


 日本昔話には「鶴の恩返し」がありますが、物語において「恩返し」という要素は、「恋愛」に匹敵する程、典型的なドラマトゥルギーとして働くものだと思います。フィクション中では「命の恩人」や「あいつには借りがある」っていう言葉に特別の重さを込めることが多いですよね。
 やっぱり「恩義」というものには、ただのギブ・アンド・テイク以上の、人の心を動かす何かがあるのかもしれません。

「ありがとう」を言わない国エーヤーワディ

 「ありがとうはもうやめてくれ。」
 ミャンマー第2の都市マンダレーで数日ばかり私のドライバーとして車を動かしてくれていたティントゥン氏にそう言われたとき、実はすぐにその理由がわかった。何故なら以前、同じような経験をしていたからだ。またやってしまった…そう思いながら私は、助手席から一応問い返した。「どうして?」…
「どうしてって何だか気分が良くないんだよ。あんたは『ありがとう』ばかり言いすぎる。そんなこと言ってもらいたくないんだ。」私は、働き盛りの40代の彼にたいした金額も支払ってないのに、彼がガソリン代はもちろん、食費から土産代に至るまで、全部出してくれていることに申し訳なさを感じていた。
 後部座席に座っていた理論派のチョウチョウが、微笑みながら口をはさんだ。「ありがとうと言われると、せっかくした良いことが帳消しになってしまうような気がするんですよ。いいことをするといい気分でしょう。だけど『ありがとう』と言われると、せっかくした『いいこと』を返されてしまうような気がするんです。何かをあげて、『ありがとう』をもらう。これで差し引きゼロになってしまうんですね。…そう言うことだろ?」
 ティントゥンに同意を求める。ダンディ派のティントゥンは、わかったようなわからないような表情で、前を向いたまま黙ってうなづく。私としては、そこまではっきり言い当てられてしまうと、もうぐうの音もでなかった。何かをしてもらったことによって受ける「借り」を、「ありがとう」と返すことで半減させようとする、ある意味で「ずるい」対応を指摘されて、私はすっかり恥ずかしくなってしまった。

 これはミャンマーでの体験談で、以下はスペインでの話。

 今度は私がお返ししなきゃと思い立ち、甘いもの好きな彼女達に、「お菓子を少し多く買っちゃったので」とおすそわけに行ったのである。 ところが彼女達は、うれしそうに受けとりはしたけれど、「ありがとう」という言葉を発しない。そんな彼女達の反応に何だか拍子抜けしてしまってから気がついたのである。「ありがとう」と言われることを期待している自分に…

 再びミャンマーに戻って、そのお国柄の分析。

 人に手を貸すことが日常であり、また貸されることも日常であり、ものがあればお隣りさんにも分けるしその逆もごく当たり前で、他人に何かをしてあげることに「よいしょっ」というエネルギーを必要としない社会には、いくつもの「ありがとう」は必要がないように見えた。ミャンマーも「ありがとう」の非常に少ない国だった。その象徴のようにこの国の僧侶と一般人の関係があった。僧侶は「もの」だけに絞っていえば、いつももらう立場である。経済優先社会で言う「生産」の役割を一切担わない僧侶たちは、食べていく糧を日々、働く一般人たちから提供される。しかし決して礼を言ったり頭を下げたりしない。我々通りすがりの旅人にとっては非常に不思議な光景である。
 日本では波風を立てないために「ありがとう」は大変役に立つ。しかし「ありがとう」と言うとき、そこには相手との間に引っ張った一本の線が確実にある。もっといえば「ありがとう」は、相手のしてくれたことを借りとして、差し引き勘定の中で自分の負担を軽減するための一言であるとも言える。

 ミャンマーの国は、「ありがとう」を必要としない許容力のある国だった。人々は持っている限りのものを人に与えることのできる大きな、こだわりない心を持っていた。それは逆から見ると、いつか自分が無一文になったときにも、世間から完全に見捨てられ、放り出されることはないという、社会の許容力に裏打ちされ育てられた人格なのかもしれない。「ずるがしこく」ならなくても安心して生きられる社会に見えた。

 「ずるがしこくなくても生きられる社会」ゆえに「お礼」を求めない、というミャンマーの国民性は、「ずるがしこくなければ生き延びられない」からこそ「徳のある行為」を重視する中国人の国民性と対照的かもしれません。


 日本では、「お茶が入りました」のような「恩を着せない表現」であっても、それに対して何度にも分けて感謝することが求められる。
 中国では、「お茶を入れてやった」と恩に着せて言われたら、一度の感謝で済む。その反面、大恩はいつまでも忘れない。
 ミャンマーでは、感謝を必要としない。

最後に

 何故ぼくがこういう「恩義」の感覚に興味を持つかというと、自分自身、あまりうまく「ありがとう」を言えないタイプの人間だからかもしれません。だから、一様に不器用なスクランの登場人物達*1にも惹かれます。
 「ありがとうを言わずに、心の中で感謝の気持ちを溜めてから、相手に何かを返す」ような関係の方が自然なんじゃないか、という感覚で育ってきた所があって、それはなんか、口下手な頑固親父みたいな心理状態なのかもしれませんが。「言葉だけで済まてしまう」ことによって、「本当の意味で恩を返す」という責任から逃れようとしているような違和感が残ってしまうんですね。
 どうも日本では「重ね重ね感謝しております」みたいな調子で、感謝の意思表示を続けること自体に意味があるようで、「お礼させて下さい、でないと気が済みません!」「いやいや、もう充分ですから」みたいな社交辞令とでも言いますか、まぁそれも悪いことではないのかな、と思いつつ、自分もなるべくそう振る舞うようにしてるんですけどね。経験則として、そうした方がお互いの精神衛生上いいことも分かってますし。


 でもやっぱりこう、人知れず人に親切にされて、人知れず恩を返すみたいな、ドラマティックな「恩返し」は、それこそドラマの中でしかありえないのかな、って良く思うんですね。だからそういう漫画とかを眺めると、憧れるし、凄く癒されるっていうのはあります。

*1:この場合は原作版のスクランのことで、結局アニメ版はそういう関係性の深い所まで掬いきれていないのですが。特に深いエピソードは本誌連載だけでは補完できない(単行本に同時収録されているマガスペ掲載分を読む必要がある)ことが多いので、アニメ派か、雑誌派の人は、ここで述べられているような内容を確認したい場合、単行本の方を参照してみて下さい