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『列子』の日本語訳(私家版)

 唐突ですが、中国古典にして道家の書物である『列子』の一編を現代語訳する作業をしていました(ネットで日本語に訳しているページが見当たらなかったので)。
 『列子』の中でも、特に好きな説話の一つです。ちょっと紹介しましょう。

列子』天瑞篇 第十六章「天地之徳」

 斉の国氏は大いに富み、宗の向氏は大いに貧しい。向氏は宗から斉へ足を運んで、国氏にその方法論を請うた。


国氏「私は上手く“盗”を行う。私が“盗”を行ってから一年で自給し、二年で自足し、三年で豊かになった。それ以来、近隣に施しを分け与えるようにもなった」


 向氏は大いに喜んだが、その“盗”の言葉を教わっただけで、“盗”の道を悟っていなかった。ついに人の土地の垣を越え、家屋に侵入し、目につくもの手につくもの探らぬものは無かった。
 やがて罪に問われ、元々持っていた財産までを没せられる。国氏が自分を誤らせたのだと思い、恨み言をぶつけに行った。


国氏「お前は何を盗もうとしたのだ」 向氏は事情を説明した。
国氏「ああ、お前は“盗”の道からそこまで外れていたのか。今詳しく教えてやろう。私は天に時、地に利があることを知っている。私は天地の時利、気候の潤い、山沢の育みを盗んで田畑を為し、垣を築き、我が家を建てた。陸から禽獣を盗み、水から魚介を盗んだ。これを“盗”と言わずしてなんと言う。穀物、土木、禽獣、魚介、みな天から生じたものであり、私の所有する所ではない。しかし私は天から盗んだにも関わらず、罰せられることは無い。しかし金銀、宝石、食禄、財貨は人が集めたものであって、何も天が与えたものではない。お前がそれを盗んで罪に問われたとして、誰を恨む筋合いがあろう」


 向氏は大いに困惑し、また国氏にくらまされたのかと思い、東郭に寄ってそこの先生に相談した。


東郭先生「お前の全身こそ、盗んだものに違いないではないか。陰陽和合の力を盗んでお前の命が生まれ、肉体が形作られたのだ。ましてその他の物で、盗んでいないものがあると言うのか。天地万物は全て一つのもので、一切の区別は無い。それを所有した気になるのは全てまやかしだ。国氏の“盗”は公道を往くものであるが故に、罰せられることはない。お前の“盗”は私物を冒すものであるが故に、罪に問われた。仮に公私の別があったとしても“盗”であるし、公私の別が無かったとしても“盗”は“盗”だ。公を公とし、私を私とするのも天地の徳である。天地の徳を知る者は、誰が盗んだだの、盗まなかっただのを問題としない」 *1

おまけの解説

 これは個性とか、オリジナリティとかに拘って生きる人に対する注意にもなります。
 その個性というのは、天地万物、つまり先天的な世界から自分が盗んだものであって、その所有権を自分が持っているわけではないのです(と、いうことにしておけ、という教訓です)。
 自然に対する盗作、要はパクリですね。だから人にパクられても文句を言えるものではないし、パクリ元が共通しているからこそ「似たもの同士」と出会える可能性もあり、互いに感動することもできる。
 個性やオリジナリティは、他人と競争して生き抜く為にはパクられないよう所有権を守り通す必要(あと芸術家を飢え死にさせないよう周囲が守ってあげる必要も)がありますが、元々は自然に存在しているものを借用してるだけなんですから、それは利権のしがらみに囚われた人間のワガママと言うべきなんでしょう。本当に徳のある人程「誰が盗んだだの、盗まなかっただのを問題にしない」わけですね。


 もう少し細かい話をするなら、ユングアーキタイプ論を知っている人だと感覚的に理解しやすいと思います。ちょっとニューエイジな喩え方をすると、先天の世界にはアカシック・レコードのようなものが存在していて、我々はそれにアクセスすることで「個性」とやらを取り出しているだけなんだ、という図式ですね。
 そのアクセスの深度が深い人、感覚が非常に優れた人こそ、才能がある、と呼ばれるのでしょう。運良くレアカードを引き当てたり、望み通りのカードを引くコツを心得てるようなもんですね。
 自分と似ている人、というのは、偶然同じカードを引いた者同士なんでしょう。その上で、完全に同じカードを揃えた人はこの世に二人と居ない、というのが人間の面白い所ですね。
 また、天から授かった自然のものではなく、人が集めたものを盗む──「他人の個性を盗む」という行為は、つまり盗作の盗作になるわけですが、他人が持ってるカードを色々組み合わせてみて、その間で起こる化学反応を入口にして先天の世界にアクセスすることができれば(そしてどんなカードでもいいから、何かを引き当てることさえできれば)結果オーライだと思います。──というか、天才でもない凡人にはその道こそが正道でしょう。
 問題となるのは、アクセスのレベルがあまりにも浅くて、肝心のカードを何も引けなかった場合です。そういうものこそが、ただの猿真似と呼ばれるべきですね。
 充分に深いアクセスを経験した人に会ったり、その人の作った作品に触れると、触れた側も深い世界にアクセスすることができます(アクセス先は相手と異なる場合もある)。それが「感動する」という現象なんでしょう。

つまり、まったくの無から有を生み出すような真似は人類には不可能なのだが、いくつかの有を組み合わせて新しい有を生み出すことは可能ということだ。

ある意味で私たちが日々作り上げているすべてのものは先行する何かの「コピー」である、というのが私の持論である。
別に持論と言ってオリジナルを誇るほどのことではなく、孔子が今から2500年前に「述べて作らず」(私の申し上げることは先人のコピーであってオリジナルではありません)と宣言しているので、私はそれをコピーしているだけである。

 今ぼくが説明しているのは、おそらく↑で述べられているような問題の、根っこの部分だろうと思います。道家は面白いですよ。「述べて作らず」と言った孔子儒家との影響関係もありますし。
 道家は「とりあえず、失われた古代には文化も芸術も医術も武術も政治も、既に完成していたのだ(と、いうことにして下さい)」という前提で始まって、その「架空の古代」にアクセスする方法を体系化している面があるみたいなんですね。

*1:齊之国楽大富、宋之向氏大貧。自宋之齊、請其術。国氏告之曰「吾善為盗。始吾為盗也、一年而給、二年而足、三年大壤。自此以往、施及州閭。」向氏大喜、喩其為盗之言、而不喩其為盗之道。遂踰垣鑿室、手目所及、亡不探也。未及時、以贓獲罪、没其先居之財。向氏以国氏之謬己也、往而怨之。国氏曰「若為盗若何。」向氏言其状。国氏曰「[口喜]。若失為盗之道至此乎。今将告若矣。吾聞天有時、地有利。吾盗天地之時利、雲雨之滂潤、山択之産育、以生吾禾、殖吾稼、筑吾垣、建吾舎。陸盗禽獣、水盗魚鼈、亡非盗也。夫禾稼、土木、禽獣、魚鼈、皆天之所生、豈吾之所有。然吾盗天而亡殃。夫金玉珍宝穀帛財貨、人之所聚、豈天之所与。若盗之而獲罪、孰怨哉。」向氏大惑、以為国氏之重罔己也。過東郭先生問焉。東郭先生曰「若一身庸非盗乎。盗陰陽之和以成若生、載若形。況外物而非盗哉。誠然、天地万物不相離也。認而有之、皆惑也。国氏之盗公道也、故亡殃。若之盗私心也、故得罪。有公私者、亦盗也。亡公私進、亦盗也。公公私私、天地之徳。知天地之徳者、孰為盗邪。孰為不盗邪。」