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改めて、本田透『電波男』

 以前、『電波男』を紹介した時は殆どノーコメント状態だったので、チラシの裏ことmixi日記から書評を転載します。「既に読んだ人向け」の記事です。
 『電波男』は、その内容のスケールが大きい為、基本的に感想を書きにくい本です。ぼくも暫くの間は感想を書きあぐねてました。

03月31日 俺と電波男

 少しずつ『電波男』を落ち着いて考えられるようになってきたので、踏み込んだ文章を書いてみることにする。
 前半は『電波男』を冷静に読み込む為のテキストであるし、後半はぼくの自分語りになる。



 『電波男』のテーマは「萌え」と「恋愛」であり題材は「ギャルゲー」であるのだが、根底的なテーマは「物質世界と精神世界の融合」であるように思えた。
 だからオビの「現実に用は無い」というキャッチフレーズは、実は間違ったものとして受け止めなければならない。
 物質世界と精神世界は、両方「一人の人間にとっては現実」だからだ。『電波男』は後半に行けばいくほど、「物質と精神を融合させて、現実を一つにする方法」を説いていく。それは例えば「劇画」を「漫画」の中に取り込んだとされる手塚治虫論であったりするし、現実と妄想を往復しながらトレーニングを積んで想像力を高めていく実地論だったりする。


 『電波男』の真のテーマは、一言で言ってしまえば「心の復権」であると思う。その「心」の最たるものとしてオタクにとっての「萌え」や「脳内恋愛」が取り上げられているだけで、言わんとしていることは「現実の中に失われた心を取り戻そう」ということなのだ。
 「妄想の中に」、ではない。精神世界(妄想、二次元、デジタル)に心が存在するのは当たり前であって、その心を物質世界(現実、三次元、アナログ)にも照射して見出そうとする姿勢が『電波男』の中には隠さずあると思う。例えば、リアル女性に向かって「眼鏡だっ!眼鏡をかけるのだっ!」とサルまん風に説教するくだりでは、表面的には「眼鏡ッ子という記号的存在に女性をハメ込もうとする行為」のようにも読めてしまうが、実際の所は「もっと貴方の心が俺にも見えるようにしてください」と頼んでいるようなものなのだ。ドジな性格ならドジ眼鏡、性格がキツめなら委員長眼鏡というように。まぁこれ自体は無茶な理屈の例なので戯れ言だと聞き流してもらった方が良いくだりではあるが、ここでは「心の表現法」としての眼鏡装着が確かに奨められている。
 つまり、「物質化社会において流行のファッションはかえって心の奥を見えにくくさせているのだ」というクソ真っ正直なヒューマニズム、愚鈍とも言える精神主義がそこには込められているのである。その一方で、純愛ブームや『電車男』ブームで見られるような、資本主義に取り込まれた形での「心」などは、むしろ物質化社会の干涸らびた延命措置にすぎない、真の心は失われ続けているのだと『電波男』は痛切に説いていく。


 ただ、こういった精神主義が抱えやすい陥穽とは、精神世界が一人歩きする危険があるという部分である。70〜80年代の、オカルトブーム、カンフーブーム、気功ブームなどと同じ誘惑と罠が「萌え」にはある。
 正統派のオカルティストや武道家にとって「この世の真理を知ったつもりになる」「最強になったつもりになる」ことは、とても程度の低い階梯であるとされるが、それらと同じように、「萌え」にも「幸せになったつもりになる」という段階が存在する。
 引きこもりのボクサーが実戦では竦み上がってしまうのと同じで、萌えによる多幸感もやはり室内での出来事だし、いくら「妄想>(壁)>現実」と嘯いてみても、そもそも現実を見ようとしていないのではその優劣の関係は何の意味も為さない。部屋を一歩外に出れば自殺したくなるような「萌え」では価値は無いのだ(部屋の中に居ても自殺したくなるような人にとっては確かに有益だが、その段階はあくまで「入門編」なのである)。


 常に、精神世界と物質世界は比較され、相互に価値を検証されていかなければならない。もし「萌え」を「道」と呼ぶのなら。武道や芸道は、精神世界を現実の生活に反映させるからこそ「道」と呼ばれるのであって、生活にフィードバックされない「萌え」はどう言いつくろった所で現実逃避以下でしかあるまい。
 精神世界のフィードバックを「虚構と現実の混同」だと恐れる向きもあるかもしれないが、虚構と現実は互いに比較検証されないからこそ「混同のおそれ」があることを忘れてはならない。現実と虚構の間にはどのような関係があるのか、どこで繋がっていて、どこが繋がっていないのか。そのようなことを常に考えていないと、かえって「虚構のルールをいきなり現実に持ち込んでしまう」輩が発生するのである。
 現実と虚構は別物ではない。ルールが異なるだけで、世界としては地続きなのだ。唯脳論的に言えば、どちらも本人の主観による「脳内の出来事」なのだから。同じ脳内に過ぎないということならば、現実と虚構の違いとは「写真と絵の違い」のようなものだと言っていいかもしれない。写真と絵は別物だろうか? 違いは確かに多いだろうが、しかし、そこに描かれているもの(人間が感じ取れるもの)の本質だけは同じなのだ。
 そして、物質世界に生きる自分、精神世界に生きる自分、どちらが欠けても、人間の心は成立しないのである。


 『電波男』を正しく読み込んでいれば、著者である本田氏が「精神世界の一人歩き」という陥穽の存在を認識しており、そこに陥らない為の対処法も提示していることに気付ける筈だ。しかし、これから『電波男』はオタクのバイブルと化す可能性があるわけだが、同時に、オカルトブームやカンフーブームと同じような広がり方をする危険性も確かにあるのである。フォロワーでありながら、大事な部分を読み飛ばしてしまう読者が少なからず輩出されるだろうと思う。
 丁度ブルース・リーブルース・リー信者の関係に近いかもしれない。リー師父も最終的に言っていることは「自分自身と現実を知ること」なのだが、信者の間ではその前段階である精神世界ばかりが持て囃されるからだ。


「それは月を指で示すようなものだ。指に意識を集中しすぎると、天の美観を見失ってしまう」
*1


 この有名な言葉は、「月」こそが真理(=精神)であり「指」は取るに足らないもの(=物質)なのであるという、精神主義的な解釈をされることが多いと思う。『電波男』の主張をこの言葉に重ねてみると、二次元(=精神)こそが到達すべき「月」であり、三次元(=物質)は無価値な「指」だという理屈になるだろう。
 しかしそうではない。
 ブルース・リーは一方で、「ジークンドーとは、月を示す指だ」「指の実用性とは、指をも含む全てを指し示すというその役割自体にある」*2というコメントを残している。彼の哲学そのものとも言えるジークンドーに喩えられているくらいなのだから、この「指」が無価値に片付けられている筈も無いだろう。
 つまり「月」とは現実(=物質)のことであり、「指」とは現実を指し示す自分自身(=精神)を意味しているとも考えられないか。この場合、指は月よりも優先順位が高い。もし指が存在しなければ、人間は月の位置を確かめることもできないのだから。
 『電波男』の結論もそれと同じだ。電波男にとっては二次元における「萌え」が「指」なのだろう。だから、実は三次元の現実こそが「月」なのだという理解が正しい。萌えは、現実を照らす光なのだと『電波男』は結論づけている筈だ。
 『電波男』に感化され、「萌え」を実践しようとしている読者は、こういった逆説がありうることを覚えておいた方が良い。


 ただ、現実を忘れてはならない、というのは確かだが、そこで行き過ぎて「じゃあやっぱり、現実で恋愛すべきなんだ」と考えてしまっては全てが台無しで、それでは「物質世界の一人歩き」になってしまうだろう。そうではなく、精神世界で自己救済しつつ、物質世界では強く生きよう、できうる限り幸せになろうというのが、あるべき「心の復権」の姿であると思う。
 恋愛は、適当に恋愛資本主義のシステムを利用しながら、自分なりにリスクを考慮しつつ行えばいいのだ。男と女のミゾというものも、ある所にはとことんあるだろうが、無い所には無いものなのだし。*3



 普段から自称しているように、生理的な理由でTVゲームを楽しめないぼくは、ギャルゲーを殆ど遊ばない。
 主に漫画やアニメにしか触れないタイプのオタクだが、「物質世界と精神世界の融合」は漫画でも試みることができる。「恋愛シミュレーション」というカテゴリに囚われないことからしても、「漫画を読む」という行為の方がもっと純粋にそれを行えるかもしれない(最近は「恋愛シミュレーション」の枠に留まらないギャルゲーのタイトルが増えていることは勿論知っているが、TVゲームはやっぱり苦手なのだ)。


 さて、ギャルゲーを遊ばないぼくは『電波男』の向こうを行くような考え方を持っているのだが、ぼくは脳内彼女や脳内家族を一切持たないし、これから持つつもりも無い。勿論『電波男』に共感しているくらいなのだから、「キャラ萌え」という行為自体は人並み以上に好きだ。しかし「脳内彼女」という形で昇華することはない。
 フィクションで描かれる恋愛は第一に「物語」であって、一時的に感情移入(追体験)することはあっても「自分自身の話」ではない。物語のヒロインは主人公と結ばれるものであって、ぼくと結ばれるものだとは決して思わない。
 これは、「生身の人間とキャラクターは全くの等価なのだ」という規定を突き詰めることで自然と辿り着いた結論である。
 キャラクターとは、細かな物理的な差異(触れられるかどうか、口頭で会話できるかなど)を除けば、生身の人間と等価である。つまりテレビの向こう側の芸能人や、遠距離の想い人と変わりない存在だということだ。現実のどこかに、キャラクターが受肉して生きているのだと考えてもいいかもしれない。
 ぼくは生身の女性を脳内彼女にする気にはならないが、「それと同じく」、キャラクターを脳内彼女にしたいとは思わない。稀に空想することはあっても、その「脳内彼女」は「現実に存在する筈の彼女」の偶像(コピー)、つまりフィクションに対する更なるフィクションにすぎない、とぼくはそう考える。
 ぼくはコピーに愛されたつもりになって満足することはない。たとえ関係を持つことができなかろうが、コピーよりもオリジナルの誰かを尊びたいと思う。実際にはオリジナルなんてどこにも存在しないのだが、その「どこかに存在するであろう」オリジナルの所在こそを妄想するということだ。
 そうすることによって、キャラクターの存在は限界まで純化され、キャラクターに対する愛情もまた限界に達する。片想いでもいいから、憧れたいのだと。
 その愛情の深さを自分自身が痛感できているから、関係を持てなくてもぼくは満たされると思うのだ。物語の中であるキャラクターが主人公と結ばれた場合、それを見て癒されたり、嫉妬したり、祝福したりするのだろうが、それらを含めてぼくは受け入れる。創作や二次創作で補完作業を楽しむかもしれないが、その中で「自分」をキャラクターと結ばせたりは、やはりしないと思う。


 また、脳内彼女を作らず、片想いを徹底することで、現実への経路を失わずにいられるという側面もあるかもしれない。これも、生身の人間とキャラクターとの間にミゾを認めていないからだ。かたや生身、かたや虚構、いずれかの世界に好きな人物がただ居るだけなのである。だから、二次元で失恋(!)することだってあるだろう。


 「萌え」は信仰のようなものだ、とはYU-SHOWさんの『電波男』感想でも強調されていることだが、だとすると様々な分派や教義が林立し、なおかつ宗教対立が発生しない世界が望ましいと思うし、多分本田さんもそのように考えていると思う(例えば「ハイブリッド恋愛」という言葉を生み出してみたり、「出家」と「在家」の違いなんかを考えに入れているようだ)。
 上記のように、ぼくはキャラクターの脳内彼女化を否定するが、それは「萌え」の一派に過ぎない。
 ぼくのような考え方とは別に、例えば現実の人間を脳内彼女にする一派も存在するだろう。これは「生きた人間の性商品化」に繋がる為、原理主義的には異端視されかねないが、やはり認知し肯定しなければならない一派だろう。
 そして、こういった分派を許容する懐の広さが「脳内恋愛宣言」の今後に求められるものだと思う。

 無事増刷がかかって、売り切れていたAmazonでも再入荷されたようです

ちょっと書きすぎた(あとがきの代わりに)

 我ながらリー師父を持ち出したのはちょっとやりすぎだと後で思った(笑)。
 本当は「『電波男』をバイブル化するのは危険ですよ」「本田さんをカリスマ視しちゃダメですよ」ということが言いたかった筈なんですが……。逆に権威付けしちゃったようにも読めるかもしれません。
 むしろどちらかといえば、ブルース・リーの教訓を一番意識しないといけないのは、本田さん本人かもしれません。


 額面通りに真に受けてはいけません、盲信するのだけはやめましょう、現実的な理解を心掛けましょう、ということなんですけどね。二重の注意を再三促しておきます。
 しかし、それでも『電波男』の真のテーマは「精神性の回復」であって、「人は萌えることによって満たされる」というメッセージがある。その程度だけは信じていいと思います。

紹介して頂いたサイト

*1:燃えよドラゴン』より。原文:“It is like a Finger pointing a way to the moon. Don't concentrate on the finger or you will miss all that heavenly groly.”

*2:『BLACKBELT』誌9月号より。原文:“Remember, too, that Jeet Kune Do is merely a term, a label to be used as a boat to get one across; once across, it is to be discarded and not carried on one's back.
These few paragraphs are, at best, a finger pointing to the moon. Please do not take the finger to be the moon or fix your gaze so intently on the finger as to miss all the beautiful sights of heaven. After all, the usefulness of the finger is in pointing away from itself to the light which illumines finger and all.”

*3:この段落のみ、転載後からの加筆修正