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最終コスプレィ彼女『次元往復 第一号』

izumino2004-01-27

 夏一葉(id:natsu-k)さんの批評同人誌……における、(id:sandworks)さんの記事「男性オタクよ!/美少女主義者たらんとせば/いま一息よ」について思ったこと。冬コミ直後から感想を書きたかったんですが、なんやかんやで遅れてしまいました(主な原因はブラウザのフリーズ)。


 読んですぐ思ったのは、砂さんがマリみてファンであるというよりは、「ああ、美少女漫画読みらしい発言だなあ」と感じたということです。そして、美少女漫画的な読み方を所持していない「最近のオタク」との温度差を感じているように読み取れる。その温度差は、ぼくが「最近のオタク」に感じているものに近いんじゃなかろうか、とも(ぼくが美少女漫画読みだから)。

だからこそ諸君は、あたかも対象化されるような一切の身体を欠いた宙に浮いた目玉のように、美的対象のヒエラルキーの外部にあるつもりになり、そうして一切の対象を一方的に視て、裁き、また所有することができると思い込んでいる。諸君の理想とは純粋視線たることである!

 このような美少女の愛し方をするオタクを「半端な美少女主義者」と砂さんは断じます。
 ぼくはそれに加えて、「脳内彼女主義者」と呼んでるんですが……、彼らも「美少女」の「外部」に自らの視点(=主体)を置いている点で同じタイプのオタクに分類できると思います。


 この日記でも何度か言っていることですが、美少女漫画を読む時の男性の視点は、女性キャラの内部に潜り込むように移動します。女性化して読むというわけでもなく、ただ女性キャラの視点と感覚器を男性視点と融合させるということ。
 その極端な方法が、児玉和也氏の「ガンボール」評の中にあります。

みむだ良雑「ガンボール」をチェック。
「ガンボール」はさすがショタの大御所の作品、ちんちんパンパンに勃起しちゃったよ。
ガンボール部に入部したてのお兄ちゃんは女装して輪姦されて、お尻と口と手で
先輩へのご奉仕。いいなぁ、お兄ちゃん、気持ちよさそう…。
それを見てた妹さんも途中から一緒に犯られちゃう、二人で交わったりもする。
これから、二人ともまだまだ輪姦されちゃういそうね。
みむだ氏挿絵の小説「少年注意報!」もよかったよな、もう結構な昔だっけ。


ところで、ガンボールは眼ボールなんだけど、この眼は主体が消えて視線だけに
なったものってかんじ。つまり、実はもう見る主体としての男の子たちの
眼じゃない気がするの。ただもう純粋に見る見られるを演出する眼。


かつて男の子はたしかに眼だったと思う。
可愛い子と可愛いもの、そして可愛い子を演出するグロテスクなそれでいて
どこかやっぱり可愛い道具や生き物だけで世界を構成したい、という考えが
あるとして、その場合、自分はその世界を凝視する眼だけの存在になる必要が
あったから。ようは、邪魔だったってことかな。でもこれは見る主体としての
自分がどうしても残っちゃうのであまりいい戦略じゃなかったみたい。*1


ところが、「ガンボール」はそこからの絶妙の逃走経路を描き出しちゃってる。
どうやって、主体を消し去った完全な眼ボールが生まれたのか?
なんと、そうやって自分が眼だけになるほど凝視しているうちに、
いつのまにか見ていた主体が女の子のなかに融け込んでいってしまい、
このお兄ちゃんのように、見られるもの可愛がられるもの
やられちゃうものとして、脇役だったはずの男の子が世界の中心に
生まれ変わっちゃったのである。そして主体としての眼は消え去り、
ただ、それによって見られるという受動性を徹底して明確に演出する
機能としての眼だけが残る。
日刊:美少女漫画評(1997.09.13)

 なぜか今のオタクは、このような「ガンボール」的な読み方を所有していません。あくまで女の子を見る側、女の子を愛する側に居続けようとしている。
 逆に「脳内彼女」という在り方は、主体の絶対的肯定なんですね。本来「自分がどうしても残っちゃうのであまりいい戦略じゃなかった」筈だった「眼」=男性的主体はヒロインに愛されることによって肯定され、称揚され、ヒロインと同じ世界に入居するというような。
 ただこのような愛し方は、マリみてを読む時や、コスプレイヤーと接する時には通用しないでしょう。むしろ邪魔になる。だから多くの「脳内彼女主義者」はマリみてに対して「萌え」と言わない(言えない)傾向がある。*2


 さすがに、ぼくは砂さんのように「広義の女装」を薦めるところまではいかないのですが、「美少女漫画的読み方」の復権を叫びたい気持ちはあります。砂さんもそうなんじゃないでしょうか?
 ぼくが美少女漫画を読む時、常に念頭に置いてあるのは児玉和也氏の日記に書かれていた、以下のような一節です。


どーでもいいが、『動物になること』『女になること』という現代思想クリシェ的煽動も、ようするに、別に『女』『動物』のほうが偉いとか思ってるんでなくて、『人間性』=『男性性』の名のもとに切捨ててきた、外部性=他者性へ向けて回路を開き成長させ続けることによって、快をより増大させよ、ただ単にそういうことだ。そして、それは、上述の『まったき他者の実存への気遣い』という歓待の思想を目指す最も効果的なトレーニングでもあるだろう。
日刊:美少女漫画評(1998.05.20)
 これはマリみてや少女漫画、ボーイズラブガールズラブを読む場合にも有効な言葉だと思います。「ファンタジー」として片付けて楽しむよりは。
 このような視点を萌えオタクが所有することができるのなら、おそらく、ここ(id:natsu-k:20040104)で夏一葉さんが書かれているような齟齬も解消されるのではないかと夢想するのですが。

*1:引用者注:これが「半端な美少女主義」と呼ばれる視点でしょう

*2:ストイックな脳内彼女主義は、それはそれで好きなんですけどね。現実と虚構の区別がはっきり分かれてて