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 移行後のはてなブログ:izumino’s note

マリみてブームとロリコンの精神性の関わりについて

 この記事では「キル・ビルの絆創膏と女の子いじめ指輪世界)」とその下部のコメント欄に対する反論という形をとりながらぼく自身の勝手な考えを述べていく(反論して意見を否定したいのではなくて、自分の意見の提出がメインであることを断っておく)。

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 本題とは直接関係無いのだが、まず日記本文の方にコメントしておこう。タランティーノはオタクの嗜好を良く理解しているかのように書かれているが、しかしタランティーノ自身は自分の観たい映画をただ撮っているだけで、そこに我々に対する理解は僅かにしか無いように思えるのはぼくの偏見だろうか。彼が日本人オタクの気持ちを「良く解ってくれている」ように見えるのは、単にタランティーノ自身が日本のアニメが大好きだからというだけではないか。「日本人にとって楽しめる」というのは「日本人に向けて作られている」とはイコールではない筈だ。
 彼の映画を観る時に「こいつは俺達に近づいてるな」と勘違いする前に、観客がタランティーノの趣味嗜好性癖に「近づけられている」という映画の仕組みには気付いていた方がいいと思うのだがどうだろう。痛めつけられるザ・ブライドを観る時、我々の心は日本人オタクのそれではなく、タランティーノのそれに変化させられてはいないだろうか。
 もちろん、タランティーノと嗜好が同じ人が観るならそれでいいのだが、それを日本人オタクの問題に引き寄せるのには無理があるような気がする。

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 では、コメント欄からの引用を開始する。

id:uel 『(略)無意識的に「女の子をいじめすぎるとよくない」ことにはみんな気がついてると思うのですが、明確に意識してる/言語化できる人はどのくらいいるのだろう。探し方がわからぬ。  さて、今まで日本フィクション世界で婦女子を苛めすぎたせいか、対抗として男の存在を抹消されたフィクションが大ヒットしてしまいました。容姿端麗頭脳明晰な生徒会長もギンナンの汚汁にまみれ足をカカトで踏まれる世界。(略)恋愛感情すらも自給自足できる世界。まことに恐ろしい。  しょうがないので心の中にいる腐女子を増幅してなんとか同調しようとするヲタクたちの姿は感涙を禁じ得ません。』

id:ityou 『(略)無意識が担当しているのは多くの場合、「女の子をいじめると楽しい」ではないかと思います。◆「わたしの無意識はこれそれという展開を楽しむ。それは社会的な世界ではよくないことだが、フィクションの世界でそれを娯楽として、よりその快楽量を増すために施すべき演出手法は…云々」という話をしているのは、僕の知る限り(これまでにも何箇所かで紹介してますが)、EBMの右山さんです。◆マリみては女の子いじめに飽いた人が、女の子を徹底的に幸せ漬けにする話を見たくなって読まれているのではないかという気もします。つまり、「女の子に地球をぶつけたり、王蟲をぶつけたりするのは飽きた。女の子にかたっぱしから幸福をぶつけてやりたい」であり、そう考えた場合、第一の御質問の答えになっている可能性があります。』

 id:uelさんは「女の子いじめ文脈」の直後に、マリみてを「カウンター」として置いているのだが(原典にあたらず話題性だけの俯瞰で萌えを語ろうとする人達に多いことだが)シスプリの存在を見逃している。
 シスプリは今から5年前、1999年に発表されたもので、このシリーズは「エロゲー的な女の子いじめに対するカウンター」としての要素を充分に備えていた。その世界は一見、「兄」が妹たちを支配し/奉仕させる世界として思われがちだが、その実態は「優しくてかっこいいお兄ちゃん(←この兄は必ずしも読者と同一ではない)が大好きな妹たち」が「いじめられずに」自らの幸福を充足させる話として描き出される。
 誰の手によって描かれるかといえば、公野櫻子という女性ライターによってである。

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 少し話を飛躍させて、ここから今回のテーマであるロリコン(二次元のではなくリアリティのあるそれ)の話に繋げる。
 非ロリを自称するオタクの皆さんは言いつくろうであろうが、オタクの精神性とロリコンの精神性には深い繋がりと共通性がある。ロリコンとオタクを語る場合において忘れてはいけないのが、鎌やんというロリコン漫画家の発言である。
 『小さな玩具』(ISBN:487278121X)のコラムの中で、彼はこう言う。これはロリコンの精神性をうまく言い表した喩え話えにもなっているが、全ての人間に共通して言えることでもある。

 …おもしろい現象があって。わし、以前、とある湖畔で生活してたんですけど。毎朝その湖畔には、鴨が群れ集まっていましてね。鴨って、結構、可愛らしいんですわ。(中略)
 たまたま餌になるパンとかオニギリとか持っている人たちは、それを投げ与えるんですよね。鴨さん達、一生懸命それを食べて、実に微笑ましい光景が展開されるわけです。でも、たいていの人達は、そう都合良く餌になるものを持っちゃいません。…じゃあどうするか。九割のひとが同じ行動に出ます。
 即ち、鴨にめがけて、小石を投げつけるんです。本当だから。何年も観察したんだから。
 可愛らしいなあ、関係を持ちたいなあ、と思って、そのための適切な手段がないと、とりあえず手近かな物で攻撃を始める、というのは、どうやら人間の共通したパターンであるようで。

 この「鴨」はそのまま「女の子」に置き換えることが可能だろう。
 つまり、オタク(ロリコン)は「女の子」が手に入らないものだと知っているし、アプローチもできないと知っているから「いじめる」のである。もっとストレートに言えば、和姦ができない相手の強姦を妄想するのと同じだろう。
 真性ロリコンの中には、最高のロリータポルノとは「森の中で裸の女の子が幸せそうに歩いているだけのビデオ」であると主張する人も居る。レイプビデオやエロ漫画は下の下なのだそうだ。これも、本当は「小石を投げつける」んじゃなくて「実に微笑ましい光景」を観たいだけなのだという、悲痛な叫びでもある。
 ただ、そういう映像はなかなか観ることはできない。女の子の親身な協力が必要だからだ。アニメやコミックにおいても、「幸せそうにしている女の子」を描くのは難しい。なぜなら、男性は女の子がどう「幸せそう」に振る舞うかを知らないし、女の子に幸福を与えられないからだ。
 少女性は永遠に謎だからこそ、女の子に愛されるというフィクションが満足に描けない。だからロリコンの描く漫画は「女の子をいじめる(=小石を投げつける)」鬼畜モノが多いのだ。中には、いびつな恋愛と女の子いじめが一体化した作品も出てきてくる(サイカノやガンスリがそうだ。むしろギャルゲーは殆どそうだ)。

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 そこにシスプリは登場し、熱狂を持って迎え入れられた。もちろんシスプリは男性中心の世界観だし男性作家が二次創作の主流だったから、妹たちを「いじめる」ことを求めるユーザーも居た。だがシスプリのコアなファンが本当に歓喜したのは、妹たちが男に押しつけられるでもなく、「自分の言葉で幸福感を語っていた」からだと思う。その視点を保証するのが公野櫻子という女性ライターのクレジットだった。
 そこでは幸福は「女の子にぶつけられる」ものではなく、女の子自身が演じている。限りなくウソっぽくはあるが、男が書くようなウソとは、確実に違う。
 マリみても女性が描いた「女の子」だという点でシスプリと似ている(方向性は大きく異なるのだが)。逆に、男性が書いていたらブームにならなかったと断言してもいいだろう。単に「幸福をぶつける」ことに快感があるのだとしたら、男性作者でも売れていた筈だ。
 「女性が幸福な女の子を描くこと」が男性人気の理由であるなら、なぜマリみてだけがこのような受け入れ方をされ、他の少女小説はそうでないのか、という疑問に答える必要はあるかもしれない。第一に「そもそもそういうテーマを扱った少女小説が少なくなっている」という事実が挙げられるだろうが、私見も述べておく。マリみての作者である今野緒雪が男性的側面・オタク的側面を適度に備えており、その作者の「書きたかったもの」が、偶然、男性オタクの「みたかったもの」に重なり合ったからだろうとぼくは考えている(もちろん、逆に男性が女性的側面を備えていることも確かであって、そこの重なりも重視すべきなのだが、ここでは一般的に見逃されがちな男性的側面の重なりを敢えて指摘しておきたい)。だから、作者と男性の視点がたまたま似ていたから楽しめる、というだけのことなのだ。
 またグリーン・ウッド那州雪絵カレカノ津田雅美のように、男性人気の高い少女漫画家は、自分が男性的だとコラムで述べていることが多い。つまりマリみてブームは今に始まった話ではなく、10年以上前から前例のある売れ方をしているのだ。それを見落とすようでは、歴史分析として片手落ちだろう。

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 マリみてが男性に強く受け入れられている理由は、多分こんな所ではないかと思うのだがどうだろうか。また、多くの男性ファンは腐女子化する必要もない。ただ「元々見たかったが見れなかったもの」を運良く消費しているだけだと思う。確かに少女的視点を身に付けることになったファンは多いが、それは少女趣味に触れていれば自然と修得される類のものだろう(少女漫画ファンの男性なんていうのは、30年前から居るのだ)。
 あと一応言っておかないといけないと思われるのは、マリみての女の子達は年がら年中幸福なわけではなく、ヴァルネラビリティをきちんと備えているということだ。実際、不幸にも彼女達が傷つけられるシーンは「(男性的にみても)魅力的」だと言っていい(例えば佐藤聖藤堂志摩子に男性ファンが多いのも、そのヴァルネラビリティ──傷つきやすさ──故かもしれない)。最終的には確かにハッピーエンドが用意されているが、それを言えばザ・ブライドもヴァルネラビリティとハッピーエンドを同時に備えた女性だ。両者の違いは、女性自身によって傷付けられるか、男性によって傷付けられるかの違いでしかないと思う。

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 このような時代の流れ(女の子をいじめることが難しくなり、女性作家の需要が増す→男性的視点が衰退する)の中で、我々男性が考えなければならないのは「少女性に頼ってばかりではいけない」ということであることは言うまでもない。
 我々男性は、男であることを肯定できるようでなければならない。
 具体的に言うと、マリみてのような作品がある一方で、「男が描いたカッコイイ男の子」がもっと必要とされる時代が来るのではないかと思う。

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 上記とはまったく関係無い話だが、ぼくは「真性ロリコンの治療薬としてのマリみて」ということをたまに考えることがある。
 街中で女子高生の群れを発見して、迂闊にもマリみてを連想してなんだかいい気持ちになってしまい(←妄想)、恥ずかしい思いをしたロリコンは結構多いんじゃないかと思う。だが、(妄想に萌えていたのだとしても)それはいい傾向だと思うのだ。今まで女子高生にちっとも魅力を感じなかった人間が、もしマリみてを通じて女子高生に萌えることができたとすれば、(それは世間的に言えばやはりロリコンなのだが)あなたの性癖は改善方向に向かっているかもしれないと、余計なお世話かもしれないが、ぼくはその人に言ってあげたいのである。