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マリみて考察

 小説シリーズ「マリア様がみてる」(以下「マリみて」)の考察です。
 と言っても、せいぜい現状の捉え直しが目的なので、パッパと片づけていきたい。

 世に「マリみてブーム」は興っても「百合ブーム」は来ていません。*1それは「マリみて」の特殊さや、(ある面での)新しさゆえでしょう。百合ファンは「マリみて」の中に進化した百合を見ることができますが、マリみてファンが他の百合作品に「マリみて」を見ることはできないようです。そういう意味で、マリみてはエポックだと言えます。まだこのジャンルに名称はついてませんし、後続は生まれていませんが……。
 だから雑誌『百合姉妹』は、実は「マリみて」の便乗企画ではありません。出版にこぎつける過程や、客寄せ的には便乗しているでしょうが、『百合姉妹』は(見えない領域にあった)既存のジャンルに属するジャンル誌に過ぎないでしょう。


 では、百合作品の中でのマリみては、どういう立場なのか。
 『百合姉妹』編集部によると、──ソロリティ(女子社交クラブ)を描いた作品として『おにいさまへ…』『丘の家のミッキー』、女子寮での生活を描いた作品で『クララ白書』『ひみつの階段』などが挙げられており、「マリみて」はこれら女子校ものの最先端、ということになっています。
 作者である今野さんの読書歴は判然としませんが、マリみてが過去の「女子寮もの」や「ソロリティもの」を意識しているのは間違いないでしょう。ただし、作品内に「女子寮」も「ソロリティ」も登場しない点で、マリみては「女子寮もの」でも「ソロリティもの」でもないと言えます(その為、マリみての「源流探し」に挑戦して失敗する読者は多い)。
 とにかく、リリアン女学園においては「スール制度」「ロザリオの授受」といった、きらびやかな(耳こそばゆい)用語*2が「ソロリティ」の代わりに存在しており、これは単なるガジェットの置き換えではなく、その構造や、意味を変質させていることに注目したいところです。
 「ガンダム」がロボットアニメの世界に「モビルスーツ」「ミノフスキー粒子」という言葉を与え、後に「リアルロボット」というジャンルに変質させたのと同じ……、とまで言ってしまうと評価し過ぎですが、エポックメイカーとして認識する場合の雰囲気は近いと思います。


 そして、「スール制度」が変化させたソロリティとは何なのか。
 たそがれSpringPointさんの「マリみて」三性鼎立説でも疑問を投げかけられているように、リリアンでの性、というか愛情は、常識で了解可能な形をしていません。正常ではなく、かといって異常でもない。だから読者は戸惑い、正確な評価をくだしにくくなっていたと思います。
 これは、ただの先輩後輩の連帯感や友情から始まって、似たもの同士の信頼関係、主従関係、共依存関係、疑似家族愛、疑似恋愛、恋愛そのもの……といった、ありとあらゆる「絆」のパターンを「スール制度」というシステムに収納してしまったことから起こる「了解不可能さ」だったと思います。
 スール制度は実は、単純に「お姉さま〜妹」の関係性を描くものではなく、姉妹関係をも内含した「様々な関係性の容れ物」として有効に機能しているのだと。
 だからこそ、スール制度という「発明」の存在感は大きい。


 次からは、実際のスール制度のありかたを検証していきます。
 マリみてシリーズをひと流れのストーリーとして見た場合、主役として立っているのは紅薔薇ファミリーのラインですが、その脇に立つ姉妹は「スール制度そのものを象徴するために機能」しているように見受けられます。特にそれが顕著なのが黄薔薇ファミリーです。

  • 2.黄薔薇ファミリーからのライン

 あまりメインのストーリーに介入せず、単独のエピソードとして描かれることの多い黄薔薇ファミリーですが、その分「作品の世界観を表現」することに貢献しているように思えます。シリーズ2作目である黄薔薇メインの話が、スール制度そのものに大きく干渉する物語を選んでいる点からもこれは窺えるでしょう。
 ここで散見できるのは、過去の「伝統・教育システムとしてのスール制度」から、現在の「自由で・過剰な関係性を主軸としたスール制度」への変化の描写です。

 今、旬なのは、何と言っても山百合会幹部たちだ。彼女たちを追いかけてさえいれば、読者たちはついてくる。まさに、機は熟したといった感じだった。
 (中略)山百合会の幹部たちにしても、こんなに粒ぞろいで個性的な人物が集まったことなど、過去になかったのではないか。(「黄薔薇革命」p43)

 当時、二年生にすぎなかった新聞部部長が、「過去になかった」と確信できるほど学園の歴史に精通しているわけでもないでしょうが。それでも、過去6年程度(彼女の先輩の先輩からの口伝だとすれば)遡っての「過去になかった」だと思ってもいいでしょう。
 新聞部からの視点で「今の生徒会はすごい」と評される描写は『ここはグリーン・ウッド』でも見られます。これは、マリみてグリーン・ウッド的なものを読者に連想させる一場面でもありますが、両者が指摘している内容は微妙に異なっています。「グリーン・ウッド」がただ、二人の先輩キャラクターの実力や個性──言ってみれば「個人のキャラ立ち」を強調しているのに対し、「マリみて」の場合は「生徒会内でのスール関係の変化」に目が向けられているように思えるからです(更に言うと、単なる「実力」で言えば過去の山百合会も優秀だったのではないか、という気もします)。
 そして山百合会幹部は学園生徒の価値観をリードする存在であり、姉妹関係の模範でもある。
 では、上から順番に黄薔薇ファミリーを見ていきましょう。

 「変人ぶり」が特に目立つ江利子ですが、主要人物の中で最も異性愛ディスコースの上に乗ったキャラクター、という側面も持っています。実の父兄との恋人プレイに付き合わされ、男性に一目惚れする彼女に同性愛的な気配は少ない。
 妹の令に対しても、「伝統」の範囲内にある愛情でもって指導しているように見えますし、令に貰ったバレンタイン・チョコレートを食べる時も(比較的同性愛的傾向の強い)令の気持ちをありがたりながらも「そういうイベントだから」と割り切っている様子が窺えます。
 おそらく、先々代以前(前薔薇の世代よりも先輩)のスール制度は、(「先輩への憧れ」などの色付けがあったものの)より格式的かつ家系的なものであり、江利子はその歴史の影響を最も古く受け継いでいるのではないでしょうか。たとえば、蓉子が持つ「親としての愛情」はかなり過剰ですし、聖の場合は明らかに例外だからです(僅かに触れられる、この二人のお姉さまの描写は興味深いものですが)。
 また、基本的にリリアンのOGは(「いばらの森」での問題を除けば)異性愛ディスコースに生きていることを保証されている描写が多い。大抵が既婚者ばかりで、先輩への憧れを「宝塚的趣味」というステロ・タイプな表現で片付ける場面もありました。


 そういう旧世代からの視点で見ると、令と由乃の二人はリリアンに決定的な化学変化を起こした姉妹と言えます。特にベスト・スール賞に選ばれることで、彼女たちが新しい姉妹関係の憧れ、模範になった、とも(「黄薔薇革命」p45)。
 直接的な言及は避けられていますが、どう見ても同性愛者傾向が一番強いな、と感じる姉妹がこの二人です。直接的な言及がない、というのは、たとえば「恋人」という言葉を持ち出さなくても(実際は前出の p45で持ち出されてますが)、それ以外の関係性を示すものが彼女たちに豊富だからです。
 山百合会の幹部同士であり、スールであり、従姉妹であり、お隣さんであり、幼馴染みであり主従関係でもあり、更に部活の先輩後輩の関係まで獲得するに至る。これらの関係を高速で入れ替え、繰り返すことでこのカップリングの愛情は説明されます。

 ここで無闇に「令と由乃は同性愛者である/ない」という指摘をするものではありません。ですがおそらく、令と由乃の奇妙な関係が成立しているからこそ、他のキャラクターが「同性愛者である/ない、という追求」から免れているのではないかと思います(聖の存在によって免れている、という見識の方が一般的ですが)。


 このように黄薔薇ファミリーを制度変化の象徴として捉えた上で、次は例外の集りである白薔薇ファミリーについて軽く触れようと思います。

  • 3.白薔薇ファミリーからのライン

 ドラマとして考えて、スール制度の存在価値は、というと、関係性の容れ物の次に「救済のシステム」としての役割が見られます。おおよそ、スール関係を結んでも救われない生徒というのは存在せず、その確実性は「黄薔薇革命」においてより純化されていきました。
 この「関係を与えることによる救済」というのは文学や漫画には良くあるパターン(例えば「家族に加える」「名前をつけてやる」「犬に首輪を与える」などのお約束)で、作者のファンタジー的な(ある意味「王道」な)想像力を窺うこともできます。

 ただ、白薔薇ファミリー(前々白薔薇も含む)だけは少し特殊なケースを持っていて、彼女たちはむしろ、スール制度と関わりの無い関係を築いた上で「学園社会の様式」に推された形でロザリオを手渡しているように見える。そしてロザリオ自体は「お互いに所有される保証」でさえあればいいと言うような。
 それでもスール制度は彼女たちの関係を強化し、安定させる力があるようで、これは(「関係性の容れ物」としての)スール制度が持つ容量の大きさを示すでしょう。


 聖と栞、そして静の3人を持ち出した時に、「スール制度は同性愛者を排斥するのか」という疑問がつきまといますが、これは表面的には合っているけれど、本質的には正しくない仮説だと思います。
 おそらく作者が描きたかったのは「直接的な同性愛ではない同性間の愛情」であって、その点、一度同性愛を「失敗」した聖が志摩子とオリジナルな関係性を築き、回復するというエピソードが「多様な関係性の容れ物」であるスール制度にとって必要だったのではないでしょうか。
 そしてそういった非・同性愛的な関係性は、ソロリティものや女子寮ものの作品群が蓄積してきた「オリジナルな関係性の集大成」でもあるかもしれません(意識的に集成した作品という点において、マリみては先進的だったのではないか。するとマリみては「ジャンルに自己言及的な作品」であるという評価もできます。軽く言えば同人的である、ってことですけど)。*3


 また、「いばらの森」の作中小説である『いばらの森』は吉屋信子エス小説*4をモチーフにしているという指摘があります。まず「いばらの森」で同性愛の悲劇を踏まえた後、「白き花びら」では悲劇からギリギリで掬い取られる聖の姿が描出される、このことも、過去の作品に見られる「古い関係性」からの「脱却」を目指しているからこそではないでしょうか。と同時に、エス小説の知識の無い若い読者の為に、過去のエス小説のパターンをティーチングできるという効果もあったと思います(ちなみに氷室冴子の『クララ白書』の場合、ヒロインは吉屋信子の愛読者である、という描写だけに留まっています)。

*1:これ書いてる当時はそんな感じでした

*2:余談:そういえば、マリみての「通り名」もこそばゆいですが、『おにいさまへ…』に出てくるソロリティメンバーのあだ名も調べてみると凄かった。宮さま、サンジュスト様、薫の君、モナリザの君、ボルジアの君、バンパネラの君、カトレアの君、メデューサの君……。マリみてのネーミングセンスが特別飛び抜けているわけではない、というのは解りましたけど。どっちが恥ずかしいかと言われたら微妙な勝負になりそう

*3:かなり余談:あるジャンルについて自己言及的な作品と言えば、やはりぼくはアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』を想起するわけですが。この作品もまた、過去のアニメ・特撮作品の「カッコ良さの集大成」でシリーズ前期が構築されていた。当時の年若いアニメオタク(ぼく含む)は、このシリーズ前期を見るだけで「アニメのカッコ良さ」のなんたるかを学べた上に、シリーズ後期に至っては「既存のカッコ良さに対する超克」を見ることもできた(あれは超克っていうか自爆みたいなもんだけど)。ジャンルに対して本当に誠実な作品は、このように作られているべきなのだ! マリみてエヴァ並に「誠実」だとは言わないけど、読者に対して「親切」な作品だなあ、と感じることは多いですね

*4:『屋根裏の二処女』