男性が描く百合
BL作品なんて今まで数える程度しか読んでないんですが、「やおい」も含めたこのジャンルに対する個人的雑感をば。
なぜ同性愛を描こうとするのは、BLであってもGLであっても女性なのか。
逆に、男性が同性愛を描くことについて。
男性の描く男色作品について考えるのは容易いでしょう。万国の古典や日本文学にも前例があるくらいですからね。由緒正しいジャンルなわけです。気になるのは「逆の性の同性愛を描く」ということについてです。
男性が描く百合というのは、ぼくが知る限り「魅力的な男性なんか描きたくない(描けない)」という、男性キャラの否定や作者の技術的な欠落などから発生してきたはずです。そこに恣意的な「同性愛性」は(僅かに後付けされるのみで──それも「背徳感」という、ありがちなエロティシズムでしかない──)無かったと思います。
男性作家にとって「百合」というジャンルのレベル(思想性、と言ってもよい)がかなり未発達な理由はまさにそこであって、彼らはモトから同性愛を描きたがっていたわけではない。むしろ「フタナリ」や「ショタ」の方が、レベルも思想性も高いものに成長しています。
……ではなぜ百合は成長できなかったのかというと、彼ら男性作家は「女性性と男性性がミックスされた異性愛的セックス」こそが描きたいのであって、そこには「女性同士である必然性」があまり無かった。そこに、一度女性同士の異性愛的な関係を「フタナリ」等に見出してしまった以上、「女性同士である必然性」が失われ、それを取り戻すまでに時間がかかったのではないか。*1
やおい発生の現場も同じ(=女性キャラの否定)だったかもしれません。ですが、ここにおいて「性器の存在の十全さ」が「フタナリ」等を発明する必要を駆除してしまったからでしょう、当初は確かに「男性性と女性性がミックスされた異性愛的セックス」を描いていたであろう彼女たち女性作家は凄まじい勢いで「男性同士である必然性」に問い掛け、議論し発表し、海外のトレッキー・ファンダムやフェミニズム研究者と融合した上で、そのレベルと思想性を確かなものにしていったのだと思います。
そして今では(外部からは窺い知れない細分化があるのだと思いますけど)、BLとGLの構造が交換可能なまでに変化し、セックスよりもむしろ、別の系の情報を読み取ることも可能になっているわけです。
*1:単純に「射精」が描かれないと自分に立ち戻れないということでもある