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電撃コミックスNEXTから森夕『魔法科高校の優等生』6巻が9日から発売

 『電撃大王』連載の魔法科高校の優等生(森夕)の6巻が12月9日に発売されます。


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 原作文庫版のイラスト→*1とはデザイン違いになっている、赤と白の映えた巫女装束コスチュームの表紙が美しいですね。


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  • こちらのKindle版は10日から配信


 また、電撃コミックスNEXTといえば、12日18日にも『新米姉妹のふたりごはん』柊ゆたか)の1巻が発売になります。
 先月出たばかりのやがて君になる仲谷鳰)の1巻といい、電撃大王からは話題作のリリースが続きますね。


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*1:魔法科高校の劣等生』4巻カラー口絵

大人気漫画家の「その後」とその家族を描く/大月悠祐子『ど根性ガエルの娘』1巻


 『ど根性ガエル』の作者、吉沢やすみの娘にして、自身も漫画家である大月悠祐子さん(旧PNは「かなん」)のエッセイ漫画です。
 まずはWebでも読める第1話を読んでみてください。


 大ヒット作『ど根性ガエル』の後、ヒットに恵まれずスランプに陥った父が、現在に至るまでの姿を「娘」の視点から描いている作品ですが……。
 これ、漫画家の人生に興味のある人だけでなく、漫画家になりたい人も必読の内容ではないかなあと。
 どん底とも言える体験が描かれているわけですが、「他人の人生」を追体験できるドキュメンタリーの内容として、大ヒット漫画家が「なぜその後から仕事を続けられなくなったのか」、その理由を分析するくだりは胸に沁みるものがあります。


 さらに父と娘だけの関係だけでなく、吉沢やすみの奥さん(母)の存在がすごく大きくて、「こんな女性がホントにいるんだ!?」とびっくりしたりも。エッセイ内で描かれる「家族」の姿もとてもユニークです。


 まるっこくてどこか茫洋とした絵柄のためか、人生どん底な話なのに読者が入り込みやすく描写されているのもいいですし、一歩引いたような目線もあるのが、一漫画としても面白いですね。


 ちなみに、ぐるなびで『ペンと箸―漫画家の好物―』を連載している田中圭一さんが特別寄稿を書いておられます。
 その『ペンと箸』において、大月悠祐子さんの弟さんに取材した回があって、そちらを先に読んでみてから『ど根性ガエルの娘』を……という順番で読むのもいいでしょう。

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田中謙介プロデューサーの回想するアニメ艦これ

 久しぶりに『艦これ』のアニメの話をしましょうか?


「このタイミングでですか? 来年に劇場版が公開、二期も並行して制作中、ってのが決まってるんでしたっけ」


 今だから、ということもないけど、最近は人と会うたびに話を聞かれることが続いていてね。
 特に、アニメが終わってから田中Pがインタビューに出ていたことを意外とみんな知らないようなんだ。


「アニメ終了後のインタビュー記事というと、『Newtype』の……、5月号でしたか」

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  • 2015年4月10日発売


 そう、それだ。
 けっこう重要なことがいくつか書かれているんだけど、アニメ版の評価をするなかで、この記事があまり参考にされてないと感じていてね。だから相手に説明してみると、なかなかウケがいい。


「それで、どんな話をしたんですか?」

田中謙介プロデューサーと、集団制作

 要点はふたつある。
 ひとつは、アニメ版の感想を聞かれた田中Pが、アニメは大きな集団制作だなあ、と第一声で答えているんだ。スタッフらのイメージする『艦これ』の空気がそれぞれあって、結果的にキャンディ・アソートのような楽しさがあったと思います……と。
 オブラートに包んで言ってるが、次のアニメではこういうのよりも、もう少し同じ空気感の艦これを見てみたい、でもぜいたくな希望かもしれません、とも付け加えている。


「各スタッフの意思統一ができてなくて、イメージもバラバラで一致してなかったってことですかね」


 それは視聴者がみんな言いたいところだと思うんだけど、田中Pもそこはやんわりと認めるんだなあと。
 で、次回はイメージを一致させたい、というだけのことを『ぜいたくな希望かもしれません』で締めくくるというのが、『大きな集団制作』に対する無力感、諦めのようなものが……。


「でも田中Pもゲームの開発者でしょう? 集団制作なら今までも経験していたのでは……。あ、『大きな集団制作』って、『大きな』を付けて区別してるのはそのせいか?」


 プロジェクトの大きさ的に、ゲーム開発のようには意思統一しきれなかった、ということかもしれない。
 あと、ゲームよりTVアニメは納期がキツいってことも調整の難しさに関係しそうだけど。


「艦これは特に、イメージの共有が難しい作品でしょうからね」


 だからこそ、その共有にこそ時間的コストを注ぐべきタイトルだとも言える。

田中謙介プロデューサー、本来のコンセプト構想

 次に、田中Pが『艦これ』のテーマというか、コンセプトを説明してる部分があるんだ。これがね、ちょっと一読しても意味が取りづらいような話し方になっている。


「というと?」


 具体的には、ラストのMI作戦攻略に絡めてこういうことを言ってるんだ。

「艦これ」で言う「MI作戦」というのは、もちろん史実であった「ミッドウェー作戦」をそのモチーフとしています。

アニメでは、その悲しい記憶をどこかに宿した艦娘たちが、提督と自分たちの力で運命を乗り越えて「未来を変えていく」という筋立ては当初からの基本線で、そこは変わっていません。また同じ悲劇を繰り返すのかと絶望的な気持ちになったとき、前向きに努力を重ねた「吹雪」がキーとなって、状況や皆の気持ちに変化が生じて、自分たちで未来を変えていく。


「そこまでは理解できますね」


 続いて、ゲーム版も含めたコンセプトの話へと展開する。

「忘れない」「でも未来は変えていける」それは、ゲーム本編、そしてアニメ版「艦これ」共通のメッセージにしていけたら、と思っていました。

「艦娘」のモチーフとなった出来事、そして失われた艦や人たち。それを忘れない、という思いが原点ですね。最後の最後まで頑張って、しかし絶望のなかで沈んでいった、失われていった思いの先にある未来、それが「今」なわけで。

その未来は変えていけるのだと。そんなことを「艦これ」をプレイした提督の方の何人かが感じていただけたら、それ以上の幸せはないです。アニメ「艦これ」も、表現や内容は違えど、そんな思いを表現しようとしていることは同じだと思います。


「ふむふむ……?」


 理解が難しくなってくるのは、ここからだ。

アニメ「艦これ」のテーマは一見「史実の克服」のように見えますが、そうではなくって、物語全編を見ると「未来を変えていく」という軸がその水面下にはあったのだと思います。つらい過去があったとしても、未来は変えていける。

前向きな積み重ねで、いつか変えていける。希望のような思いを、吹雪や赤城に託して描きたかったのだと思います。


「え……? 『史実の克服』ではなくって『未来を変えていく』なんだ、って……どこが違うんですか? 運命を乗り越えて、MI作戦に勝つことが『未来を変えていく』だって言ってましたよね?」


 そう思うでしょう。でも田中Pとしては、その両者ははっきりと分けられていることのようなんだ。
 このインタビュー記事自体は、雑誌の2ページぶんもないボリュームしかないから、謎かけみたいな説明になっているが……。
 だから田中Pが、別の原稿ではどういう意味でその言葉を使っているのか、というのを見ていく必要がある。


 『未来を変えていく』というニュアンスの言葉は、私が知るかぎりでは、『海上護衛戦』(角川文庫版)に寄稿された解説のなかで使われている。


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田中謙介プロデューサーと、『海上護衛参謀の回想』

「よくお勧めしてる本ですよね」


 よくも悪くも、田中Pが『艦これ』をどう考えているのか? を知る上では必読の本っていうところです。きっと座右の書なんでしょうね。
 かつては海上護衛参謀の回想―太平洋戦争の戦略批判』というタイトルでも出版されていた。戦後に記された批判的な戦記の例に漏れず、『巨大な組織の陥る、愚かな判断』が切実に表現されていて、かなり面白い。
 巨大な組織といえば、さっきの『大きな集団制作』発言を思い出して、つらさもこみ上げてくるけど……。


 ともかく、田中Pは解説のシメにこう書いている。

 現在と過去、そして未来は、繋がっていると思います。
 先の大戦の中で、また海上護衛戦や商船隊で亡くなられた数多くの人達の魂が安らかでありますようにお祈りいたします。


 過去を変えることはできませんが、現在、そして未来は、変えていけると信じます。


「この解説は通して読むと、かなり泣かせますよね。ぼくは好きだなあ」


 ここで『未来は変えていける』というキーワードが登場している。その対なのが『過去を変えることはできない』という言葉だ。
 『過去』というのはもちろん、先の大戦という(敗戦の)史実を指しているわけだが、変えるべきなのは『過去』ではなく『未来』なのだ……、という考え方を田中Pは基本的に持っている。
 『史実の克服ではない』、と否定しようとするのはそのためだろう。


「うーん、でも物語としてはミッドウェー海戦に勝って終わりますよね? それがどう『史実の克服ではない』に繋がるんですか」


 そこは妙なところなんだ。ミッドウェーに勝って運命を変え、そして悲惨な敗戦を免れるにしても、それは史実という『過去』の、上書きにすぎないことだから……。
 田中Pの言う『今』『未来』とは、あくまで終戦後の『今』の話であって、仮想戦記的な『あの時こうやってれば勝てた、負けなかった』というifの克服とは、相性が悪いテーマのはずなんだ。


「if戦争っぽいアイディアは『Newtype』のインタビューにも載ってましたね。ミッドウェー海戦で空母の防空が強化されていたら、攻撃目標を分散せずに絞ることができていたら、大和が後方に居座ってなくて合流できていたら……とか」


  • 第12話より

 あと『大鳳の建造が間に合っていれば!』なんていかにも仮想戦記的な、『if=たられば』の勝利フラグだろう。
 だから田中P自身も『アニメ「艦これ」のテーマは一見「史実の克服」のように見えます』という印象で捉えている。


「その後に続くのが、『「未来を変えていく」という軸がその水面下にはあったのだと思います』で……。少し歯切れの悪い言い方ですよね。『水面下には』あったのだと思います、か……」


 思うに、田中Pはそのコンセプトをアニメでうまく表現するイメージができていなかったのか、企画会議で各スタッフにうまく伝えられなかったんじゃないかと思うんだ。
 対照的に、自ら原作を手がけている『いつか静かな海で』というコミカライズ作品では、なるほど、未来を変えていくとはこういう意味か……、と納得できるコンセプトが提示されている。


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「艦娘が海上自衛隊護衛艦に生まれ変わるってやつですよね」


 そう。ただ、艦娘たちに『自分は護衛艦に生まれ変わる』という自覚がはっきりあるわけじゃないから、自衛隊ネタという点にはこだわらなくていいんだと思うけどね。
 重要なのは、『いつかこの戦争が終わったら(この戦争とは違う方法で)平和な海を護りたい』という願いを艦娘たちが抱いているという、その心理描写の方だと言えるだろう。

1巻p60-61 駆逐艦・響

1巻p94-95 戦艦・金剛*1

2巻p48-49 水上機母艦・千代田

2巻p102-103 軽巡洋艦・神通


「確かにこういうページの描写があるだけでも、そのテーマは充分に伝わってきますね」


 これらの想いが海上自衛隊の同名艦*2に受け継がれることを示唆している、というのは海上自衛隊マニアだけに伝わればいい話でもある。
 なんなら人間に生まれ変わって平和活動に従事してもいいんだからね。自衛隊と無関係でも成立するストーリーだ。


 『海上護衛戦』の解説からも窺えることだが、思想的に分類するなら田中Pははっきりと非戦論者だと言える。
 しかし彼は旧海軍ファンであると同時に、海上自衛隊ファンでもあるからこういう漫画を作ってみようとしたんだろう。


「『いつか静かな海で』にクレジットされている『C2機関』というサークルは、自衛隊の同人誌も出してたんですっけ」

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日本海軍の鎮守府跡を取材した同人誌「ちんじゅふ。」や、食べ物系同人誌「このお漬物め! 」「カレーにするぅ?」などで知られる大人気同人サークル「C2機関」。
そのC2機関が発行した、自衛隊をテーマとした同人誌「そうかえん。」「かんかんしき。」「くうじき。」が一冊にまとまり、「りくかいくう。」として発行されます。


 田中Pは『いつか静かな海で』の物語を、『万人受けするものじゃない』『100人中3人でも、心に響いてくれたら』と控えめに語っていたそうだが、『護衛艦の平和利用』というものへの希望が強い人なんだろうと思う。
 つまり率直に言ってしまえば、『護衛艦はたくさん*3作ってほしい、でも一隻も戦争に使ってほしくない』、というのが軍船/護衛艦フリークである田中Pの気持ちなのだろう。


「それは解ります。っていうことは、そういう未来を想像させるようなストーリーにアニメでもしたかったと?」


 だと思うんだ。それも、自衛隊の話とは無関係にね。
 だが、それは田中Pが水面下で望んでいただけで、アニメの映像にうまく反映されなかった……、というのがあの画面のちぐはぐさに繋がっていたと考えられる。


 さて、じゃあどうすればそれを表現できたのか? というのが問題となる。
 思うに、『一見して史実の克服のように見えてしまう』理由から解決していくべきだ。なぜだと君は思う?


「うーん、さっき言ってたみたいに、いかにも仮想戦記っぽいってことですよね」


 その通りだ。まぁ仮想戦記全般がそうというわけでもないと思うんだけど、『こうやったら勝てた、負けなかった』というのは、戦争を過去の知識として知っているからこそ言える話だよね。
 敗戦から教訓を学ぶのはいいが、歴史を遡って再チャレンジするというのは、現実的にあってはならない『if(もしも)』だと言える。


 第一、これはゲーム版の『艦これ』でもそうなんだけど、何度もチャレンジを続けて『正解』を見つけるというループ構造の解決法は、いわばチートでやる戦争であって、そんな戦争はどこにもない。
 それに『正しいやり方なら戦争に勝てる』という考え方をしていけば、むしろ非戦論から遠ざかってしまうだろう。それは田中Pがもっとも見たくないものじゃないだろうか?
 むしろ『負けた戦争を勝てるまでやり直したい』とでも言うような、執着心になってしまうからね。


 そこで、ただの『史実の克服』にならないよう、ゲーム版の『艦これ』がどう配慮しているか……、そのゲームシステムに注目してみる必要がある。
 艦これ――『艦隊これくしょん』というゲームの目的はなんだと思う?


「タイトル通りに受け取れば、艦娘のコレクションですよね。イベント海域でも、海域のクリアやボスの撃滅というより、新規艦のコンプリートがユーザーの勝利条件になってる気がしますし」


 そうそう。さらにもうひとつ挙げられる。『育てた艦娘をロストしない』という目的だ。
 単に図鑑(艦娘のカード)を埋めるだけなら、入手済みの艦娘を使い潰したっていいんだからね。
 だが、艦これの開発側は、この『艦娘のロスト』という現象をユーザー側が全力で避けるよう、巧妙にコントロール、誘導しようとしている。


「轟沈のシステムですね」


 ゲーム版における轟沈は、プレイ中のケアレスミスによって非常に発生しやすいように設計されている。ただしそれは、現状において『偶発的に発生するものではない』ことが明らかにされたシステムだ。
 不可抗力や強力な敵によって引き起こされるものではなく、あくまでもプレイヤー(提督)の判断ミスに責任が集中するように作られてるんだ。


「誰かが轟沈報告したら、まず『無能提督』ってみなされるくらいですしね。逆に言えば、慎重にプレイしてさえいれば確実に轟沈を避けられるゲームにもなってるんですけど」


 でもそれって、戦争シミュレーションゲームとしては不自然だとは思わない?
 だって戦争というものは、戦術的勝利と戦略的勝利があり、大局的な目標のために自軍の損耗も勘定に入れながら行うものだ。
 つまり『ここで突っ込めば戦略的勝利が得られる』=『ここで突っ込まなければ戦略的勝利を取り逃す』というシチュエーションにおいては、戦術的な敗北――戦争過程における犠牲も肯定されうる。
 大抵の戦略SLGにおいても、自軍ユニットの扱いというのはそういうものだろう。


 こうした戦争観については、田中P自身が『栗田ターン』について語っているインタビューを参照してもいい。

4Gamer
 私も最初,知人に勧められたときは,「ああ,また萌え系のゲームかな」と思っていたのですが,遊んでいるうちに,これはどうもそれだけじゃないぞ,と。それで「進撃」と「撤退」が何を抽象化してプレイヤーの体験にしているかに気がついたとき,これは本当に凄いと思いました。
 実際,「艦これ」のお陰で,俗にいう「栗田ターン」(1944年に行われたレイテ沖海戦において,栗田提督が率いる艦隊がなぜか途中でレイテ湾への突入を回避した事例。「謎の回頭」とされる)が再注目されましたよね(笑)。


田中氏:
 栗田ターンは,史実として考えると「いったい何やってるんだ! すべての犠牲を無駄にして! ありえないッ! 俺だったらッ!」となりがちですけれど,「艦これ」を遊んでいると「いや,ちょっと待てよ」っていう気持ちになる(笑)。“あの”栗田ターンが再考されるというのは,本当に面白いですね。
 でも栗田ターンについて議論している人によく考えてほしいんですけど,あれは「艦これ」で言うと「あと3日くらいでサービスが終了する」というときに,ボス戦前なのに「撤退」ボタンを押すっていう選択ですからね?(笑)

「艦隊これくしょん -艦これ-」はいかにして生み出されたのか。その思想から今後のアップデートまで,角川ゲームスの田中謙介氏に語ってもらった - 4Gamer.net


「ああ、面白いですね。つまりゲームの艦これだと、道中で大破したから『撤退』を押したって再チャレンジができるけど、現実の戦争だとチャンスは一回きりだと」


 そう、ゲーム版『艦これ』では『何度も再攻略できる』というシステムによって、『進撃』よりも轟沈回避のための『撤退』が最優先されるように作られているんだ。
 田中Pが言うようなサービス終了直前……終了30分前とかね、それでも大破進撃*4は躊躇する、という人は多いんじゃないかな。



 この『ボス到達前に大破したら即、撤退ボタンを押す』というルーチン作業は、『艦これ』というゲームのユニークな側面だし、大破撤退を選ぶごとに、『われわれは本当の戦争とは違う遊びをしてるんだな』という事実を噛み締められたらいいんだと思う。


「言い訳がましい『転進』でもなく、素直に『撤退』と言うのも潔いですね。撤退は恥じゃないんだという」


 そこで、仮想戦記的な『史実の克服』はチートみたいなものじゃないか? という話に戻ってみよう。
 この『轟沈しそうになったら絶対に撤退しなければならない』、しかも『轟沈の危険性は事前に判明する』という要素を加えた戦争は、果たして現実の戦争よりもイージーだと言えるだろうか?


「ううん……? リセットして再挑戦、てのができない条件ならキツいですよね。轟沈を避けるというより、『大破させられた時点で撤退確定』ってことですから。一隻でも大破したらもうアウト、という負け条件が加わってしまう」


 そうなんだ。『艦これ』における戦争は、『犠牲の可能性を完全排除して攻略せよ』という、厳しいハードモードが大前提になっている。
 回天桜花といった特攻兵器を、運営のみならず艦娘自身も毛嫌いしているのはその端的な表現だね。
 意図的な『轟沈戦法』も戦術として可能とされているが、そうしたプレイはユーザー間において非常に忌み嫌われている。


「だんだん理解してきましたけど、つまりアニメ版『艦これ』で欠けてるのってそこの表現なんですね? その……如月轟沈の後の演出が……という」


 だと思うんだ。
 如月轟沈の後で、視聴者の間では非難轟々のみならず、賛否両論もあったんだけど。むしろ見逃せないのは擁護側の主張だったろう。
 擁護したい側*5の意見によると、『死が日常的な戦争においては、味方の死が軽く扱われるのはそれはそれでリアルなんでは?』という解釈をすれば納得できるよ、というロジックになっていた。
 だがそれは、『艦これ』の基本コンセプトから最大限にかけ離れた擁護だというのは明白だろう。


「大事なフネのコレクションをバンバン轟沈させてでも続けるのが戦争なんだ! ということですからね」


 百歩譲って、艦娘がそういう死に急いだ価値観を抱いているのはいいだろう。『死ぬまで戦わせろよ』と血気盛んなことを言う、天龍みたいなフネも実際にいるからね。



 ただし、天龍のようなボイスにしたって、プレイヤー(提督)がその考えに反発を覚えるようゲームデザインされているわけだ。イヤ、お前を絶対に死なせるものか、バカを言うなと提督は考える。
 そして艦娘たちへの責任が自分にのしかかる。『ほおっておけば死に急ぎそうな子たちだ』と思えるんだからね。


 では、アニメ版の提督はどうだったろう? ……というと、致命的なことに何も語らないんだな。キャラクターとして登場させられないから。
 言伝ての形で秘書艦(長門)が代弁するシーンはあるが、『二度とこんなことは起こさない』『絶対に繰り返させない』といった悔恨を伝えるということもないし、ストーリー上の行動でもそんなことを考えている素振りはない。


「まぁゲーム版の提督にしたって、誰でも一度は轟沈を体験すると思うんですよ。それで轟沈システムの詳細を学習して、『二度とこんな思いはまっぴらだ』と誓うことに意味があるという……」


 そうだね。アニメ版のスタッフは、田中Pともども『轟沈する回は必要でしょう』と判断したそうなのだけど、それはゲームのプレイ体験との同期性を狙ったからだろう。
 ただし演出として、轟沈後の感情の処理が、ユーザーのプレイ体験とは逆方向になってしまっていた。さっき挙げたような擁護の意見が、かえってアニメ版の方向性をよく言い表している。


 本来なら、如月の轟沈回から提督の戦略スキーマは瞬時に切り替わっているべきなんだ。むしろ、そうしたほうが新たなジレンマを物語にできる。
 自分が沈んででも勝たなければならない! と想っている艦娘たちに対して、提督は『絶対にそれは許さない』という命令を徹底させなければならないんだからね。


 さらに、アニメの世界はゲームじゃないから『再攻略(リトライ)』のチャンスがない。
 史実でも惨敗に終わったミッドウェー海戦をですね、作戦成功を狙いつつ、なおかつ犠牲を一隻も出さない、という前提のもと、ワンチャンスのみで達成しなければならなくなる。
 これはゲーム版『艦これ』をよく遊んでいる人ほど、針の穴を通すように難しいオーダーであることは理解できるはずだ。


「ああ。ゲームでも攻略情報をネットで下調べしながら出撃したからって、そうそう一発クリアとはならないですからね。『また大破撤退か……』『また羅針盤が逸れた……これはキツいぞ……』ってなる」


 『史実の克服ではない』ということを伝えるなら、この、クリア条件の落差を作るべきだったと考えられるんだ。
 チート情報やif要素で勝つだけの話なら、まぁ予定調和でなんとかなりそうだと思えてしまう。


「合理的に対策を講じて勝つよりも、『一隻でも轟沈しそうになったら終了』という縛りを強調していた方が、よっぽどミッドウェー海戦の無理ゲー感は伝えやすそうですよね。『史実だと空母4隻・重巡1隻も喪失してたのかよ』ってのは、ちょっと興味があればすぐ調べられますし」


 もっと言うと、太平洋戦争のシロウトから見れば『史実の敗北をアニメではどう回避したのか?』っていう戦術レベルの差なんて理解できないしね。
 ロジックを組んで勝つだけだと、なんとなくみんな頑張って、力を合わせたら死線を乗り越えたんだな、くらいにしか映らない気もする。


 ……というのが私が最近、よく人に聞かれていた『艦これ』アニメの話なんだ。
 つまり、一隻も失わせない、大破したら即撤退するんだという、絶対条件を与えてアニメの最終決戦を描く。『それは無理ゲーだろう』とわかる形でね。
 そして、大鳳が間に合ってギリギリ勝つ。これも『ありえない話だろうそれは』という展開なんだ。ゲームなら、史実の起工順も無視して高性能なフネを揃えてから決戦に臨むことが可能だけど、現実はそうでないからね。
 ゲームやアニメだから、犠牲を出さずに戦争できてるんだ。


 現実では、犠牲を出さない戦争なんてありえないし、兵器を犠牲にしたくないなら、平和利用か抑止利用の途(みち)しかない。そして艦娘たちも、未来で――『いつか静かな海で』――そんな存在になれることを望みながら生きる。


 こうすれば『過去を忘れない』『史実の克服ではなく』『未来を変えていく』という、田中Pが本来見たかったアニメ版のストーリーに近付けられるんじゃないか、と説明していたんだ。


「それは……、そういうアニメなら、見てみたかったですね。『艦これ』のコンセプトを込めていたっていう、主題歌の歌詞にも合う気がしますし。EDテーマの、こことか」

強く 強く 想い紡いで
繋ぐよ その手を
感じて 明日(あした)を
静かな優しい海へ きっと届け
君へと届け


TVアニメ『艦隊これくしょん -艦これ-』エンディングテーマ「吹雪」TVアニメ『艦隊これくしょん -艦これ-』エンディングテーマ「吹雪」
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吹雪 西沢幸奏 - 歌詞タイム


「『静かな優しい海へ、君へと届け』っていうのは、『今』の視聴者たちに『私たち艦娘の、明日への想い』が届け、という意味になるのかな……。でも、田中Pがアニメをそういう風にできなかったのは何故なのか、というのが気になりますね」


 そこは結局よくわからないところなんだ。先述したように、本人に明確なビジョンがなかったせいかもしれないし、『大きな集団制作』ゆえの抗えない干渉や、ビジョンの伝えづらさがあったせいかもしれない。
 それこそ田中Pが、アニメ制作バージョンの『海上護衛参謀の回想』を、詳細に語ってくれるまでは闇の中の話……ですね。

*1:戦艦としてではなく、イージス艦のような性能を欲する場面

*2:ちなみに「響」→「ひびき」は読みが同じだけで由来は異なったりはする

*3:『艦これ』の艦娘の名前をもっと受け継げるくらいに

*4:ゲームの『艦これ』においては、「大破」した艦が生じた戦闘の後、「進撃」を選択すると、以後の戦闘においてその大破した艦の轟沈フラグが立つというシステムになっている。逆に言えば、「大破進撃」さえ選択しない状態であれば、「あらゆるダメージを受けようが絶対に轟沈することがない」安全性が保証されている

*5:批判側に反論したい側

泉信行 早稲田大学のワークショップと『ユリイカ』掲載のお知らせ

早稲田大学「イメージ文化史」ワークショップに登壇のお知らせ

 今月の23日(金)に、早稲田大学の鈴木雅雄教授に招かれまして、「イメージ文化史」ワークショップの第7回に登壇することになりました。
 口頭で漫画表現論を発表できるという機会を活かしてなるべく「文字媒体では伝わりづらいこと」、原稿などで伝えられること以上の情報も込めて話すことができればと思っています。
 関心のある方はぜひお越しください。

早稲田大学総合人文科学研究センター研究部門「イメージ文化史」主催 2015年度 ワークショップ

「マンガ、あるいは「見る」ことの近代」第7回

日時 2015年10月23日(金)18:00〜20:00
場所 早稲田大学戸山キャンパス33号館3階第1会議室

泉信行(マンガ研究者)
漫画を「見る」という現象
―人間とメディウムを中心としてー


お問合せ先:総合人文科学研究センター研究部門「イメージ文化史」 imagebunkashi@list.waseda.jp

ユリイカ』2015年10月号「特集*マンガ実写映画の世界」掲載のお知らせ

 8月は「細田守総特集」と「男の娘特集」への寄稿がたまたま連続していたのですが、そう間をおかずにこの特集号にも掲載がありました。
 泉信行「虚構の命の作り方―漫画表現論の先端から」で目次を探してみてください。


ユリイカ 2015年10月号 特集=マンガ実写映画の世界 -『るろうに剣心』から『進撃の巨人』『バクマン。』『俺物語!!』へユリイカ 2015年10月号 特集=マンガ実写映画の世界 -『るろうに剣心』から『進撃の巨人』『バクマン。』『俺物語!!』へ
大友啓史 大根仁 河合勇人 本郷奏多

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 特集のテーマ(「マンガ」と「マンガ原作実写映画」)に合わせた原稿の内容は編集さんと相談して決めたのですが、漫画研究者サイドからの寄稿ということで割りきって、思い切り「漫画表現論」として書いています。


 「漫画表現論の先端から」という副題に偽りなく、泉信行、岩下朋世、三輪健太朗という(若手に入る)研究者の成果を紹介しつつ、さらに米国の研究家であるスコット・マクラウドによる先行研究を深めた内容になっています。



 漫画論に関心のある人はぜひ一読を! という感じですね。
 しかし内容を詰め込みすぎないように、字数を調整する過程で入れ損ねてしまったのですが、伊藤剛さんの論考「マンガのふたつの顔」にも言及しておくとよかったと後で思いました。


日本2.0 思想地図β vol.3日本2.0 思想地図β vol.3
東 浩紀 村上 隆 津田 大介 高橋 源一郎 梅原 猛 椹木 野衣 常岡 浩介 志倉 千代丸 福嶋 麻衣子 市川 真人 楠 正憲 境 真良 白田 秀彰 西田 亮介 藤村 龍至 千葉 雅也 伊藤 剛 新津保 建秀

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 拙稿では「漫画の絵柄」についての分析を主にしているのですが、そこでは「同じ作品内での絵柄の描き分け(使い分け)」についての言及が薄めだったんですね。
 文中(脚注含む)では「キャラクターごとの絵柄の使い分け」や「視点(主観)ごとの使い分け」に触れていましたし、引用しているマクラウドの『マンガ学』でも「シーン(視点)ごとの使い分け」を分析に含めているのですから、そこはもう少し強調してもよい要素でした。


 改めてまとめておくと、漫画の絵柄というものは「作品ごとの使い分け」「キャラクターごとの使い分け」「シーン(視点)ごとの使い分け」があり、さらに伊藤剛の論を踏まえれば「同じキャラクターのパーツごとにも使い分けられる」と付け加えられるでしょう。
 体全体のボディラインは写実的だが、「髪型」や「顔の各パーツ」はマンガ的な特徴のあるディティール(大きく輝いた目に小さな目鼻など)で描かれる、というようにですね。


 さらに他の執筆陣の原稿を読ませていただいて反省したことがもうひとつ。岩下朋世さんが「マンガ実写映画」を「マンガの実写化」「マンガから生まれた映画」に峻別することを提案しているのですが、これは泉の原稿にとっても肝心な論点だったと思います。そちらも併せて読んでいただくといいかと。
 そこを意識していれば「漫画にとっての実像とは何か」というテーマについてもっと立体的に考えることができたはず。
 これについてはまた別の機会に分析を深められれば、と感じたところです。

同性/異性をめぐる恋愛表現と、「気持ちがわかる」という視点

美術手帖 2014年 12月号美術手帖 2014年 12月号
美術手帖編集部

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 去年発売され、好評だった『美術手帖』のボーイズラブ特集ですが、泉も漫画研究のサイドから、特集ページの一番最後に論考を載せていただいていました。

『美術手帖』2014年12月号のボーイズラブ特集に「恋の心のシミュレート―同/異性をめぐるキャラクターの表現」を寄稿しました - ピアノ・ファイア


 編集部からのオーダーには、泉が『漫画をめくる冒険』で展開していたようなメディア表現論を用いることが含まれていました。
 それを受けて、最初に考えたコンセプトも「BL論」というよりも「メディア論を主にしつつBLを分析対象に入れる論」だったものです。


 具体的には、草稿段階での序文にあたるのが、以下のような書き出しでした(一部の記述は、掲載版と重なります)。

恋愛ものの普遍性

 BL(ボーイズラブ)とは、どう表現され、どう読まれるのか。本論はそれをテーマにしています。
 そこで注意したいのは、BLそれ自体を特権視することなく、広い意味での恋愛表現のひとつとして捉えたいということです。
 マイノリティの性の物語を取り扱ううえで、「それを特権視しない」ことが、将来的な公正さにも繋がるだろうと思えるからです。
 ですから、多くのラブコメラブロマンスの一部として、同性同士の恋愛がどう表現され読まれるかを論じようとしています。
 純粋な「BL論」というよりも、どちらかというと、多岐の性別の組み合わせをひっくるめた、広義の恋愛/性愛の表現を分析した上で、その中でBLを特徴付けていくことが望ましいでしょう。
 本当なら多くの恋愛と同じように描かれ、多くの恋愛と同じように読まれ、論じられたらいい──。BLの特権視を避けるとしたら、そんな主張も込めることになるでしょうか。


 お察しいただけるかもしれませんが、「BL専門」の腐女子ではなく、いわば「雑食」を名乗るタイプの腐女子にもBLは読まれているのだ、という状況を含めて考えられています。


 ただし紙幅の限界というのがありまして、大部分を削った上で、BLについて触れた部分を膨らませて残す、という結果になりました。
 ですが、BL論を切り口に、実際はもっと広く展開できる視点論/メディア論を想定していたので、その大きく削った部分もいずれ公開した方がいいだろうと考え、以下から改稿バージョンを掲載してみたいと思います。

性による読まれ方

 BL作品の多くは女性客を想定し、女性によって描かれます。そこから、BLは「女性文化」のひとつとして捉えることができるでしょう。
 そこではどうしても「女性が思う男性」を描くことになり、その女性性をもってジャンルの特徴とすることもできます。実際、男性向けのゲイポルノはBLと区別しなければ話が混乱してしまう……、とは多くの人が感じるのではないでしょうか。


 つまりBLは、先述したような「多岐の性別の組み合わせ」の一種として語り終えることもできず、女性によって描かれ女性に読まれるという、文化背景にこそジャンルの特徴があるようです。
 それを広げて言えば、「どの性がどの性に向けて描き、どの性に読まれるか」は、あらゆる恋愛表現においても無視できない問題だということでもあります。


 さらに「読者(受け手)」というものは、「想定読者」と「実際の読者」に分ける必要があります。
 少女漫画やBLを読むのが好きな男性もいれば、男性向けポルノを進んで楽しむ女性もいるのが受け手の実態ですから。
 それは当たり前のような話ですし、個々に述べるよりも一覧にして並べて見てみましょう。
 これらは、当然のように発生することでありながら、普段は深く意識されにくい観点ではないでしょうか。

  • カップリングの性別の組み合わせ
    • 男×男 BL
    • 女×女 GL
    • 男×女 その他
  • ※ここでの男と女は、主に「生物学的性」でいう男女を指す
  • 「作者・想定読者・実際の読者」の組み合わせ
    • 男→男→男 男性向けと男性客
    • 男→男⇒女 男性向けと女性客
  • ※少年漫画、成人向けコミックほか
    • 女→男→男 女性作家の男性向けと男性客
    • 女→男⇒女 女性作家の男性向けと女性客
  • ※同上
    • 女→女→女 女性向けと女性客
    • 女→女⇒男 女性向けと男性客
  • ※少女漫画、TL、BLほか
    • 男→女→女 男性作家の女性向けと女性客
    • 男→女⇒男 男性作家の女性向けと男性客
  • ※少女漫画での例は希少だが、少女アニメや女性向けゲームなど
    • 男→両→両 男性作家の両性向けと両性の客
    • 女→両→両 女性作家の両性向けと両性の客
  • ※一般ラブコメの他、GLもここに入りやすい


 「⇒」の矢印は想定されていない受け手に作品が届くことを表しますが、その「想定されていない」ということを、受け手側が自覚しているケースや、無自覚なケースがあります。


 ご覧のとおり、作者と受け手の組み合わせは、カップリングの組み合わせより多様で複雑です。
 さらにここでいう「男女」とは、もちろん本人のセクシュアリティでさらに細かく分けられることになるでしょう。

恋の心のシミュレート

 そこで「恋心のシミュレート」という視点から考えてみましょう。


 もっともシンプルな理解がたやすいのは、同性愛者が同性の同性愛を同性の同性愛者に向けて描く、という表現です。
 『美術手帖』でも取材されていた、田亀源五郎さんのゲイコミックなどが分かりやすいでしょうか。その表現が自然に行われ自然に読まれうるだろうということは、特に難しく考えなくても想像しやすいと思います。
 逆に言えば、このシンプルさの中に「異性の受け手」や「異性の異性愛」が交じるごとに多層な読みが増していくことでしょう。*1


 なぜなら、恋愛ドラマの多くは、カップルとなる二人組双方の内面を表現しようとするものだから。
 特に漫画は、二人以上のキャラクターの内面を同時に描きやすいメディアであって、複数のモノローグや心理描写が同時進行することが珍しくありません。
 そこでもし異性同士のカップルを登場させたならば、「片方のキャラクターの心理描写は作者や受け手の性と異なる」という状況が必ず発生するでしょう。


 一般に、恋愛ドラマは「自分と同性のキャラクターに観客は感情移入する」と思われがちです。しかし本当にそういうものでしょうか?
 異性に感じる恋心というものは、ただ客観的に「この子は可愛い、私は好きだ」と想いを向けるだけでなく、「これは私のこと好きなのかな?」と相手の内面が伝わってくることからも始まるのですし、性愛にしても「気持ち良さそうだ」「痛そうだ」「恥ずかしがっている」などといった共感作用が働かなければ深い関係に達しにくいものです。
 特にポルノ作品では、「異性が感じているだろう気持ちよさ」はとても重要なファクターで、異性が気持ちよさそうだから、受け手の私も気持ちよさを感じる、という構造が欠かせません。

表現する作品、表象する受け手

 ですから、物語を読む際の「理解」や「共感」を、ごく単純に「キャラの気持ちがわかる」という心の働きとして捉えておくのがいいでしょう。
 その働きは「自己の投影」や「感情の移入」とは逆方向の、「心の模倣」を意味しています。自分をキャラの中に投げ込むのではなく、(理解できる範囲で)キャラの情動を自分の中で作り出す機能が私たちにはあります。


 おおよそ「キャラの気持ちがわかる」という共感は恋愛もの全般で不可欠な要素ですし、人が他人の気持ちを理解する場合には、必ず心の中で模倣(エミュレート)が行われています。
 そして、受け手の心がなければ「キャラの心」の実体など、どこにも存在しなくなるのが、表現としてのキャラクターなのですから。


 例えば「AはBのことが気になる」という恋愛表現がされたとき、その「気になる」という感情や情動はどこに発生するのでしょう?
 漫画や小説の二次元内に「情動の実体」があるはずもなく、読者の心身がその情動のシミュレーターになっているはず。
 そして重要なのは、その恋心の模倣は「自分自身がBを好きになる」必要もなければ、「キャラになりきる」必要もない、ということ。
 それは自己投影を意味していません。が、逆に完全な客観視と言い切ることもできないのです。


 『ドラえもん』のひみつ道具に「おすそわけガム」という、他人の味覚をわけてもらえるアイテムがあります。
 美味しそうな食事を描くグルメ漫画などでも、食べられないけど美味しそうだ、と味覚をわけてもらいながら私たちは読むわけです。傷口をぱっくり開いて血を滲ませている人を見れば「いたた」と思うように、ひみつ道具がなくても私たちは他者の感覚を模倣するように出来ています。


 だから「女性」が「男性」の恋愛を描くBL作品が、「女性にとって客観的」かと言えばそんなことはなく、多くは少女漫画のように、内面や心理に踏み込む演出に重きが置かれるものです。
 そこで異性が見せる心理や感覚を、「おすそわけ」で感じないことにはドラマの深みも楽しめないはずです。

飛躍した性の魅力

 女性文化であるBLは、作者や受け手にとって「飛躍した性」を表現しながら発展してきました。飛躍に大小はあれど、「気持ちがわかる」という共感にこそ魅力の根拠があったのも確かでしょう。
 そして、自分とは異なる人間について共感し、またそれが同じ人間でもあると気付くという体験は、どのような物語にも通じる魅力であるはずです。


 ただし、その貴重な体験は「異性になる」「異性に自己投影する」などといった単純な自己同一化(self-identify)を意味しません。これは注意深く強調しなければならないポイントです。


 ですが「気持ちがわかる」以上、心の一部が、自らの性から飛躍する体験を得ているのも確かなはずです。
 ぜひ、そのことによく注意して、「物語を読むという体験」について振り返りながら考えてみてください。きっと多くの視点に気付けることだと思います。

*1:事実、『美術手帖』の取材を受けた田亀先生は、「ゲイではない読者の方が物語を深読みして理解しようとした感想を送ってくる」というような体験を語っていました。

【お知らせ】『ユリイカ』の「細田守」特集と「男の娘」特集に寄稿しました

 久しぶりのブログ更新が告知になってすみません。


 今発売中の『ユリイカ』増刊号、細田守」特集細田守論を寄稿している他、今月27日発売の9月号、「男の娘」特集にも寄稿が続いています。
 もし興味が湧きましたら、泉信行の記事をチェックしてあげてください。


ユリイカ 2015年9月臨時増刊号 総特集◎細田守の世界-『時をかける少女』『サマーウォーズ』『おおかみこどもの雨と雪』から『バケモノの子』へユリイカ 2015年9月臨時増刊号 総特集◎細田守の世界-『時をかける少女』『サマーウォーズ』『おおかみこどもの雨と雪』から『バケモノの子』へ
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 細田守論の方は、細田監督の作家性と「キッズアニメ」を繋げて見ていくような内容で、「男の娘」論の方は、セクシュアリティの表現としてどんな見られ方と読まれ方がありうるのか、それの何が魅力なのかという話を展開しています。

少年漫画のエディプスと『ジョジョリオン』のエディプス

2015年6月20日

NHKでやってる『100分de名著』が今、『オイディプス王』の3回目になるんですが、期待通りに面白かったです。オイディプス王のことを何も知らなかったという、伊集院光の反応が面白い」


 漫画もアニメも好きな47歳の大人が、ふしぎと『オイディプス王』は名前も聞いたことがなかったという話ね。


「前回までは、『探偵役が追ってる真犯人を観客は知っているというのは、ミステリとして斬新ですよね!』とか言って、それは『刑事コロンボ』とかで使われている倒叙ミステリですよとツッコまれていたのはご愛嬌でしたけど」


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 その勢いだと伊集院は、エディプス・コンプレックスの起源が『オイディプス王』だと知った時も驚くのではないか? って期待してたんだっけ。


「そう、今回がエディプス・コンプレックスの説明回だったわけですが、その時の伊集院解釈がヒートしててすごく面白い。吸収力と反射力がはんぱないですね。『それって、親から見れば子殺されになりますよね?』と別視点へ瞬時に切り替えながら、『子殺されから逃げたライオス王よりも星一徹の方が偉かった』と、一気に梶原一騎的エディプスの話に繋げていく。この即応力がすばらしい」


 一徹は殺されにくるどころか、息子を殺しにくるから。それが偉いかどうかは別として……。


「梶原読者にしてみれば、梶原の漫画といえば露骨にエディプス・コンプレックスのある面が論じられてきたわけですから。そこへ一足飛びで辿り着く頭の回転の速さはやはり鋭いですね」


 確かに。『100分de名著』における伊集院光は、『教養はまったくないけど頭がいい人』という、この手の教養番組の聞き手として理想的なタレントで、まさに『地頭がいい』を地でいくような人ですね。スタッフもよくぞ抜擢したものだと思うけど、特に過去回では『ハムレット』の回にその鋭さが現れていた。


「主人公視点で解釈してしまうシーンを、悪役の心理から読み解いて、講師すらも唸らせる新解釈を打ち出した、という逸話を残した回ですね」


 そうした『多視点』への切り替えの鋭さは、今回のライオス王の話でもよく活かされている……。
 ところで今やってる『100分de名著』は、『オイディプス王』が後世の物語の原型として、いかに優れているかという観点から言葉を尽くしたものだ。
 さきほどの倒叙ミステリの話もそうだし、エディプス(父殺し)の物語にしてもそう。『自分探し』のテーマだって含まれている。


 そして『オイディプス王』は、エディプス・ストーリーや自分探しの『原型』であるがゆえに、暴力的なまでのアンハッピーエンドを私たちに提示している。
 そんな濃縮された原液を、いかにアレンジして、『いい話』に持っていくかが、後世や現代の作家の工夫だと言ってもいいはずだ。


 そう考えてみると、伊集院が『オイディプス王』から『巨人の星』を連想したように、少年漫画にとって『梶原的エディプス』は避けて通れないテーマではないか……、と再考する意味もあるかもしれない。


 だから例えば、ジョジョ読者にとっても難解な『ジョジョリオン』にしたって、
『父殺しは成立しないが、自分探しは存在するオイディプス王
と解釈するのは、意外と理解への近道……王道となるのかもしれない。
 『自分探しを解決すること自体が悲劇を招く』なんてオイディプス王的な展開は、いかにも今の『ジョジョリオン』で起こりそうな話だしね。


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 そして『父殺しが成立しない』という問題から考えていくと、逆にヒントが掴めるような気がする。
 『ジョースター家の血統』について描いてきたジョジョシリーズにおいて、その血統がここまでぼやかされていること自体がテーマに繋がるのではないか、と。


「ああ、梶原一騎好きな荒木先生の作品から、改めて『梶原的エディプス』のテーマを読み解くというのは面白そうですね?」


 じゃあちょっと分析を始めようか。
 少年漫画のエディプスには多くの表現パターンがある。
 ひとつは『巨人の星』の一徹のように、父親と息子が対決する王道パターン。
 次に『父性を探し求めたのち、その不在を克服する』という、『あしたのジョー』や他の梶原作品に多いパターンだ。


 前提としてだが、梶原一騎の時代ではすでに、『父殺し』が困難な時代に突入していた。倒すべき父性を見出せなかったり、仮に父性との出会いがあったとしても大山倍達のように遠すぎて倒しようのない存在だったりする苦悩が梶原漫画では繰り返される。


 梶原以降の作品であるジョジョでも、この『不在の克服』パターンをずっと続けているんだ。
 付け加えるに、6部までのジョジョシリーズは『血の継承』がテーマでもあるため、親と子の正義は共通しており、直接に敵対することは避けられてきた。
 初めに実の父殺し、義理の父殺しに手を染めるのは『悪』のキャラクター、ディオ・ブランドーだった。
 主人公であるジョナサンもジョセフも、父親を殺害され、父殺しが不能になったところから戦いが始まる。
 ジョナサンは師という第二の父もやはり殺され、ジョセフや承太郎、仗助は父不在の中、母親を守るために戦う。
 不在の父親の代わりに、『母を脅かす強敵を倒す』ことが自立への通過儀礼になっている感じかな。


「仗助の父親はジョセフだから、一応存命だったんですけどね」


 仗助の父親は、肩を貸して支えてあげるような老爺であって、人生の先輩ではあるが、もう乗り越えるとか乗り越えないの仲ではなくなるよね。
 仗助はまだ未成年だから、普通なら父親はもっと若いんだろうけど……。現代だと、若者のモラトリアム期間が長期化することで『若者が自立する頃には父親が老いてしまっている』という問題が生じやすく、先に触れた『父殺しの困難さ』に繋がるわけだが、仗助とジョセフの場合、それが極端な年齢差によって如実に現れた関係だとも言えるかな。


 さておき、第3部はDIOがジョナサンの肉体を乗っ取っているということで、その戦いが『ジョースター家の子孫による復讐』だけでなく、『果たせなかった父殺し』の疑似達成にもなっているのが面白い。
 本来は避けられていた父性との対決が、DIOを通じて行われている、とも捉えられるわけだ。


「なるほど。そういえばジョセフにとってのDIOって、実の父親の間接的な仇でもあるんでしたっけ? でもDIOに対しては『お爺ちゃんの肉体を奪ったやつ』という意識の方が強そうでしたね」


 さすがにジョセフの家庭環境からすると、あくまで『間接的に殺害』でしかなかった父親との因縁は、本人もあまり意識しないんじゃないかな……。
 あと承太郎の父親も家庭を放り出してるっぽいからか、父親が存命してようが承太郎はまったく気にする素振りがなかったね。


「夫が不在のせいか、息子にべったりなホリィさんとの仲は、別の意味でエディプスっぽいかな……? さらにそのホリィを溺愛しているジョセフは、承太郎からするとライバルになるんですかね」


 そうだなあ。それとDIOは、『ジョセフの祖父』の肉体を奪っただけでなく、『承太郎の祖父』ジョセフの血液を奪う存在でもあるんだ。
 承太郎がそのジョセフの血液について、『貸した』ものは『返して』もらうぜ……、と貸し借りにこだわった言い方をしたのは今思うと興味深い。


「なるほど? ジョセフの魂との別れで感情を激しく揺さぶられ、ジョセフの血でパワーアップしたDIOを打ち破り、さらにジョセフを自らの手で蘇生させ、それまで伏線もなかったくだらないジョークを交わしてなごむというくだりは、物語のクライマックスでついに『ジジイ』とのエディプス関係が解消されたという風にも読めるんですかね」


 荒木先生はそんなこと意図してなかったと思うけど、あのオチに何かスッキリしたものを感じるとしたら、そんな理由もあるかもしれないね。
 この『父性を貸し付けたあとで取り戻す』という構造は、こういうさりげない形で描かれると意外とスッと受け入れられる、うまい手なのかもしれないな……?
 最初ジョセフとは、あくまで『いきなりお爺ちゃんと言われてもなあ』という距離感だったわけだしね。ホリィを挟んで『アンタより俺の方が大事に思ってるんだぜ』くらいのカワイイことは承太郎も感じてたかもしれない。


 そして第4部以降の話だが、乗り越えるべき父性が不在のままだと、憧れの理想を父性の代わりに求めることになるようだ。
 しかし仗助にとっての憧れのリーゼント男は不在で、ジョルノにとって憧れだった『謎のマフィアのボス』もやはり不在の位置に隠れてしまう。


「第5部はあのマフィアのボスが黒幕だろう、なんて予想をみんなしていましたけど、今日のこの話の流れだと、逆にそういう対決にならないあたりが現代的なんでしょうか」


 そうかもしれない? 第4部も第5部も、親子の対立はラスボス(川尻やディアボロ)の親子関係に預けられていくんだよね。
 第4部だと、父親を殺そうとしてできなかった虹村兄弟とか、息子に始末されてしまう吉良父とか、ジョースター家以外の親子関係は思ったより殺伐としている……。


 続いて、第6部のジョジョは女性だけど、徐倫もやはり父親を喪ってしまう。ちなみに承太郎が家庭放棄気味だったのは、彼自身が『父親』をよく知らずに育ってしまったからなんだろう。
 そして徐倫と承太郎の間には確執こそあったものの、心を受け継ぐという点では、対立ではなく『ジョースターの血の継承』がきちんと行われていたと言える。


「第6部は、父親を奪われてから取り戻す、そして敵に殺される……というパターンになってて今までの集大成っぽいですね」


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 そして一巡後の世界……第7部においては、ジョニィは父親に見捨てられているが、どちらかというジョニィのトラウマになっているのは兄のニコラスの不在だった。
 父親は立派な大人ではあっても、調教師とジョッキーで職業も違うし、ジョニィが心で争っていたのは『不在の兄』の方だったはずだ。だから、父性の代わりというよりは兄貴分に近い存在としてジャイロが現れ、ジョニィを導く師の役になっている。


「ああ、第1部のツェペリさんよりジャイロが若いのはそういう意味もあるのか」


 生きている父親よりも、死んじゃった兄の方が後悔を引きずるだろうから。
 兄に生きててほしかったという感情が、後に『ジャイロが生きててほしい』という感情にも重なっていく。第1部のジョナサンが父性を二度失う代わりに、ジョニィは兄貴分を二度失うことで自立していくんだ。


 第7部で面白いのは、ヴァレンタイン大統領の方が『父親の心を受け継ぐ立派な息子』としてジョニィと対比されている点だろう。
 悪役を正義であるかのように描くというのも第7部のコンセプトだったが、一巡後の世界においてジョースター家の血統は特権性を失い、むしろヴァレンタインの父の方が『短命の運命を持った立派な父親』のように美化されているわけだ。
 その後、ジョニィは自分を応援しにきてくれた父親を見て兄へのコンプレックスを解消させるが、父親の出番はそれだけで終わったりする。


「あのお父さんってなんか人柄を信用できないというか、『あの後でレース失格になったジョニィをまた見捨てるんじゃね?』と想像していた読者がいたのも面白いんですけど、実際ジョニィもサラッと親離れしてますよね。レース後に挨拶もせずヨーロッパへ出掛けてそうだし」


 では第8部の『ジョジョリオン』はどうだろうか?
 親探し(家系図調査)と、自分探しの物語であるのは確かだから、『倒叙ミステリじゃないオイディプス王』という読みはけっこう悪くないと思うんだ。
 そこに家父長制の東方家、母性を表す広瀬やホリィなど、エディプスを象徴するパーツは集まっているものの、まだ組み方がわからないジグソーパズルみたいな感触かな……。それにしても難解だ……。


「ところでさっき気付いたことなんですけど、DIO化したジョナサンが孫たちに倒されるというのは、第4部で川尻父が川尻息子に追い詰められるという構図で繰り返されてますよね」


 ああ、確かに。悪役に乗っ取られる父性というモチーフか。


「だからやっぱり、川尻息子やボーイ・II・マンの話は第4部で突出して熱いというか、王道のエディプスに近いというか」


 ボーイ・II・マンに対しては、岸辺露伴に『まるで劇画』って梶原を意識したようなことを言わせているくらいだからね。大人に歯向かうことで自己形成ができていくという、古めかしいビルドゥングスロマンがそこにある。


 私は、そのボーイ・II・マンのテーマは第7部の『マンダム』(リンゴォ・ロードアゲイン)まで繋がっているから好きなんだ。
 でもこのふたつの違いは、たぶんリンゴォも最初は『大人を倒して強くなる』みたいに思ってたのが、自分が大人になったときに困ってしまい、倒す価値のある相手の基準として『漆黒の殺意』とかよくわからない理屈をひねり出し、エディプスと関係のない『男の世界』を作り上げたところにあるんじゃないだろうか。


「その話、リンゴォの狂いっぷりが強まってていいですね」


 リンゴォの言う『昔の男の世界ははっきりしててよかったが今はそれが難しくなった』というのも、あれは『自分が若い頃は大人を倒せばよかったからはっきりしてたが、自分が大人になると何をすればいいのかわからなくなった』という単純な加齢の話だと思えば、急に面白さとクレイジーさが増すぞ、いいな。


「やはりリンゴォは良キャラですよ。そんな屈折をしてたやつが、同じくエディプスに悩むジャイロを決定的に変えるきっかけになったというのも想像すると熱いです」


 ジャイロの話に戻ったところで、ツェペリ家の親子の話も復習しておこう。
 まず、第2部ツェペリ家のシーザーは、父との葛藤から喪失を経て、父を否定するのではなくツェペリ魂を継承する。こちらはジョースター家の血統と似た関係だ。
 第7部ツェペリ家のジャイロも、父との確執を経験しているが、それを解消することはなく、ジョニィの師となることで生を全うする……。このジャイロでやったエディプスのかわし方が特に面白いかな?
 これまでのジョジョでは、エディプスのない人間関係において、男が成長するために仲間や強敵との友情――ブロマンス(Bromance)的な『男の世界』の戦いがうまく用いられてきたと言える。


 だが第8部『ジョジョリオン』では、女の子や女装ショタの方が定助と親しくしてるくらいで、『男の世界』は奪われている。
 というよりも、吉良とのブロマンス関係すらも『喪ったもの』として描かれている、のか……?


「あ、それは連載ネタバレの話ですよね」


 そう、今の連載の話なんだけど、『吉良』と『空条』の関係が、『今までのジョジョなら当然ありえたはずの』ブロマンス関係かもしれないと仮定し、それが『喪われた』状態に主人公が置かれている……、という読みはかなり面白いんじゃないかな。


「その吉良の代わりに与えられてるのが、あの東方家の奇妙な男たちなのか……」


 それにしても『ジョジョリオン』は、たぶんこんな風に、『何があるか』よりも『何が喪われているか』から考えてみた方が、ジョジョシリーズとして読むには楽しめるのかもしれない。


 あと、第7部から通して感じるのは、『ジョースター家の黄金の血統』が意味を持たなくなった(=徐倫ジョジョではなくなってしまう)一巡後の世界においては、『ジョースターの血統を受け継ぐ』こと自体がもはや祝福となりえないのではないか、ということだ。


 親からの継承を断念し、むしろ継承自体が自立の邪魔にもなるかもしれないと覚悟することが、一巡後の世界のテーマになっている、と言うこともできるかな……?


 荒木先生も元々は、第1部から第3部までの構想について『先祖のしたことが子孫に襲ってくる恐怖』を描きたいと語っていたが、それはジョースター家に因縁をつけたDIOが悪者だという話でもあって、短命の宿命こそあれ『ジョースターの血統』は黄金の道とされていたわけだ。
 しかし『ジョジョリオン』では、その血統を『呪い』のようなものとして位置付けているらしい。
 この『血統の恐怖』と『血統の呪い』って、微妙に意味が違うんじゃないかな、と。


「それはぼくも、最初聞いたときに『おや?』と感じたところでしたね。主人公、つまり正義の味方の血統なのに、呪いなんだ?っていう」


 いや、私はどちらかというと、一巡後の世界のジョースター家は『正義』の立場を失って、相対化されていたと考えていたんだ。普通の家系になったんだろうなと。
 でも今日思ったのは、ジョースターの血統が無効化され、単に力を失った世界なのではなく、血統の支配力は残されているということかもしれない。
 つまり正義を失い、しかし血統の力だけは存続しているそれをかわして自立することが、『一巡後の世界』の課題になっているのではということだ。


「ははあ。少年漫画でよく言う、主人公の親の血筋が、みたいないちゃもん話がありますけど、それへのカウンターは『平凡な普通の生まれ』という設定ではなく、『親や先祖がろくでもなくてあまりいいことがない』でもいいのだ、ってことかもしれないですね」


 そうだね。親の七光りが強すぎると子の人生は苦労する、というのが普通なのだろうし。
 そのように、必ずしも『血統』を肯定的に描かなくてもいい、否定してもいいという考え方の変化は、きっとイーストウッド映画……『グラン・トリノ』あたりかな、そちらの影響も荒木先生の中では強いんだろうな。


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「エディプスをどうかわしていくか、というのが現代の作家の工夫になっている、という話もそこに繋がるんでしょうね。世代間の葛藤……つまりエディプス・ストーリーだけでなく、周囲の関係性の中から自立を目指していくような話は、気持ちがよさそうですね」


 じゃあ次は、『カレイドスター』や『アイカツ!』などにかけて、少女アニメの世界にも梶原的スポ根のエディプスが存続していたのに対して、『アイカツ!』があかりジェネレーションに入って以降、世代間の戦いをほぼ抜きにして『女の子の自立するロールモデル』を描き続けているのが面白い、という話をしたいかな。


「少年漫画の次は女児アニメですか。いいですね、ではまた」


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