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 移行後のはてなブログ:izumino’s note

あるプロジェクトにおける「代案」のアンフェア

2015年1月中旬

 最近、思うにですね。『代案を出せ』、という言葉には納得がしにくい……いや、フェアではないと感じるんです。


「なんでまた。そりゃあ、なんだか言い返しにくい言葉ではあるけど」


 そこですよ。言い返しにくいと感じるのはなぜか、と。


「ハードルの高い要求ではあるからか? ぼくなら、できれば相手の手の内を全て知った上で代案を用意したいところだ。しかし、あるプロジェクトを批判したい側というのはそんな立場では当然ないだろう。だから代案を要求するなら、情報の公開が必要であり、情報を抱え込むのはフェアではない、というところかな?」


 いや、その程度は両者納得済みで進められるべきだし、問題はその不平等ではない。情報が足りないとしても、代案はいくらでも考えることができます。色々なパターンをね。しかし、あたかも、代案は一個だけでも出せば話を聞いてやらなくもないぞ、という態度を取られるわけです。これは納得がいかない。


「一個じゃダメですか」


 ダメですね。それには理由があって、そもそも代案を必要としている、批判が殺到しているようなプロジェクトになっている時点で、先方さんはあらゆる代案を否定してきているはずなんです。
 その上で、どうも批判に耳を傾ける様子がない。そういう時です。代案を出せ、と言ってくるのは。
 なぜ彼らが批判に耳を傾けないのか。そして、仮に代案を出されたとしても跳ね返す自信に満ちているのか。
 それは彼らがすでに、数々の代案を退けてきた先に立っているからです。それはそれは、もつれにもつれたプロジェクトだったかもしれない。議論は当然内部でも行われている。
 あれでもない、これでもない、と取捨選択を行い、かろうじて出た結論を出した上で作戦は進行している。


「そうかな? ダメな作戦だと思われているなら、きっと考えなしにやってるんだろう、戦略を練るブレーンもいないし、議論もしてない、熟慮が足りないのであろう、とそう思いそうなものだけど」


 たぶん逆なんです。おそらくは、代案を弾くことに慣れてしまった集団の方が厄介なんですよ。
 彼らはただプロジェクトに関わる情報をアーカイブしているだけでなく、議論の経験もしっかり蓄えている。つまり、結果的に残ったアイディアと、却下されるためのアイディア……つまり代案とを競わせてきた経験だ。
 しかし議論というものは、すればするほど何が正しいのかわからなくなっていく。というより、何が正しいのかわからなくなるような議論の仕方がある、ということですかね。


「しばしば聞く話だね」


 そうした議論の過程で何が育まれるか、ということですよ。
 代案には、却下する理由が必要になってくる。手持ちの情報をフルに動員して、代案をそれぞれ却下していかなければアイディアは競えない。あれこれ理由をつけてノーと言うわけです。


「その却下するための技術が、議論するほど磨かれていくということか」


 そうです。慣れっこになってしまうんですよ。それが、何が正しいのかわからなくなっていく原因でもあると思う。
 それでも結論は出さなければいけないし、なんとか納得できる答えをひとつ選び出す。それは、幾筋ものシミュレーションを乗り越えて残った結論だ。
 その背後には屍山血河の代案が転がっている。その経験もしっかり情報として蓄えるわけです。逆に、こういうことが自信に繋がる。


「正解がわからなくなってるのに、自信がつくのか?」


 そこが人間というもののコクがある部分だと思いますが……。で、だ。だから彼らにとって、代案何するものぞという心持ちになる。またか、なんですよ。知ってるわー、となる。
 その倒し方知ってるわ、却下してきたわと。


「うーん、それで話を聞かなくなる、というのはわからなくもないが、フェアでない、というのは何故なんだ。単に頑迷になるという話でもなさそうだが」


 あ、その話でしたね。ええと、つまり代案というものを個別に撃退すればいいものだと思われては困る……ということです。


「いや、撃退すればいいと思っているとはかぎらないだろう。本当に建設的な意見を求めているかもしれないから」


 そうかもしれません。でも、そこは重要ではないと思う。
 それまでの議論でも、代案の却下は手段であり、目的ではなかったはずですから。ただ、却下の仕方が上手くなってそれに慣れていくだけで。


「なるほど? 頭で考えていることと、行動パターンが乖離していくわけか。正解はわからないが自信はつく、という先程のパラドックスにも繋がるね」


 却下することに自信を持ち、その理由を探す技術を鍛えており、さらに情報も抱え込んでいる相手に、代案など恰好のエサと言うべきです。ただの的ですよ。まったく呵責を覚えずに撃ち落とすことができるだろう……。


 じゃあどうすればいいかというと、とにかく代案がひとつではダメだ。一言理由をつけるだけで退けることができる。
 その案にはこれが足りないとか、そこをこうすると別の問題が、とかね。それは情報を持つ側からすれば一定正しいんでしょう。
 だが、そもそも現行のアイディアにも問題がある以上、フェアではない。
 代案の中に問題を発見することで、自らの問題から目を背ける助けにしかならない。


 もっとそもそもを言えば、問題なんてあるのが当然だと知りながら、とても完璧とは言い難い現行のプロジェクトをしぶしぶ通し、批判を集めているのではないのか、と。
 だったら、最低でも2個以上は代案を用意させてほしい。ひとつは無難な案。もうひとつはリスクを覚悟した案だ。
 前者には無難すぎると言うだろうし、後者なら目に見えるリスクに噛み付くことができるだろう。だが、どちらがマシかは考えることができる。批判する側は最初から、どちらがよりマシなのかを問うているのだから。
 よく考えてみろ、もっと比べてみろと言ってるんだ。そこを一言の問題点で済まされては困るんです。


「しかしまぁ、そこまでやられると相手にとっても面倒だろう」


 そう。だからそもそも、代案を出せという言葉で批判を撹乱するべきではない、と思いますね。まず問題があるならそれを分析し、どう解決すべきなのか、今後の対策は可能なのかを考えればいいんですよ。


「すると、代案を出すこと自体、非効率なんだということになるかな」


 そうとも言えると思います。あまり相手の立場で……、というよりは同じ方向を向いて考えさせことには向いていない手法だと思う。
 いや、同じ方向を向くように、目線を揃えていく議論には向いていないというところでしょうか。


「なるほど。同じ方向ではなく、互いの顔を見合わせるようになってしまう。サン=テクジュペリの言葉だな。愛するということは、お互いに顔を見合うことではなく、一緒に同じ方向を見ることだ……、だ」


 やり方にもよるはずですが、何かのプロジェクトにおいても、それは言えることなんじゃないか、と思いますね。

「艦これ」「刀剣乱舞」「しんけん!!」におけるキャラクター×プレイヤーの関係性

6月上旬

「実はちょっと前、とうとう『刀剣乱舞』にログインできましてね。たまたまアクセスしてみたら、新規サーバーが開放されてまして。それで陸奥国サーバーに」


 私はしばらくログインしてないな……。代わりに『しんけん!!』に時間を充てています。新しいものは一応仕入れておこうかなと。
 ほら、元SKE48の秦佐和子さんがハマってて、開発者と対談までしたゲームだよ。君はしゃわこさん好きだったろ。


「しゃわこの声のキャラが追加されたらぼくも始めようかな」


 『艦これ』も続けてはいるけど……。DMMの、キャラクターコレクションを目的としたソーシャルゲームブラウザゲームは他にも沢山あるわけだが、じゃあ今回はこの3作の違いについて考えてみようか。


「艦これと刀剣乱舞はUIやゲームシステムで類似があり、刀剣乱舞としんけん!は『日本刀』というコンセプトの男女逆バージョンという共通の話題性がある。面白そうですね」

 まず思うに、これらは一般に『擬人化キャラ』の文化として捉えられがちだが、実は一概にそうとも言えないんだ。
 中でも『しんけん!!』については開発者へのインタビュー記事で、取材する側もされる側も『刀の擬人化ではない』という意見で一致している。普通に遊んでいても『美少女化された刀を愛でるゲーム』かと思いきや、『全然そういうのじゃないな』とわかる内容になっている。


「刀の擬人化じゃない? じゃあこの獅子王とか、へし切り長谷部から名前を取った子たちはなんなんです」


 ゲーム内で『真剣少女』と呼ばれているその子たちは、『刀に魅入られて選ばれた、元は普通の女の子』ということになっている。
 どう説明したらいいかな……。例えば、『聖闘士星矢』のアンドロメダ瞬は、『アンドロメダ座の擬人化キャラ』ではないでしょう?
 アンドロメダの聖衣を装着する資格を持って生まれ、たまたま聖衣を受け継ぐと『アンドロメダ瞬』と呼ばれるようになる。
 なんだか女の子っぽい見た目をしているから『アンドロメダ座の特徴を表現したキャラクター』ではあるだろうが、キャラクターの人格はあくまで人間の側にあって、星座にはない。


「刀の話だし、『風魔の小次郎』の小次郎が風林火山の所有者になったら、名前が『風林火山ちゃん』になるようなものですかね」


 そっちの例えは通じない人が多そうだが……。
 そして、いわゆるインテリジェンス・ソード(知恵持つ剣)の類でもないようだ。
 真剣少女の人格は、刀が持つ『いわれ』に影響を受けて変化するが、その刀が魔剣・妖刀のような代物ではあっても、刀自身が喋ったり考えたりするような様子は今のところない。


「『BLEACH』の死神の刀みたいに、精神世界で『刀の人間体』と対話するわけでもないと」


 たぶんね。
 じゃあ次に、『擬人化』というのは何なのかをそもそも考えてみましょう。
 あいまいな概念ではあるが、私の考えとしては『見立て』が擬人化の根本にあると思う。古典的な擬人化というと、多神教の神がそうだ。太陽を人間に見立てて太陽神としたり、死を人格化して死神とする。
 そして寓話があるね。『北風と太陽』なんて典型的だ。北風と太陽が会話しているというお芝居にして、絵に描くと、太陽や雲にユーモラスな顔をつけてキャラクター化させる。
 ここでポイントなのは、こうした神話・寓話における擬人化とは、お話の中では人間に擬していても、その話の裏には『実際の自然の姿』が存在しているということだ。


「太陽が昇ったり沈んだりする理由を、太陽神の物語に預けて説明するとしても、実際に目にする太陽が人間の形をしているとは思わないってことですね」


 そうそう。
 『北風と太陽』もそうで、物語の読み手は『目と口のある雲や太陽』が旅人に息を吹きつけたり、気合を入れて暖かくしたりするようすを思い浮かべるが、旅人にとってはリアルな気象現象でしかない。
 むしろ、旅人にも擬人化が認識できてしまうと、成立しないお話になっている。自分が、あの連中からゲームのコマにされているんだと気付いてしまうからね。



「食育に使われる『喋る野菜』とか、『焼き肉屋の宣伝をする牛』のキャラクターなんかも、実際に食べるものとは区別しないと食えなくなりますしね」


 風刺画もそうだね。
 だから『風雲児たち』のみなもと太郎先生が、漫画の中で『艦これ』パロディをやったとき、『ワタシが知ってる軍艦の擬人化といえばこういうのでした』と言って描いた例が、まさに『北風と太陽』的な、軍艦に表情を加え、軍艦同士で言い合いをしているような風刺漫画になっていた。
 ここでも、顔のついた軍艦が実際の海を航行しているとは見ていて思わない。


「『機関車トーマス』みたいに、本当にあんな形の乗り物があるんだ、という話なら、確かに列車の擬人化というより、元からその形をしたキャラクターである、と考えるでしょうね」


 デザインの原点は擬人化だったかもしれないが、結果的にオリジナルなキャラクターになっていくんだと思う。
 太陽神などの神々が、『天界の神殿』みたいな異空間で、人間の姿のまま生活したり恋愛したりしていれば、やはり擬人化とは言いにくいキャラクターになっていくだろう。


「太陽そのものの擬人化から、『太陽を司る神』なんて設定へとランクアップしていくわけか」


 そういう意味で、日本の『擬人化キャラクター』の文化も、元々はイラストの分野で『◯◯を女の子にしてみた』という一枚絵の表現がメインだったはずだ。
 しかしそれをゲームに出そうとなると、それなりの設定が必要になってくる。


 特に、かわいい女の子に描いている以上、生身の肉体を持っており、ちょっとえっちなこともしたいと考えるだろうし、現物こそがその実体であり、キャラクターの絵はそのシンボルにすぎない……みたいな企画にはなりにくいはずだ。


「なるほど。それでいうと『刀剣乱舞』は『刀の付喪神を召喚した』みたいな設定にちゃんとなってますね」


 『付喪神』って、なんだか一周して戻ったような感じだけど、強引に分類すれば妖怪の一種になるわけでしょう、刀剣男士って。
 元は妖怪も『怪現象の擬人化』だったものが、水木しげる先生などの絵描きの力で、あたかも実体を持ったキャラクターへと成長していったものが多いから。


「まぁ付喪神だとしても、刀剣男士はちょっと独特ですけどね。人間体の方がかなり人間っぽいのと……肝心の刀がレプリカにすぎないってとこかなあ?」


 そこは遊んでみて意外に感じるところでしたね。



 実は『鍛刀』というコマンドで作成する刀剣男士は、思いっきりその場で鍛冶師が制作していて、和泉守やら同田貫やらの実物ではないんだ。
 ユーザー側では、『レプリカを触媒にして付喪神を召喚している』といった解釈もなされているようだが、せっかくなんだし『散逸した名刀を探索して見つけ出す』というUIにしてもよかった気がするんだ……。


「そうですね。まぁ神道的な世界観ですから、『レプリカを使って神様に降りていただく』なんてのは、呪術的にむしろ正しいのでは? って逆に思ったりもしますけど」


 依り代とか、分祠の考え方だとすればそうかもね。
 でも、実際に武器としても振るうわけだから、本物でもよかったのになあ。


「骨董品でしかも貴重品だから、ホンモノだと使いにくいとか……?」


 付喪神化してるから、呪術的アプローチで全盛期の切れ味を取り戻したり、折れたって再生できたりしても構わないと思うんだけどね。
 紛失してたり実在してなかったりする刀にしても、伝奇小説のスタイルで『実は存在していた』ことにしてしまえばよい……。


 一方、その刀剣乱舞のUIの元になった艦これだと、『依り代』で済ませても別に構わない。
 なぜなら、軍艦はすでに解体・消失したものが日本刀よりも遥かに多く、しかも『地球と少し似た異世界』を舞台にしているのが艦これだからだ。


「そこって刀剣乱舞とは細かく違うところですよね。刀剣乱舞は数百年後の未来の地球だと明言される一方、艦これは何の説明もなく状況証拠しかない」


 状況証拠しかないから、『艦これは遥か未来の地球が舞台なのだ』派の解釈も強く否定できないけどね。
 ともかく、艦これのUIでは、小さな妖精さんが軍艦の模型みたいなものを『建造』すると、それが艦娘に生まれ変わる、という想像を誘うようになっている。



 そして開発者が言うには『艦船の魂や記憶』がキーワードらしく、実体としての『船体』は重要視されていない。


「刀の形やサイズは実物と変わらない刀剣乱舞と、形からして実物からまるっきり様変わりする艦これの違いですね」


 あと、艦娘は『私はどこどこの海で沈んだままで……』みたいなことも言ってもおかしくはない。
 ロストしていた戦艦武蔵の発見をみんなで祝ったりね。
 つまり『死後、転生した人間』には『前世の遺体』が別に存在しているようなものであって、だから艦娘とは、『艦船の魂の転生体』とでも捉えておくのが素直かな。


「転生というと、死んじゃったペットを弔ったあとで、美少女に生まれ変わったペットがご主人様の元にやってくる……みたいな話ですかね」


 そこで話を戻すけど、そうした『生まれ変わり』も擬人化とはあまり呼ばないと思うんだ。
 童話や昔話の、変身譚・転生譚で考えた方が近いと思う。



「なるほど、そこまで考えたことはなかったな」


 ただし、艦これには『史実で艦これ』というジャンルがあって、在りし日の艦船の生涯を、艦娘の絵で解説するという手法が広まっている。
 準公式では、『止まり木の鎮守府』というコミカライズのコラムページがそうだった。



 さっきの流れで言った『船の生涯』という言葉自体、モノを擬人化して見ているわけだけど……。
 『見立て』を使っている点で、この手法はみなもと太郎先生が例示した風刺漫画のやり方に近い。


 だから艦娘というのは、ゲーム内にかぎれば『擬人化とは言えない』のだが……、『ユーザーに擬人化を提供する』存在である、とは言えるかもしれない。


「なるほど? ゲームの中で『赤城さん』を愛でるだけなら擬人化ではないかもしれないが、史実の方の空母赤城を『赤城さん』として扱い、解説する行為は擬人化だと」


 細かく言うと、そうなる。
 細かいと言えば細かい問題だが、かといって擬人化という曖昧なフレーズが、正確でもない意味で使われていると、気になってしまうのは私の性分だな……。


「そう思うと、ガチな擬人化ゲームってほとんどないのかもしれませんね。これはスマホのアプリゲームなんですが、『妖刀 あらしとふぶき』という刀の美少女化ゲームでも、『刀の精霊』という設定ですから」


 そういう意味では、美少女(女体)化、男体化などと言った方が、あけすけではあるが正当な表現になるのかもね。


「ところでですね、刀剣男士は『実物サイズの刀を持った男』であり、艦娘は『娘自身がフネ』である、という違いから考えていたこともあるんですよ」


 ほう、聞きましょうか。


「艦これを先に始めていたから思うことかもしれませんが、キャラクターとプレイヤーの関係性についてですね。艦これでは、提督と艦娘です。刀剣乱舞では審神者と刀剣男士。一見、呼び名を変えただけのようで、実はけっこう違いがある」


 審神者というのは、さっき言った『付喪神を召喚する』役のことですね。


「そう、問題なのは、提督は艦娘を『集め』『運用して』いきながら、使用する側/使用される側という関係性を、実際の司令官と艦船の関係になぞらえられる一方で、刀剣男士は、刀剣男士が自分で自分?を持つじゃないですか」


 刀を持って戦うのは刀剣男士本人だから……。なるほど? 武器を『使う』者、つまり剣術使いの立場にならないんだね、刀剣乱舞のプレイヤーは。
 刀剣男士の出撃中も、審神者は自宅待機してて戦わない設定みたいだしね。


「そうです。ちなみにさっき挙げた『あらしとふぶき』は、プレイヤー・キャラクター(主人公)を剣士に設定した例ですね。だから『刀の精霊』が主人公に宿って、主人公の剣術が強化される、みたいな演出がされている。ジョジョのスタンドみたいな感じですね」


「そして刀剣乱舞では、『刀剣男士を召喚し、維持する者』である審神者と、『刀剣たちの主』である審神者の役割が二重になっていると言える。設定上は、審神者の役割なんて、艦これで言えば工廠の妖精さんが担っている建造・メンテナンスの領分にすぎなくて、提督のような上司の役割は『審神者』という称号とは別物のはずだ」


 提督が艦娘の建造・維持に妖精さんの手を借りているように、刀剣乱舞も『審神者の手を借りて刀剣を集めている』別のキャラクターを立てていてもおかしくはないということですか。
 しかし実装されたゲームにおいては、提督にあたる役回りも審神者1名に統合されている、ということになる。


「そういうところを気にしながら刀剣乱舞をプレイしていたんですが、ようやく分かってきたことがあって、このゲームは刀剣の『所有者』を、まさしく『所有者』として割り切って描いている。事実、秀吉やら家康やらの権力者の手を渡った刀で……といった『いわれ』を各武器が持つわけですが、お宝として所持していた武将なり大名なりが、その武器で人を斬っている必要はない。そして、その時その時の『所有者』は、ちゃんと刀剣たちから『主人』と認識されていたことが、セリフからは窺える」


 宗三左文字とかそんな性格ですね。『あなたも天下人の象徴を侍らせたいのですか……?』ってやつ。ただ所有しているだけでステータスにされたというね。


「刀剣たちは、純粋に『持ち主』というだけでも主人との関係を結び、それを自らのアイデンティティとしている。面白いのは、むろん刀の中には『武器として使われる』ことにアイデンティティを抱くやつもいて、そいつらからすると『所有されているだけの刀』は『置物』にすぎないという認識をするらしい」


 にっかり青江や、同田貫がよく言うやつですね、『置物の連中』『美術品』って。
 『刀は戦に出てこそだよ』『刀に何を求めてるんだろうな。俺たちは武器なんだから、強いのでいいんだよ』と。


「その、同田貫のセリフがかなり面白いところで、プレイヤーの心理としては、『確かに言う通りだな』と同意したい部分もあるじゃないですか。武器なんだから、そりゃあ強ければいいんだよって。でもどうも、同田貫から見た審神者は、そうじゃないらしい。放置してるとですね、『おいおい、あんたも刀を美術品かなんかと勘違いしてるクチかよ』と文句を言ってくる」


 私はそんなこと思ってないよ、って言いたいところよね。


「ところが、このセリフ自体が刀剣乱舞のゲームシステムを言い表していると言える……。つまり、剣士ではない審神者は、『コレクター』と『コレクション』という関係性でしか、刀剣との主従関係を結ぶことができない、という前提でこれらのセリフがある。戦に出ていない間の刀剣男士たちは、審神者に『飾られている』のであって、審神者も飾ってある刀剣を鑑賞している、という関係になる。そこで、置物勢と武器勢では思うことが違ってくるし、さらに『かっこよくて強い』……美術品としても実用品としても価値を求める刀などは、独自のプライドを抱くようになる」


「『プレイヤーは刀剣男士を振るうことができない』という設定上の制約があることを逆手にとって、ちゃんとその設定に合った関係性を描こうとしているのだな……と、少し理解できてきました」


 なるほど。
 言われてみれば、同田貫審神者がかける言葉にしても、『確かに私はあなたを飾って楽しんでるけど、それは無骨な美しさが好きだからであって、あなたは自分で思ってる以上に美しいのよ』とでもフォローするのが思い浮かぶものね。
 逆に、『私があなたを振るってあげるから一緒に斬りにいきましょう』、とかは言えない設定になっている。
 戦闘もオート進行だから、審神者は戦いへの関与が少なく、自分の判断で戦うこともできる刀剣たちの自主性に任せている。


「そう、審神者の立場としては、刀剣とのそういう関わり方が推奨されているんじゃないかな、と。その点、しんけん!はどうなんです?」


 しんけん!はね、さっき審神者が『刀剣の召喚者』と『刀剣の持ち主』で役割が二重になっている……と指摘されていたけど、そのズレがもっと深刻に広い感じなんだ。


 とりあえず公式アカウントが、プレイヤーにどう呼びかけているのかを見てみるといい。



「『刀匠の皆様』……? これが提督とか、審神者にあたる用語になっているわけですか」


 そう、しんけん!では、プレイヤーが『刀匠』になるところからゲームは始まる。ちなみにこのゲームも刀剣乱舞同様、鍛刀して作成するのは『名刀のレプリカ』という設定だ。
 刀にはそうとうの思い入れのあるスタッフが作っているという触れ込みなのだが、その割にプレイヤーの役割が『レプリカ(写し)作り』というのはちょっとやり甲斐がないのではないか? という気もしてくるんだけど……。
 ともかく、ゲームとしてはプレイヤーに『刀匠』の仕事を追体験させるように作られており、鍛治場を中心とした町作りや、鍛治に必要な林業や鉄の採掘なども、実際の刀鍛治がやっていることとして、ゲーム内で再現しているそうだ。


「ふーむ」



 その極め付けが、マウスをクリックして一発ずつ焼けた鉄を打つという『鍛刀』のシステムだ……。これを何百、何千回と打ちつづけることで、刀匠の気分を味わってほしいということらしい。


「聞くだにとんでもないシステムですね」


 なお、雇いの鍛治師に頼んで代わりに打ってもらうこともできる。
 というか、大抵は代わりに打ってもらうことになる。


「そのシステムの存在によって、逆にプレイヤーは刀鍛冶の仕事をやらなくなるのか……」


 問題はここからなのだけど、刀匠は『刀鍛冶の町の長』でもあるから、『お館様』と呼ばれることが多い。
 刀を作成することで、それに魅入られたという女の子たちが、人類の敵に抗う戦力として集まってくるのだが、実はさっきも説明した通り、その『真剣少女』たちは刀そのものではない。
 元はそのへんにいる女の子たちらしい。


「なんか魔力のある刀をたくさん作って、それを民間人にバラまいて、部下にしていくような感じですか」


 そう、『部下』という表現をしたけど、少女たちはプレイヤーを『お館様』『先生』などと呼び、町の管理や、館での主人の世話もやらされてることになっている。
 ここで疑問が……特にさっき聞いた刀剣乱舞の話と比較しても思うのだけど、刀匠は『武器の作り手』でしかなく、武器を与えた女の子たちの『主人』になれるのかというと、それはどうだろう?という疑念が湧いてくる。


 しんけん!のメインシステムは、ラインディフェンス・アクションゲームでもあるから、刀匠の役割以外にも『真剣少女を指揮して敵をやっつける』という役割があるのだが、艦これや刀剣乱舞のようにオート戦闘ではないから、プレイヤーが『一部隊の指揮者』として命令している感覚ははるかに強い。
 そこで『刀匠って部隊を率いるものだったっけ?』という疑問も浮かんでくるわけだ。


「刀匠にして剣の達人でもある、もしくは剣の達人にして刀も自分で作れる、というキャラクターはフィクションでもよく見ますし、自然に受け入れやすいと思いますけど、確かに武将みたいなことする刀鍛冶ってふつうイメージしないですね」


 そうなんだ。『もののけ姫』のエボシ御前のように、タタラ集団の長でもあり、傭兵も率いる戦術家、という領主キャラなら分かる気もする。


 そして『刀』とではなく、『刀を与えた女の子』と直接関係を結ばないといけない設定上、さっきの審神者のように『刀のコレクター』という立場でかわすこともできない。
 結果、しんけん!のゲーム内では、刀を作る『刀匠』と、女の子を従える領主の『お館様』が、プレイヤーの中で二分されていることになるんだ。


「しかし改めて『刀匠の皆様』と聞くと、なんか突飛な語感がするな。なんでだろ?」


 それはたぶん、プレイヤーを『匠』扱いしてるから、かな……?
 むろん、プレイヤーを将官として扱う艦これや、神職として扱う刀剣乱舞も、『自分は士官学校を出たわけでも、神事ができるわけでもなく……』と思わなくはないだろうが、艦これのプレイヤーのすることは、ネットで攻略法を調べながら最適化を模索し、編成・改装・出撃のコマンドを選択することにすぎず、『提督として指示を出す』内容はゲーム内で完結している。
 ゲーム内において完結した提督の仕事を、現に最適化できているのだから、誰でも艦これの提督になれると考えてもいい。


「『俺タワー』の『オヤカタ』呼称もそっちですね。プレイヤーは自分で動かず、指示しかしないから、建設技術を持たなくても親方として仕事できる」


 逆に、審神者の役割はフレーバーに過ぎず、刀剣男士を集める能力がある、という設定の理由付けでしかない。審神者が具体的に何をする人かは、プレイヤーが知る必要もないんだ。


 でも『刀匠』はどうだろう? 提督やオヤカタと違って『指示する』だけで済む役ではないし、何千回と鉄を叩く気があるならともかく、なかなかプレイヤーの自覚は『刀匠』と一致しない気がする……。
 よくある職人SLGだと、『見習い』から始まって『徒弟』『マイスター』『職人の鬼』『神業の匠』などと称号をランクアップさせていくけど、あれはこうした不一致を埋めていく作業なのかもしれないな。


「ふむ……。しんけん!の開発者インタビューってWebで読めるだけでも、すでにかなりの量があるんですね。『ふつうの女の子に武器を与えて戦わせる』という陰のある設定は、けっこう残酷さを狙ってしてることなんだな」


 しんけん!は擬人化ではない代わりに、『刀を使うということ』の象徴化にポイントを当てているようですね。
 凶器である刀に魅入られ、取り憑かれるということを『ふつうの女の子が真剣少女になってしまう』ことで象徴させたいみたい。


「それと『闇堕ち』設定が好きなんですね、この人たち。真剣少女が闇堕ちすると妖刀少女に変化するとか。なるほど」


 そのあたりは刀剣乱舞と大きく差別化できて、よかったのかもしれない。


「企画や開発はだいたい同時期だったそうですから、結果的には差別化されてるんですね。面白いな……」


 じゃあ今度は、このみっつのゲームにおいて、資源の種類と資源消費のバランスがどう設計されているのか、という違いの話をしましょうか。どうかな。


「ええ、また」

アイディアはストックが尽きてから本番/『ジョジョの奇妙な冒険』第3部エジプト編

 先日、友達とご飯食べながら


ジョジョのスタンドの着想は、もともとは既存の超能力描写の視覚化であって、だから初期はテレキネシス(念動)やパイロキネシス(発火能力)や念写など超能力そのものをスタンド化したものが多かったが、意外とテレポート(瞬間移動)がなかった」


……という話をしていたのですが、アニメ第36話(「ホル・ホースボインゴ その1」)でDIOが瞬間移動っぽい動きをしていたシーンを視聴し、「あぁ、そういえばこの時点ではザ・ワールドをテレポート能力にする腹案もあったのかなあ?」と思わなくもありませんでした。


 ネタを知っている読者からすれば、この回の瞬間移動や、ポルナレフの階段下がりなどは「テレポート能力だと勘違いさせるミスリードとして認識されそうですが、これ作者自身もいつの時点からザ・ワールドの能力をアレに確定させたのか、よく分からないんですよね。
 実際、「ザ・ワールド=テレポート能力」というつもりで描いていた時期もあったのかも……。


 ちなみに先述したジョジョのスタンドの着想は、もともとは既存の超能力描写の視覚化だった」という前提は、『JoJo6251』掲載の荒木飛呂彦インタビューなどで参照できます。
 こうした自己言及から考えると、超能力としてのテレポーテーションをスタンド化しよう、という発想が出てくるのも自然な成り行きだったはずです。

「スタンド」とか「波紋」の発想の原点にあるのは、いわゆる「超能力」というものに対する疑問からなんです。その存在自体は半信半疑なんだけど「念じるだけでものが動く」ってのが、なんか卑怯な感じがするんですよ。UFOでも幽霊でもそうだけど「見た」って言うだけじゃなくて、嘘でもいいから証拠を見せてくれ、と…。裏づけというか説得力というか、そういうものが欲しかったんです。「ムッ」と念じるだけで物がバーンと割れるんじゃなくて、他人には見えないんだけど実際に何かが出てきて、そいつが物を割ってくれる、みたいな。だからスタンドは、超能力を説明するための手段、エセ説得力なんですよ(笑)。
(『JoJo6251』p166)

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 ここで想定されている「ムッと念じるだけで物がバーンと割れる」という描写は、名前こそ出てきませんが大友克洋童夢』などの超能力表現を指しているのでしょう。


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 『童夢』の連載が1980年から1981年。ジョジョ第3部の構想をしていたはずの第2部連載時期が1987年から1989年です。
 なお、『童夢』は逆に、「超能力を見えない力として描いた」表現力こそが評価される作品でした。オーラや稲妻みたいな攻撃をしなかった点が「超能力マンガ」として新しかったわけですが、荒木飛呂彦はさらにもう一捻りがほしいと考えたわけですね。


 参考までに、第3部序盤のスタンドで超能力モチーフらしいものを簡単に列挙してみます。

  • スタープラチナテレキネシス(念動力)
    • 最初はシンプルに「遠くから物を持ってくる能力」で、荒木飛呂彦の「実際に何かが出てきて、そいつが物を割ってくれる、みたいな」というインスピレーションが素直に表現されている
    • スタンド発現初期の「本人の意思と関係なく物を動かす」という点では、ポルターガイスト(騒霊)に近いとも言える。悪霊と呼ばれているし
  • ハーミットパープル:ソートグラフィー(念写)
    • メインの能力は「念写」そのものだが、応用として「ダウジング」のような便利な使われ方もする


 ただし序盤のスタンドでいきなり異様を呈しているのが「ハイエロファントグリーン」と「シルバーチャリオッツ」。
 ハイエロファントは紐状になれるのが「能力」なのか、エネルギー波を放てられるのが能力なのか判然としないし、チャリオッツは剣と甲冑を装備してること以外の「能力」がよくわからない。
 つまり、この時点では「スタンド能力」と呼ばれる「一人一能力のルール」もあまり拘束力がなく、ハイエロファントやチャリオッツは「スタンドの形が決まっていて、形自体が能力となるスタンド」という趣があります。


 能力よりも「形」が優先されているのが、タワー・オブ・グレー、ダークブルームーン、ホウィール・オブ・フォーチュン、ラバーズあたりの敵スタンドで、殺人昆虫、半魚人、殺人自動車、超小型といった形状。
 スタンド攻撃は能力というより、その形を応用して物理攻撃に変えている(フォーチュンのガソリン弾丸など)側面が強い。


 それとは別に、ストレングス、エボニーデビルイエローテンパランス、エンプレスなどは幽霊船(?)、呪いの人形、スライム、人面疽など、ホラー映画のモンスターをそのまま戦わせているようなもので、オカルトやホラーからインスパイアされているという点では「超能力のスタンド化」と通じる発想かもしれません。
 以後のスタンドほどには「いかにもスタンド能力という特殊能力を持っている感じはあまりしなくて、「スタンドを着て戦う」というテンパランスに自由な発想を感じるくらいでしょうか。


 さらにスタンドが増えていくと、「銃のスタンド」エンペラーや、「光のスタンド」ハングドマンあたりが登場し、このあたりから「いかにもスタンド」感が増してくるとは思えないでしょうか。
 特にエンペラーは能力自体はシンプルでも、「まさか武器の形のスタンドでもアリなのか」といった想定外のカッコよさや、ルールの隙間を突くような発想に「スタンドっぽさ」がある気がします。
 太陽型スタンドのサンなども、「何か今までにないスタンドはできないか」という発想の穴からひねり出してきたような感じがして面白い。


 ところで最初の構想では、第3部のスタンドはタロットカードの22体で済ます予定だったことも語られています。それが足りなくなって、エジプト編では「エジプト9栄神」を後から考えるようになったと。

第3部でタロットカードと結びつけたのは、スタンドの個性を作っていきたかったから。タロット22枚分もスタンドが描けると思ったんですが、足りませんでしたね(笑)。第3部開始時でスタンドのアイディアは漠然とだけど15体、
(『JoJo6251』p166)


 そして最後のタロットカード(ザ・ワールドを除く)、ザ・フールもエジプト編から参戦します。
 「砂のスタンド」ザ・フール、「水のスタンド」ゲブ神、「氷のスタンド」ホルス神などは、シンプルかつ、「いかにも能力バトルの能力っぽい」と思わせる魅力があります。
 自然現象を司るという点ではマジシャンズレッドと同系統なのですが、パイロキネシスという超能力がすでに存在するマジシャンズレッドに対し、この3体は少年漫画だから生まれた、漫画らしいアイディアだとは感じませんか。


 ただ、9栄神シリーズの中でもトト神とクヌム神の場合、プレコグニト(予知能力)やモーフィング(変身能力)……と、超能力に置き換えやすい能力になっていました。
 一方でザ・ワールドと並び、ダントツにスタンド能力っぽいと思うのが「磁力のスタンド」バステト神と、「空間を削るスタンド」クリームでしょう。


 ここで「スタンド能力っぽい」と分類している基準は、曖昧っちゃ曖昧なのですが、序盤のタロットカード・シリーズよりも、エジプト9栄神シリーズの方が、後の第4部や第5部で描かれる「スタンド」のイメージに通じているのは確かだと思います。


 そして、9栄神シリーズを乗り越えて、満を持して描かれた「ザ・ワールド」の「能力」は、瞬間移動でもなく「アレ」になる。他のどんなスタンド能力よりも、スタンド能力っぽさを象徴しているようなアレに。


 優れたアイディアの出し方として、このジョジョの実例が興味深いのは、「アイディアはストックが尽きてから、限界を超えて絞りだしたものからが本番」と言われる話をまさに体現しているなあ……と感じる点なんですね。

セクシュアル・マイノリティに「異常」も「治療」もない/『ジャンプSQ.』掲載の漫画について

 今月、「マンガボックス」で連載されていた漫画「境界のないセカイ」の連載中止と、講談社からの出版中止というニュースを巡って、様々な議論が交わされていました。詳細は上記エントリをご参照ください。


 このマンガボックス/講談社の判断が過敏すぎると批判されている一方、対照的に映るのが集英社の『ジャンプSQ.』最新号に掲載された作品です。
 レインボー・アクションが「境界のないセカイ」について、「この作品の性に関する描写に、他の作品と比べて特段の問題があるとは思われません。」と言い切るのに対して、まさに「問題のある描写がある」という指摘を受けています。

だが作者の「意図」しているであろうテーマ性とは裏腹に、結果として本作は《ゲイ治療》の“可能性”を肯定している。

《ゲイ治療》の“可能性”を肯定する「ディストピア」は作者自身の差別意識の反映にすぎない〜きただりょうま『μ&i みゅうあんどあい』(1) - 有限ノ未来 limited future
  • なお、これらの批判がTwitterでなされた後、作者は自身の掲載告知Tweetを削除しているため、批判自体は作者に届いているようです

 自分は、このエントリを先に目にしてから『ジャンプSQ.』4月号を読んだことになります。
 全体を読んでみるまでは話題にもできないと感じていたのですが、やはり実際の描写を確認してみると、細部では「百錬ノ鐵」さんの記事と異なる読み方もできたので、その部分についてだけ言及しておきたいと思います。


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 というのは、作中において「治療」という言葉も出ないし、その言葉が意味するニュアンスもないということです。
 劇中における政府の建前としては「セクシュアル・マイノリティの更生」を謳っていますが、それを実施する手段として準備されているのが「再教育プログラム」と呼ばれるマシーンであって、その機能の説明では「治す」ではなく「作り変える」と呼ばれ……明らかに精神改造を行うマシーンとして読者に見せています。


 つまり「異常から正常へと治す」という治療の文脈はそこにはない。
 そして、公式な発表では「更生」を謳っているのにも関わらず、その実態が精神改造なのですから、(異性愛者の)登場人物たちもすぐにその危険性は感じ取って心理的に反発もしています。


 さらに、同性愛者だろうが異性愛者だろうが、強制的に理性を崩壊させて生殖行為を行わせるマシーンなので、異性愛者にとっても非人道的装置だと捉えられます。
 異性愛者に異性愛をプログラムしても結果的に変化しないのでは? ということもなく、単に「見境なく異性とセックスさせる」という機能なので、自由恋愛(=自由意志)を踏みにじる点では性的指向の区別がないとも言えます。


 であるからして、これはプログラムごと破壊せねば……という次回へのヒキに繋がっていくのですが、構造としては「精神改造なんて非人道的だ」という反発から異性愛者であってもこの精神改造は危険だ」という反発へとシフトし、最後には「異性愛者の立場から再教育プログラムの危険性を訴える」という展開だと言えるでしょう。


 それはつまり、「少数派の気持ちになって反対するよりも、自分たちにとっての危険を考えた方が反対の動機となる」という、非常にエゴイスティックで、乾いた人間観が見て取れるストーリーです。
 単に少数派を思いやって反対します、という一方的善意だけで終始しないのはむしろ妥当な描き方かもしれません。


 しかし、サービスカットに感じられる「お色気シーン」の多さから、この漫画が「ヘテロ男性向け」のエッチなウリのある漫画として、ヘテロセクシュアルな観点と需要から描かれているのは間違いなく、そして「マイノリティに読まれる」という視点が一貫して欠けているのも確かだと思います。
 特に「百錬ノ鐵」さんで指摘されている「Aセクシュアルへの無理解」などは、さも同性愛者に配慮するような「素振り」によって、かえってなおざりにされやすい要素だということは言えるかもしれません。


 以上のような読み取りをした上で、過剰批判にならないよう、適切な批判・指摘が加えられればよいと考えた次第です。

ギーク映画好きが『ベイマックス』を観た結果、アメリカを感じる

 レイトショーでベイマックス観てきました。
 面白かったので、ネタバレなしで感想書いてみます。

まず噂には聞いていたショートの犬映画

 これペットには完全にアカンやつで、犬のアニメーションは超リアルで最高なのに、飼い主の教育に悪すぎる。


 ぼくもネットに繋がっている以上、仕方なくというか、批評アングルとして「グローバルな配慮のバランス感に優れているディズニーすごい、対して日本は……」などという比較やさらにそれに対する反論を先に見てから鑑賞することになってしまったのだけど、この短編アニメを見ると、ディズニーのバランス感がいいのではなく、単に『ベイマックス』のバランス感がたまたま良かっただけに見えて、作品とスタジオは分けて考えた方がいいと言いたい。


 というかむしろ『アナと雪の女王』の時の短編アニメも「ザ・残酷ミッキー大暴れ、容赦しない」って感じであったしディズニーって基本あのノリの持ち主だという気がするぞ。
(短編と長編ではシナリオにかけるリソースの分配がまるで違うように、配慮する割合も短編では異なるということなんだろうけど。)

ベイマックスは懐かしい

 そして『ベイマックス』は、これ感じ方は観る人の映画体験や世代によって変わるんだろうけど、懐かしい感じのアメリカSFX(VFX)映画を今の技術で見せてもらえたという面白さだった。


 ギークと少年が活躍し、ロケットで空を飛び、悪い科学者の計画を阻止して街の英雄になる。
 アメリカ人的なユーモアがあり、オリエンタルなものへの憧れがある。科学は頼もしく、カラテは強い。
 面白いB級映画だ!
 ベイマックスの装甲デザインが洗練されて見えるだけで、そこに日本のロボットアニメ的な味付けは前評判ほど感じなかったというのが実感。


 彼らは『ゴーストバスターズ』のように科学とチームワークの力で驚異に立ち向かう。アメリカ然したギークたちがそこにはいる。

アメリカが日本的な映画を作ってしまった。だから危険だ」

 そういう批評アングルは『パシフィック・リム』の時と同じで、その時は「いやアメリカでも怪獣映画と巨大ロボ映画の歴史は長いし、お話のユーモアもたいがいアメリカ的だったでしょ?」という反論がすぐに出せたと思う。
 のだけど、『ベイマックス』ではそうした反論を見る前に鑑賞したので、やっぱりネットの論調とのギャップを覚えながら観ることになってしまった。

鑑賞前から予告した通り、ここから『RWBY』の宣伝へと自然に移る

 海外CGアニメ『RWBY』にも同種のアングルはあった。


 日本的な可愛くて強い美少女のCGアニメを、海外で作ったやつらがいる。それは実際カワイイ。萌えである。
 海外のオタクはこのくらい日本に「追いついた」のかと、最初はそんな風に書かれることもあった。


 でもトレイラー(4本あるPV)だけでなく、Kickstarter方式で制作が開始された本編アニメを見てしまえば「アメリカ的なエッセンス」こそが本作の魅力なのだと否応なく気付かされる。


 向こうのカートゥーンの積み重ねを感じる、海外アニメーションの魅力があり、キャラクターの身振りや英語のセリフ回し、シナリオ、それこそ人種差別やジェンダーへの独特な距離感など、日本人には思い付かなそうな部分こそが面白い。


 デザインは確かに、日本人にも伝わるKawaiiだし殺陣の美しさは和製の3D格闘ゲームのスタイリッシュさに通じるけども、作品の根幹まで「日本的なものに合わせた」とは感じさせない。


 ツンデレお嬢様もいるし、オタクなスタッフは間違いなくTsundereだと思いながら描いてるんだろうけど、「こんなお嬢様キャラは日本人には思い付かんぞ」という、妙な文化差を覚える白人セレブっぽさがあり、だからこそめちゃ可愛かったりする。


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 余談だが、海外のオタクも二次創作、ファンアートの文化が活発だ。
 RWBYのファンアートではごく自然にYURIカップリング創作が描かれるのだが、そのYURIにしたって「萌えるツボは同じなんだなあ」とシェアできる部分と、独特な海外ノリを発見できる部分がどちらもあって、それ自体が面白い。
 コスプレのクオリティも、あっちの方が本場なのでやはり高い。
 オタク活動こそが日本のアニメ文化の特色だと考えていると、誤解することになる。

ベイマックス』に戻ると

 向こうのクリエイターは昔から相変わらずのスタンスで面白いものを作ろうとしている。
 オリエンタルへの憧れなんて昔からあったし、それが勘違い東洋でもなく洗練されていて、国際的な技術共有もあり、思い通りのクオリティで作ることができたのが『ベイマックス』だ、アメリカ映画の最新バージョンだなと。


 そしてそんなB級映画は、日本的ではなくアメリカ的だからこそ、昔から日本人も惹かれていたはずだ。

B級映画だとは言っているが

 「濃いB級感を期待すると薄い」には同意する。
 自分はそうとは思わずに観たので、ほどよいキッズアドベンチャー映画として楽しめた。
 他には「大長編ドラえもん」だという印象を聞いたけど、それも同感。
 しかし「大長編ドラ」にしてもB級映画とイメージは共通していて、要は『グーニーズ』とか『ミクロキッズ』の面白さ。利口な少年と朴訥なロボの組み合わせといえば、かの『ターミネーター2』のエッセンスだってある。


 洋画好きのF先生にとって、大長編ドラはアメリカ映画のジュブナイル翻案として作られている面が大きい。似たテイストがするのも当然だろう。


 最後に、アニメの感想なのに「VFX映画」という印象で語りたくなるのも表現上ではポイントで、ショートの犬映画がまだカートゥーンテイストを色彩に残しているのに対し、ベイマックスはオブジェクトがみんな写実寄りだからだ。
 これはアナ雪の氷が「絵」ではなく「見た目本物の氷」だったのと同じで、よく言われてることだけど本当にCGアニメと実写+VFXの垣根はないのだなと。


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『ユリイカ』岩明均総特集号の拙稿「その画はどこから生まれているのか」(泉信行)の要旨と概論

 9月には、伊藤剛テヅカ・イズ・デッドが新書化していました。


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 ただし、底本からの加筆修正は最小限のみと聞いていたので、手元に置くのは遅れていたのですが、書き下ろしの「あとがき」は確認しておこうと、先日購読に至りました。
 その「あとがき」では、旧版『テヅカ・イズ・デッド』出版以後からの漫画学/漫画論の進展が主に記されており、特に泉信行・岩下朋世・三輪健太朗の三名の活動を「次世代」の位置に挙げられている印象でした(中でも泉については何度も言及されていて、恐縮です)。


 そして奇しくも、この三名が同時に漫画論を執筆しているのが先日発売されたばかりのユリイカ 2015年1月臨時増刊号 総特集◎岩明均でした。
 各人がそれぞれの漫画論のアップデートや語り直しを行っているような内容でもあり、ただ岩明均の本というだけに留まらず、普遍的に応用可能な漫画論としても参照できる一冊になっているのではないかと思います。
(もちろん、いずれも本題は「岩明均」の作品/作家論であるのですが。)

泉信行「その画はどこから生まれているのか―メディアの本質のための岩明均論」の要旨

 そこで『ユリイカ』を読んだ人が振り返られるように、もしくは未読の人でも内容が理解できるように、拙論の要旨をレジュメ風にまとめたものを残しておきたいと思います。
 詳しい部分については、本誌をご確認ください。【】は原稿の小見出しを表しています。

  • 【序】
    • まずタイムリーな時事ネタとして『寄生獣』のアニメ化を導入に取り上げる
    • 「音」の存在しない漫画では、アニメ化の際に「声」の表現が意識されやすい
    • このメディア的差異から、漫画の表現の逆照射を試みる
    • そこには(ただのメディア比較論ではなく)『寄生獣』がいかに「漫画というメディアの特性」に立脚した作品であるかを確かめる意図がある
  • 【かぎりなく無機質に】
    • 寄生獣 セイの格率』のキャスティングにおいて、ミギーの声優に平野綾を配したことは、意表を突きながらも自然に受け入れられているようだ(筆者の感想も同様)
    • ただし、原作の『寄生獣』を読み返しても平野綾の声で「脳内再生」される……ということはなく、「イメージと近かった」という意味で受け入れていたことにはならない
    • ちなみに本文では触れなかったが、ここでミギーの声だけを特筆した理由はある。現代日本に舞台を移したアニメ版では、絵柄や芝居にアレンジが加わることで、ミギーだけが「原作との見た目の違い」が少なくてキャラクターの同定が行いやすいのに対し、ミギー以外は見た目や雰囲気のレベルで同定の難しさが生じるため、漫画のキャラクターを見ながらアニメの声をイメージしてもナンセンスであるから
    • 「漫画の声のイメージ」というと「主観だろう」の一言で反論されがちである
    • それでも「イメージのされ方」の傾向は分類できる
      • A.まったく声をイメージしない
      • B.具体的ではないがイメージすることがある
      • C.具体的に声をアフレコするようにイメージする
    • この中で「B」が最も行われやすいという指摘も妥当であろう
    • 人間には、聞いたことのない「声」でも頭の中で合成できる機能があり、その機能によって読者は漫画のセリフを読んでいる
    • そして「ミギーの声のイメージ」に共通すると思われるのは「無機質な声」ではないか
    • それは具体的に(声優などを)モデルにできる「人声」というよりも、無味乾燥で、実体のない、いわば「この原稿を黙読する時に使っている(強調部傍点)」声に似た声なのだろう
    • 無機質な声や、「黙読の声」などは人に演じられるだろうか? あるいは可能かもしれないが、『セイの格率』はその「逆」の道を選んだことに注意したい
    • 平野綾によるミギーの声は、田の中勇の名演による『ゲゲゲの鬼太郎』の目玉おやじの声にも準じるが、目玉おやじ水木しげるの原作漫画を読んで田の中勇の声が自然に再生されるかというと、そうでもない点で共通している
    • もちろんここで目玉おやじと並べたのは、形状的な類似点(『寄生獣』の作中でもシンイチによるパロディ発言がある)だけでなく、水木しげるの絵が「枯れたタッチ」を思わせるという点で、絵柄的にも岩明均と通じていることを意識している
    • この差異に「漫画というメディアの本質」も隠れているのではないかと考える
  • 【イメージを阻害する生身】
    • 漫画の読者が「声のイメージ」と口にすること自体が示唆的である
    • 漫画とは、読者のイメージを操るメディアであり、実体のないイメージを伝えることで表現を豊かにしていく
    • 一方でアニメ制作においては、「アニメで生(ナマ)なのは声優の声しかない」という庵野秀明の発言がある
    • その庵野の問題意識で作られたアニメ『彼氏彼女の事情』は、『セイの格率』のキャラクターデザイン/作画監督平松禎史も参加しており、平松も庵野の発言を引用している
    • 「作り物でしかないアニメ」にコンプレックスを感じる庵野は、同時に「声優の声も作り物の絵に合わせた時点で肉体感を失ってしまう」というような限界も告白している(『庵野秀明のフタリシバイ』参照)
    • しかし「漫画」の側から考えてみれば、庵野の言葉は問題発言でもある。「作り物でしかないアニメに生なのは声しかない」というが、漫画にはその声すらない
    • だから「漫画はアニメ以上に生の表現に欠けている」かというと、優れた漫画を読んだときの読者がそのように意識することはないだろう(小説の表現も同様である)
    • むしろ漫画にアフレコを加えた「ボイスコミック」を視聴して、むしろ不自然だと言う感想は珍しくない
    • 実験的に「死体写真」を用いた漫画を描いた、特殊漫画家・根本敬の発言からも示唆が得られる。根本は「生きた人間の写真」を漫画に使うと、「過剰な演技が鼻につく」「死体の方が写真漫画をやろうとするならシックリくる」と述べている
    • 生身の肉の存在感は、漫画ではむしろ阻害者となってしまう。死体に近い、無機質な存在によって漫画の表現は活き活きと躍動する
    • 岩明均も「死体」のドライな描き方に特徴のある作家である
    • なお、岩明が「死」を描くことでトリッキーに「生」を表現するという主張は、同じ『ユリイカ』の三輪健太朗の記事でも行われている
    • 脚注でも言及したように、「生きた人間ではない絵」だからこそ表現のできる「生」と「死」がある、という問題系は、岩下朋世『少女マンガの表現機構』の論旨とも呼応する部分であり、本論にとってもキモである
  • 【ドライ・オア・ウェット】
    • 岩明均の「ドライな」作画を、実例を見ながら確認する。「写生するように」「生き物よりも静物画でも描いているように」と、美術学科出身の作者らしい特徴も挙げられる
    • 「ドライな」岩明均の作画と、「ウェットな」平松禎史の作画の対比
    • 「漫画リアル」とも呼ばれる、虚構的ながらもナチュラルな芝居を得意とするアニメーター/演出家である平松を起用した意味
    • 岩明の「ドライさ」をアニメでは再現不可能だと断念したかのような判断
    • その結果、真逆のナチュラルさやウェットさを求めたことは、間違った選択でもないように思える。『寄生獣』は表現こそドライだが、その行間(コマ間)から立ち上がるストーリーはヒューマニズムに溢れ、充分ウェットにも感じられるからだ
    • つまり『セイの格率』は、(通常のアニメ化作業で想定されるような)行間を「補完して繋いでいる」というより、行間を「裏返して表現している(強調部傍点)」と言えるだろう
    • つまり、通常想定されるアニメ化では、行間を埋めることで「漫画の作画」をアニメに引き継ごうとするが、行間を裏返すようなアニメ化の表現では、「漫画の作画」はアニメで完全に上書きされる
    • その際に求められるのが、平松のキャラクターデザインによる「ナチュラルな芝居」であり、平野綾のキャスティングや、HBBの効果音、情感の深いBGMなど、いずれも同一の目的(=ウェットさの表現)の上で導入されていると考えられる
    • 原作『寄生獣』がドライさを突き詰めている一方で、ビビッドな生命感を(アニメのように)吹き込もうとする漫画のスタイルも確かに存在する
    • むしろそちらの方が今の漫画界では「普通のスタイル」とみなされ、岩明均が「変な漫画家」と評されることがあるのもそのためかもしれない
    • その「普通とされるスタイルの漫画」の存在によって、様々な漫画のアニメ化企画も立ちやすいのかもしれない。しかし『寄生獣』はそれらの作品のように、安易なアニメ化はよしとされないスタイルであった
    • ひいては、「普通とされるスタイルの漫画」がいかにアニメと共通していたとしても、メディアの誤差を乗り越えるためには、『セイの格率』のようなアニメ化の手法は参考にされるべきであって、考えなしに映像化できるものと考えてはならないだろう
  • 【生の格率】
    • カント哲学でいう「格率」は「(普遍性に対する)主観的な行動の規則」という意味だが、「セイの格率」とはよくできたサブタイトルである
    • 「命に絶対的な物差しなどはない」と問うた『寄生獣』のテーマを意識したネーミングなのだろうが、それは「生の表現」においても同じことが言える
    • 「アニメの生」と「漫画の生」は本質的に異なる。普遍的に共通する規則などはなく、別々に考慮する必要がある。それはまさに「生の格率」と呼べるだろう
    • なおここでは参考までに、押井守『トーキング・ヘッド』から映画論(モノクロとテクニカラーの対比)も引いている。「ビビッドな素材を求めるほど本質から遠ざかる」という点では、根本敬の写真漫画論と通底する
  • 【その画はどこから生まれるのか】〜【漫画に宿る〈絵の意識〉】〜【絵と読者の接近】〜【見えざる実像】〜【「生」を成立させる絵】
    • 表題を小見出しにしたここからが実は本題
    • 2009年に『ビランジ』に寄稿した泉の論考(『ヒストリエ』を主題にした内容)が元になっている
    • 主に『ヒストリエ』の画風が「現代人の意識が、古代世界にトリップした際の気分を感じさせる」ような絵であることを論じている
    • そのために〈絵の意識〉というキーワードから、「絵を見ている」と「絵のように世界が見える」という「見る/見える」の対比や、漫画の絵の向こう側に感じられる〈見えざる実像〉について論じている
    • その中の〈見えざる実像〉については、前述した「実体のないイメージを伝えることが漫画の表現」という主張にも対応させてある
    • 岩明均の「女の体に色気がない」と評されやすい絵柄にも意味があると言えるし、また、イメージを伝えているからこそ、作画以上に「秀でた女性の容姿」を伝えられることもあると述べている(例としては『ヒストリエ』のバルシネなど)
    • 描かれているもの以上のイメージを伝えるという点において、「小説の文体」と「漫画の絵」は実は近い役割を果たしている(絵があるからといってそれ以上のイメージが膨らまないということはない)、という指摘も加えている
    • 絵が生きているように見せること(=ビビッドさを追求する漫画のスタイル)は漫画の本質ではなく、絵を用いて「読者内のイメージ」を活かすことに漫画の本質がある
    • 結びとして、簡素にしてドライな岩明均の作画は、だからこそ「抜群に活きている」とする


ユリイカ 2015年1月臨時増刊号 総特集◎岩明均 -『風子のいる店』『寄生獣』から『七夕の国』、そして『ヒストリエ』へユリイカ 2015年1月臨時増刊号 総特集◎岩明均 -『風子のいる店』『寄生獣』から『七夕の国』、そして『ヒストリエ』へ
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「小説は漫画と違って文字だけで想像させるから偉い」に別の言い方はないのか

 小説は漫画などと比べたとき、「文字だけで想像させるので想像しなくてもよい漫画よりも優れている」「想像力を鍛えられるから優れている」と言われることがよくあります。
 年配の「漫画を読まない」人に多い意見でしょうか。


 すると「読者に想像させる力」というキーワードに対して、漫画家の島本和彦先生がこんな反論も返します。「想像力」で優劣を競ってもあまり意味はないと言えるでしょう。



 文章には視覚情報がない。ゆえに視覚を補う想像力を要する、というのが直観的に思いつく「小説の優れた点」なのでしょう。でもそれは、実は逆なのではないかと。
 「あらゆる想像を文字だけで考えさせるので言葉の能力が鍛えられるから優れている」とみなした方が、小説の魅力の実態をよく表せるんじゃないでしょうか。


 実際、漫画や、(ライトノベルも含めていいですが)ビジュアル付きのメディアに触れた後に比べて、「文字だけの小説」を読み耽った後は「文字ベースの思考が頭の中でスムーズになる」状態を感じることがあります。
 もちろん読みながらビジュアルの想像もするのですが、それよりも、純粋な「文字だけの思考に耽っている」時間の方が濃くて長いのでしょう。


 つまり小説と漫画の比較論は、「漫画には絵があるが小説にはない」という不足によって生まれる「ないものねだり」から考えはじめる時点で歪みが生じています。
 絵は存在しないが、「存在しない絵を想像させるから偉い」というのは「ビジュアル(=視覚的情報)は文字よりも偉い」という、ないものねだりの理論武装です。


 「存在しないもの」を想像させるのが偉い、というならそれは漫画でも同じことで、漫画も「描いていないものを想像させた方が偉い」と言い切っていいのですが、それは別に「ビジュアルの想像」じゃなくてもいいわけです。人間は、目に見えないものや形のないものも想像する生き物なのですから。
(一応補足ですが、もちろん「小説の方が偉い派」の言う「想像」っていうのはビジュアルにかぎらず、観念的な思考や言葉による想像のことを暗に含めて言ってるのだろうとは理解できます。)


 だから、「ビジュアルを想像する素晴らしさ」よりも「ビジュアルなど想像せずに言葉だけで考えることの素晴らしさ」に意を向けるべきかもしれません。


 「ビジュアルを想像させることが優れている」という理屈のままだと、ともすれば、「アニメ/漫画/映画的なイメージを喚起させるための書き方」に特化したタイプの娯楽アクション小説やライトノベルの手法こそが、実は「小説は偉い派」が掲げる理屈に適っている、という話になってしまうのですから。
(無論、どちらが小説として優れているかは別として、「映画のようにイメージさせるための手法」が「小説的」かというと、あまりそうは呼びにくいのではないかと個人的には思っています。)