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『ユリイカ』岩明均総特集号の拙稿「その画はどこから生まれているのか」(泉信行)の要旨と概論

 9月には、伊藤剛テヅカ・イズ・デッドが新書化していました。


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伊藤 剛

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 ただし、底本からの加筆修正は最小限のみと聞いていたので、手元に置くのは遅れていたのですが、書き下ろしの「あとがき」は確認しておこうと、先日購読に至りました。
 その「あとがき」では、旧版『テヅカ・イズ・デッド』出版以後からの漫画学/漫画論の進展が主に記されており、特に泉信行・岩下朋世・三輪健太朗の三名の活動を「次世代」の位置に挙げられている印象でした(中でも泉については何度も言及されていて、恐縮です)。


 そして奇しくも、この三名が同時に漫画論を執筆しているのが先日発売されたばかりのユリイカ 2015年1月臨時増刊号 総特集◎岩明均でした。
 各人がそれぞれの漫画論のアップデートや語り直しを行っているような内容でもあり、ただ岩明均の本というだけに留まらず、普遍的に応用可能な漫画論としても参照できる一冊になっているのではないかと思います。
(もちろん、いずれも本題は「岩明均」の作品/作家論であるのですが。)

泉信行「その画はどこから生まれているのか―メディアの本質のための岩明均論」の要旨

 そこで『ユリイカ』を読んだ人が振り返られるように、もしくは未読の人でも内容が理解できるように、拙論の要旨をレジュメ風にまとめたものを残しておきたいと思います。
 詳しい部分については、本誌をご確認ください。【】は原稿の小見出しを表しています。

  • 【序】
    • まずタイムリーな時事ネタとして『寄生獣』のアニメ化を導入に取り上げる
    • 「音」の存在しない漫画では、アニメ化の際に「声」の表現が意識されやすい
    • このメディア的差異から、漫画の表現の逆照射を試みる
    • そこには(ただのメディア比較論ではなく)『寄生獣』がいかに「漫画というメディアの特性」に立脚した作品であるかを確かめる意図がある
  • 【かぎりなく無機質に】
    • 寄生獣 セイの格率』のキャスティングにおいて、ミギーの声優に平野綾を配したことは、意表を突きながらも自然に受け入れられているようだ(筆者の感想も同様)
    • ただし、原作の『寄生獣』を読み返しても平野綾の声で「脳内再生」される……ということはなく、「イメージと近かった」という意味で受け入れていたことにはならない
    • ちなみに本文では触れなかったが、ここでミギーの声だけを特筆した理由はある。現代日本に舞台を移したアニメ版では、絵柄や芝居にアレンジが加わることで、ミギーだけが「原作との見た目の違い」が少なくてキャラクターの同定が行いやすいのに対し、ミギー以外は見た目や雰囲気のレベルで同定の難しさが生じるため、漫画のキャラクターを見ながらアニメの声をイメージしてもナンセンスであるから
    • 「漫画の声のイメージ」というと「主観だろう」の一言で反論されがちである
    • それでも「イメージのされ方」の傾向は分類できる
      • A.まったく声をイメージしない
      • B.具体的ではないがイメージすることがある
      • C.具体的に声をアフレコするようにイメージする
    • この中で「B」が最も行われやすいという指摘も妥当であろう
    • 人間には、聞いたことのない「声」でも頭の中で合成できる機能があり、その機能によって読者は漫画のセリフを読んでいる
    • そして「ミギーの声のイメージ」に共通すると思われるのは「無機質な声」ではないか
    • それは具体的に(声優などを)モデルにできる「人声」というよりも、無味乾燥で、実体のない、いわば「この原稿を黙読する時に使っている(強調部傍点)」声に似た声なのだろう
    • 無機質な声や、「黙読の声」などは人に演じられるだろうか? あるいは可能かもしれないが、『セイの格率』はその「逆」の道を選んだことに注意したい
    • 平野綾によるミギーの声は、田の中勇の名演による『ゲゲゲの鬼太郎』の目玉おやじの声にも準じるが、目玉おやじ水木しげるの原作漫画を読んで田の中勇の声が自然に再生されるかというと、そうでもない点で共通している
    • もちろんここで目玉おやじと並べたのは、形状的な類似点(『寄生獣』の作中でもシンイチによるパロディ発言がある)だけでなく、水木しげるの絵が「枯れたタッチ」を思わせるという点で、絵柄的にも岩明均と通じていることを意識している
    • この差異に「漫画というメディアの本質」も隠れているのではないかと考える
  • 【イメージを阻害する生身】
    • 漫画の読者が「声のイメージ」と口にすること自体が示唆的である
    • 漫画とは、読者のイメージを操るメディアであり、実体のないイメージを伝えることで表現を豊かにしていく
    • 一方でアニメ制作においては、「アニメで生(ナマ)なのは声優の声しかない」という庵野秀明の発言がある
    • その庵野の問題意識で作られたアニメ『彼氏彼女の事情』は、『セイの格率』のキャラクターデザイン/作画監督平松禎史も参加しており、平松も庵野の発言を引用している
    • 「作り物でしかないアニメ」にコンプレックスを感じる庵野は、同時に「声優の声も作り物の絵に合わせた時点で肉体感を失ってしまう」というような限界も告白している(『庵野秀明のフタリシバイ』参照)
    • しかし「漫画」の側から考えてみれば、庵野の言葉は問題発言でもある。「作り物でしかないアニメに生なのは声しかない」というが、漫画にはその声すらない
    • だから「漫画はアニメ以上に生の表現に欠けている」かというと、優れた漫画を読んだときの読者がそのように意識することはないだろう(小説の表現も同様である)
    • むしろ漫画にアフレコを加えた「ボイスコミック」を視聴して、むしろ不自然だと言う感想は珍しくない
    • 実験的に「死体写真」を用いた漫画を描いた、特殊漫画家・根本敬の発言からも示唆が得られる。根本は「生きた人間の写真」を漫画に使うと、「過剰な演技が鼻につく」「死体の方が写真漫画をやろうとするならシックリくる」と述べている
    • 生身の肉の存在感は、漫画ではむしろ阻害者となってしまう。死体に近い、無機質な存在によって漫画の表現は活き活きと躍動する
    • 岩明均も「死体」のドライな描き方に特徴のある作家である
    • なお、岩明が「死」を描くことでトリッキーに「生」を表現するという主張は、同じ『ユリイカ』の三輪健太朗の記事でも行われている
    • 脚注でも言及したように、「生きた人間ではない絵」だからこそ表現のできる「生」と「死」がある、という問題系は、岩下朋世『少女マンガの表現機構』の論旨とも呼応する部分であり、本論にとってもキモである
  • 【ドライ・オア・ウェット】
    • 岩明均の「ドライな」作画を、実例を見ながら確認する。「写生するように」「生き物よりも静物画でも描いているように」と、美術学科出身の作者らしい特徴も挙げられる
    • 「ドライな」岩明均の作画と、「ウェットな」平松禎史の作画の対比
    • 「漫画リアル」とも呼ばれる、虚構的ながらもナチュラルな芝居を得意とするアニメーター/演出家である平松を起用した意味
    • 岩明の「ドライさ」をアニメでは再現不可能だと断念したかのような判断
    • その結果、真逆のナチュラルさやウェットさを求めたことは、間違った選択でもないように思える。『寄生獣』は表現こそドライだが、その行間(コマ間)から立ち上がるストーリーはヒューマニズムに溢れ、充分ウェットにも感じられるからだ
    • つまり『セイの格率』は、(通常のアニメ化作業で想定されるような)行間を「補完して繋いでいる」というより、行間を「裏返して表現している(強調部傍点)」と言えるだろう
    • つまり、通常想定されるアニメ化では、行間を埋めることで「漫画の作画」をアニメに引き継ごうとするが、行間を裏返すようなアニメ化の表現では、「漫画の作画」はアニメで完全に上書きされる
    • その際に求められるのが、平松のキャラクターデザインによる「ナチュラルな芝居」であり、平野綾のキャスティングや、HBBの効果音、情感の深いBGMなど、いずれも同一の目的(=ウェットさの表現)の上で導入されていると考えられる
    • 原作『寄生獣』がドライさを突き詰めている一方で、ビビッドな生命感を(アニメのように)吹き込もうとする漫画のスタイルも確かに存在する
    • むしろそちらの方が今の漫画界では「普通のスタイル」とみなされ、岩明均が「変な漫画家」と評されることがあるのもそのためかもしれない
    • その「普通とされるスタイルの漫画」の存在によって、様々な漫画のアニメ化企画も立ちやすいのかもしれない。しかし『寄生獣』はそれらの作品のように、安易なアニメ化はよしとされないスタイルであった
    • ひいては、「普通とされるスタイルの漫画」がいかにアニメと共通していたとしても、メディアの誤差を乗り越えるためには、『セイの格率』のようなアニメ化の手法は参考にされるべきであって、考えなしに映像化できるものと考えてはならないだろう
  • 【生の格率】
    • カント哲学でいう「格率」は「(普遍性に対する)主観的な行動の規則」という意味だが、「セイの格率」とはよくできたサブタイトルである
    • 「命に絶対的な物差しなどはない」と問うた『寄生獣』のテーマを意識したネーミングなのだろうが、それは「生の表現」においても同じことが言える
    • 「アニメの生」と「漫画の生」は本質的に異なる。普遍的に共通する規則などはなく、別々に考慮する必要がある。それはまさに「生の格率」と呼べるだろう
    • なおここでは参考までに、押井守『トーキング・ヘッド』から映画論(モノクロとテクニカラーの対比)も引いている。「ビビッドな素材を求めるほど本質から遠ざかる」という点では、根本敬の写真漫画論と通底する
  • 【その画はどこから生まれるのか】〜【漫画に宿る〈絵の意識〉】〜【絵と読者の接近】〜【見えざる実像】〜【「生」を成立させる絵】
    • 表題を小見出しにしたここからが実は本題
    • 2009年に『ビランジ』に寄稿した泉の論考(『ヒストリエ』を主題にした内容)が元になっている
    • 主に『ヒストリエ』の画風が「現代人の意識が、古代世界にトリップした際の気分を感じさせる」ような絵であることを論じている
    • そのために〈絵の意識〉というキーワードから、「絵を見ている」と「絵のように世界が見える」という「見る/見える」の対比や、漫画の絵の向こう側に感じられる〈見えざる実像〉について論じている
    • その中の〈見えざる実像〉については、前述した「実体のないイメージを伝えることが漫画の表現」という主張にも対応させてある
    • 岩明均の「女の体に色気がない」と評されやすい絵柄にも意味があると言えるし、また、イメージを伝えているからこそ、作画以上に「秀でた女性の容姿」を伝えられることもあると述べている(例としては『ヒストリエ』のバルシネなど)
    • 描かれているもの以上のイメージを伝えるという点において、「小説の文体」と「漫画の絵」は実は近い役割を果たしている(絵があるからといってそれ以上のイメージが膨らまないということはない)、という指摘も加えている
    • 絵が生きているように見せること(=ビビッドさを追求する漫画のスタイル)は漫画の本質ではなく、絵を用いて「読者内のイメージ」を活かすことに漫画の本質がある
    • 結びとして、簡素にしてドライな岩明均の作画は、だからこそ「抜群に活きている」とする


ユリイカ 2015年1月臨時増刊号 総特集◎岩明均 -『風子のいる店』『寄生獣』から『七夕の国』、そして『ヒストリエ』へユリイカ 2015年1月臨時増刊号 総特集◎岩明均 -『風子のいる店』『寄生獣』から『七夕の国』、そして『ヒストリエ』へ
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