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 移行後のはてなブログ:izumino’s note

女性に読まれることを想定しないことで男性の読み方も想定できなくなる

 世間で見かける感想・批判で、良くできていないと感じるものは大抵、女性に読まれることを(少なくとも中性的に読まれることを)まるで無視した語りになっている場合にダメな話になってるんじゃないかなと薄々思うことがある。
 また、仮に女性の受け手を想定したそぶりがあったとしても、例えばイケメン目当て、あるいは腐女子向けといった「性」への願望しか想定しておらず、作中に潜む「女性らしさ」「女性好み」への期待は考慮に入れていないケースがある。


 その何が問題に繋がるかというと、女性に読まれることを想定しないということは、中性的で乙女な男子に読まれることも想定できないからだろう。


 広げて言えば、潜在的ミソジニー(女性性排除的)な評価をすることが、「読者も作者も男主人公が作品価値の全て」という解釈を横行させるのかもしれない。

 だから「主人公の設定だけで作品を語れた気になってしまえる言葉」は、「物語とは作者が主人公に自己投影して描くものだ、という思い込み」や、「物語とは読者が主人公に感情移入することのみで読むものだ、という思い込み」とセットで出現しやすいものです。
 これらは複合的な信念体系の抱える問題で、言ってもなかなか直せない人もいるでしょう。

「主人公の特徴だけで作品を特徴付けたつもりになれる言葉」の過ちと罠 - ピアノ・ファイア


 確証はないとしても、作者が男性であり読み手がその「同性」であるならば、作品もまた「同性」のための価値しかないと無条件に考える──つまり作者や読み手は「同性キャラクター」にしか感情移入せず「異性キャラクター」は奉仕的かつ従属的な欲望の対象でしかないとみなす──向きは沢山いそうな感覚がある。


 もちろん、逆に少女漫画や女性向け作品の解釈においても、「異性のキャラクターはそっちのけで、主人公が可愛いから好きっていう(中には中性的や男性的な)女性読者もいるんですよ」という話をすると、「えー、ホントですか信じられないなあ」という反響を得ることも多々あって、「あ、女性の受け手にも男性的に読む余地があることは全く想定外なのか……」と驚かされることもあるのだけど。


 人間は母親と父親から遺伝を受け継いでいるのだから(というと強引な話のようだけど不合理ではないと思う)、女性らしさと男性らしさを合わせて持っているのが普通だ、と考えているので、そうは思わない人がいるということの方が、個人的には不思議だったりする。