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 移行後のはてなブログ:izumino’s note

自分の健康を守るための、体調管理についての覚え書き

 知人には常々伝えていることですが、ぼくは7年ほど前から生活が困難になるくらいの体調不良を起こしてまして、特に病名もなく、医者にかかっても「体力をつけてください」としか診断されないような症状でした。


 鍼灸院にかかるようになって、弱っていた内臓が回復したのが2006年頃。それでも食事制限が必要で、「牛肉・コーヒー・冷たい物」を摂取できない、という妙な体質を残すようになりました。
 実際に吐き出すことはないんですが、牛肉(特に牛脂)やコーヒーを飲むと、吐き気を催してえずいてしまうんです。


 そもそもでいえば、2004年から2006年までは、一日中咳き込んだり、えずいたりしていたわけで。寒気のひどさから、真夏でも5枚以上の重ね着をしたりもしていました。
 そこまで悪い状態と比べれば、「身体を冷やし過ぎたり、内臓に負担をかけたりしないかぎりは、その症状を抑えられる」という程度にまではナントカ回復できたわけですね。


 それからだましだまし数年過ごしてきたのですが──外出してテンションを上げれば無理やり体調を維持できたので、人付き合いの上でぼくの健康状態を気にした人はいなかったと思います。省エネで過度の頭脳労働をしないかぎり苦しまずに行動できた、というのもありました──、しかしとうとう「三十路のカベ」を越えてしまった所為か、この「体力でだましだまし」が効かなくなったように感じました。


 まず持続力が弱まり、必要な睡眠時間が長くなり、食後に著しい体力低下を感じる。
 つまり、二十代までは「禁忌食さえ口にしなければ平気」だった内臓が、「どんなものを食べても負担がかかる」ように変わったということだと思います。
 その前兆として、お好み焼きやカレールーで作ったカレー、ホワイトシューのような、小麦粉を溶いて作った食事を摂ると、必ずと言っていいほど「腸が焼けるように熱くなって数時間寝込む」ということを繰り返していました。
 正しい因果関係は研究でもしてもらわないと判明しないでしょうが、小腸が消化をするときに全身から血液を集めなければならないほど消化器としての機能が弱まっているのは確かだと思います。

老廃物を押し流す

 今年に入ったあたりから次第に危機感を感じるようになり、とりあえず思いつくことから試すことにしました。
 まずは、利尿効果のあるお茶を大量に飲むこと。
 元々ぼくはお茶党なんですが、その自分で多いと感じるくらい……具体的には2リットルほどを目標に飲むことにしました(人間が一日に飲む水分の量の二倍)。


 ありていに言えば、尿が「無色透明の水」になるまでお茶を飲んで何度もトイレに行くわけです。
 目的は、全身に溜まった老廃物を排出することですね。腎臓も弱いと診断されていたので、まず循環系をケアして疲労感を和らげることにしました。
 思えば、足の末端が脱水症状のようになって老廃物の巡りがかなり悪くなっていたからです。


 脚のストレッチや、八卦掌(走圏と易筋経)の基礎練も意識して頻度を増やしています。これも弱った循環系を助けるためです。

食べるものだけでなく、食べる時間も管理する

 それでも 睡眠時間の長さと、深い睡眠が取れないことによる慢性疲労は去りませんでした。
 そこで二週間前から病人食のような食事に切り替えることにしました。


 お粥は好みではないため、イタリアの病人食を参考にして、ブロード(ブイヨン)をかけたパンであるとか、パスタ・ビアンカ(ブロードとオリーブオイルのパスタ)とか、ポトフなどです。


 三日ほど経つと、「お腹が空っぽの状態で眠ると熟睡できる」ことに気付きました。
 よく快眠の秘訣として「眠る前の3時間以内は食べ物とアルコールを摂取しない」というのがありますが、それを更に推し進めて、食事から就寝までに9時間は空けることにしました。
 というのも、ぼくの消化器の問題は主に「小腸」であり、一般の睡眠法にある「3時間」では胃の負担がなくなるだけで、「小腸に体力を奪われながら眠らなければならない」という事態は変わらないからですね。


 そこで「一日二食、晩御飯抜き」の食生活を始めます。


 朝起きたらすぐに軽い病人食を食べる、午前中にもう一食取る(ボリュームによっては二品を分けて食べる)。
 それ以降はまったく固形物を取らない。
 空腹の状態で、その日のうちに眠る。


 元々日本人は一日二食でしたから(肉体労働者にだけ「昼めし」の概念があったそう)、それほど無理のない生活だと思います。
 朝ご飯抜きよりは、晩ご飯抜きの方が、睡眠の関係からいっても人体に優しいんじゃないかという気もします。


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 それでも多くの人類が「夕食、ディナー」という文化と共にあったのは、同族と食卓を囲むという「共食」のコミュニケーションを必要としていたからじゃないかな、っていう分析もできるわけですが。

人体は漬物のようなもの


 この食生活に踏み切ったのは、もはや「弱くなった内臓を元の健康な器官に戻すことは叶わない」という諦めをつけた判断でもあります。


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 吾妻ひでおの『失踪日記』に出てくる、「アルコール中毒患者の体は漬物のようなものだ」という言葉を思い出します。
 「ぬか漬けにした野菜」が二度と「元の生野菜」に戻ることはないように、酒浸しになった肉体から酒気が抜けるようなことはない、という意味です。
 だから大袈裟に言えば、「アルコール中毒を治す」のではなく「アルコール中毒の体のまま社会復帰できるようにする」ことがアルコール中毒患者にとっての「治療」なのでしょう。

「医療は、病気を治すためのものでは無い」

 中国医学のエピソードとして、「病気を完治させるのではなく、病気のまま、人並みの元気を出せる身体を作る」という考え方を聞いたこともあります。

「宿生」 21世紀は「細菌の世紀である」といわれている。
(中略)
ペットを飼うのも命がけである。ペットには発病しない細菌が人間には生死を左右する 程の害をもたらすこともあるからである。こうした細菌を体内に宿しているが、発病しないような 状況を「宿生」というらしい。また、幾世代かを経ると、自然と宿生できる種だけが増えて行くように なる。種の淘汰である。これが自然の原理であるとするのであれば、中国医学の考え方に、 ひじょうに近いもののあることが分かる。よく「中国医学では、癌は治らない」という言い方をする 人が居るが、これは正しい。癌の進行をくい止めるのが、主であり、それを治すということは従で あるからである。鄭曼青も肺結核が完治したのでは無く、その進行が止まり、健康な人よりも、より 多くの仕事が出来る身体を手に入れたわけである。要は発病しなければ良いのである。病気を治して しまう必要はない。とりわけ患者に苦痛を与え、しかも或る場合には、病気の進行を促進させる ような治療法は決して好ましいものではない。
(中略)
そこで古代の武術家は、闘って勝つことより、戦いを回避する 方法を模索した方が良い、という事に気づいたのである。『孫子』には、既にこうした発想が 見られる。経営者の中には『孫子』のファンという人も居て、経営戦略に『孫子』の思想を使おう とするのであるが、これは『孫子』の思想という立場からすれば、全く見当外れと言わねばなるまい。 『孫子』は闘わないことを最上と考えたのであるから! 武術は闘争に勝つためのものではなく、 医療は、病気を治すためのものでは無い。これが、古代中国人の到達した英知なのである。

公開日記ページ - Fumy Web Diary


 養生法の奥義は、「治せない病気」を治すことなく、生活できる身体にすることなのかもしれません。
 ここの「身体を作る」というのは、その身体を支える生活習慣からひっくるめて作り上げる、という意味でもあると思います。
 メニューに生のトマトが出ると、必ずお湯に通してから食べていたという武術の達人の逸話もあります。

その詳細をここで述べることはしないが、要するに日常の生活においても、努めて「陽」のものを摂取することが好ましいのである。勿論、そのバランスを保ちながら、ということが大前提になるのは、言うまでもないことである。因みに宮宝斎先生などは、サラダのトマトも、熱湯に一度くぐらせて食べておられたという。

www.baguamen.com/199912.html


 中国医学では「冷たい野菜を食べてはいけない」と言われますが──ちなみに中国料理が油を使うのは、加熱を一瞬で済ませることで生野菜に近い栄養を守るためです──、丈夫なはずの達人でも、いや達人の境地にあるからこそ、その元気な状態を維持するには、凡人以上に繊細な管理が必要だったのかもしれません。

一般的な「健康な生活」に影響されない

 世間やマスコミのいう「健康な生活」とは、異常のない身体を基準にしたものです。
 「異常のない身体に近付こう」という思想だとも言えるでしょう。


 そんな考え方にも価値はあるのでしょうが、「漬物」理論でいえばその基準に全て従うことはできない道理です。
 ひとつでも悪い箇所があれば、「不可能な習慣」や「負担のかかる行動」が生まれてきます。
 例えば胃が極端に小さければ、一回の食事量が減り、一日三食では足りなくなるでしょう。
 西洋的には、そこで「胃が大きくなるように体力を付けましょう」となり、しかし「胃が小さくては体力がつかない」という悪循環から抜け出すことはできず、療養生活を強いられることになるでしょう。


 一方、東洋的には「胃が小さなまま元気になる生活を作りましょう」と考えるでしょう。
 朝昼晩の一日三食が体質的に不可能なら、「一般的な健康生活」に見切りをつけて、自分を健康にするための生活を考えていけばよいのでしょう。
 (できることなら)「他人と同じ生活を送りたい」と考えがちな日本人にとっては、意識のハードルを越える必要のある考え方かもしれません。
 しかしぼくのように、そうするしかない、と判断せざるをえなくなったら。


 人は「自分の身体のための日常」を自ら作り上げるべきであって、「一般にイメージされる健康な生活」に影響される意識からは抜け出さないといけないのだ、と今では強く思います。