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 移行後のはてなブログ:izumino’s note

「作者」よりも「作品」よりも「全体」はもっとおっきい

http://d.hatena.ne.jp/kaien/20080122/p2

典型的なヲタの深読みですね。作者はそこまで考えてませんぜ

 作者じゃなくて作品が重要なんだってば。作者の考えていることがすべてなら、そもそも作品を語る意味がない。やれやれ。

「これも、部分で全体を語るなの例のひとつだね。作者は“部分”でしかない」


「というか“典型的”という言い回し自体、相手の意見の“部分”だけを理解した人が、相手の“全体”を無視したい時に使いがちな言葉ですけどね」


「このたった一行の発言も、“本人がどこまで考えてそんな意見になったのか”という“作者の意図”を離れた“作品”になっているから、こういう時こそ彼(彼女?)の意志や人格はひとまず無視して話を進めちゃおう。で、こういう発言をする人っていうのは、作者という“部分”を“ものの全体”だと思ってるんだろうか? まさかそうではあるまい」


「どちらかというと、“自分からの見え方”という“部分”が“全体”になってる場合が多い気がします。自分にとってのその“全体”を崩されたくなくて、作者を盾に守ろうとしてる感じ。意訳するなら『私はこの作品をそんなふうに考えたくありません』以上のものではないのでは」


「まぁこの発言者も、作品をひっくるめた上で『作品全体にとって作者の意図は大黒柱なんだよ』と言いたいのかもしれないが。でも本当は、作者も部分でしかないし、作品も部分でしかない。たとえば複数の作品に作者がまたがった場合は作者で作品が包括されるからね。逆に、偉大な一作品を複数の作者が独自解釈でオマージュしまくるケースもある。どんな文化でも“全体”というのは、クリエイターやコンテンツを超えたもっと大きなものなのだ。宗教的な壮大ささえあるよ」


「見も知らぬ、おおぜいの他人から注がれている解釈のアングルひとつひとつすらも“部分”を構成しているわけで、まさに“全体”は“全知”の神のみぞ知る、の世界ですよ」


「まぁ手持ちの部分と部分をつなぎ合わせて、なんとか全体に近づこうというのが人間のできることさ。たとえば俺のアングルとお前のアングルを合わせてみたりとか、我々はそういうことを泥臭くやっていくんだ」