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語った気になれるマジック・ワード集(FlowerLounge) / 「ちょいペダ用語」(Artifact)


 今日は特にネタも無いので、いささか時期遅れな感もありますが、こちらの話題に反応しておきましょうか。


 この手の話を聞かされて「ギョッ」と感じて、「いかん、書き方を改めねば」という人達の為に。
 こういうのって、ぼくは「方言」だと考えるんですけどね。
 人が書く文章なんていうのは、自分が読んできたもの、考えていること、つまり、その人の「お里」が如実に表れ出でるもので、それはその人の「方言」や「訛り」であり、人柄だと言ってもいいでしょう。


 例えば人によって「性的な<好き>」という感情を伝える時に「憧れる」「かわいい」「ツボ」「ハァハァ」「萌え」「エロい」「マイサンが反応した」「魅力的だ」「蠱惑的だ」「エロスを感じる」「セクシャルだ」「セクシュアルだ」と様々に変化し(後ろの方に行くほどプチ論客っぽさが増していき)、それぞれからまったく別の「お里」を読み手は感じ取れるのですから。


 故郷の方言ほど、「自分の気持ちを相手に伝えられるもの」は無いでしょう。
 寺山修司も「恥ずかしがらずに方言で喋りなさい、ドモりなさい。口下手なことに誇りを持ちなさい」と言って地方出身者を励まし、「流暢な標準語を操るシティボーイ」を小馬鹿にしていたわけでしょう。いや、加野瀬さんの文体がシティボーイだというわけじゃないんですが。
 テキストサイトの書き手達は、方言で、自分の言葉で、「あなたにこの言葉の思いが通じるのだろうか」という推敲を何度も何度も繰り返しながら、つまり「ドモりながら」テキストを書けばいいのではないでしょうか。
 もちろん「美しい方言を身に付けたい(=慣れない論客方言を使ってみたい)」という努力をしてもいいですし、仕事のために「流暢な標準語」の訓練をするものいいと思いますけど。


 しかしこういう話題はネットなんかが出来る前からあったもので、文字なんていうものが出来た頃からあったと言ってもいいような。
 そもそも言語というのは、排他的なものです。バロウズの言語ウイルス説を持ち出すまでもなく、読みにくく、使いづらく作られているのが言語ですから。飛躍して言えば、古代の人も「お前の書く文字は複雑なだけで読みにくい」「達人の字を真似ているだけだ」と言い合っていたかもしれません。中国や日本の書道文化なんかまさにそうなんじゃないかと思いますが。
 もちろん、文章の世界も書道の世界と同様、「良い書き方」と「悪い書き方」の違いや基準はあるし、その為に師匠という人が存在します。文章の師匠というのは、まさに「読んできた本」でしょう。ぼくはぼくの師匠を参考にしてこういう文章を書いています。