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 移行後のはてなブログ:izumino’s note

ポストモダン論とデータベース消費について

 昨日の続きである。
 データベースやシミュラークルがどうこうという問題には納得してしまったので、触れない。
 もうひとつ自分なりに単純化したいことがあって、それはぼく自身モダンとポストモダンという言葉の意味を良くわかっていないということでもある。


 「モダン」というのはヨーロッパを中心にした批評家達の、「物語には一義的な正しい読み方が存在する」という(誤解に基づいた)考え方だ……と思う。ポストモダンはその考え方に対する反証であろう。
 つまり「批評家達」に対する批評であって、モダン→ポストモダンによって「作家達」に変化は起こらない。変化したのは講壇批評の空間だけ──それも欧米に限った話だろう。「物語には一義的な正しい読み方が存在する」という「神話」を持ってしまったのは「歴史的にも地理的にも」一部の批評家達だけだった、と言い換えてもいいと思う。
 

 ここに理解できない疑問が浮かぶ。その「ポストモダン」が、何故日本のアニメや萌えデータベースに繋げられるのか? それが不思議だ。
 オタクやアニメ作家達は「モダン(一義的な正しい読み)」な批評を経験していないのではないか。モダンが無いということはポストモダンも無いということだ。
 その点、庵野秀明シェイクスピアを実線で結ぶ望月(id:motidukisigeru)さんは正しいと思う。実線で結ぶことができずに断絶してしまうのは、間に「モダン」が割って入る欧米の講壇批評界だけであって、そんなの日本のオタク達にとっては「かなりどうでもいいこと」だろう。欧米文学は欧米文学、アニメはアニメだ。
 東理論がオタクの賛同を全然得られない理由はそこにあるんじゃなかろうか。オタクは批評界に所属していませんし、そうするつもりも無いですからね。


 ただ、日本の講壇批評界にも「モダン」と呼ばれる時代があったのか……どうかをぼくは知らない。あったとしても、でもそれはやっぱり批評家達の問題であって、オタクやアニメ作家には関係無いのだと思う。
 ファウストさんは「モダンな読み」に縛られている。彼自身がモダンの存在を感じているからポストモダンが意味を持つし、エヴァもモダン→ポストモダンという視点で読めてしまう。
 逆に、ぼくや望月さんや多くのオタクは「モダンな読み」を初めから意識しないし、少なくともアニメには関係ないと思っている。だからエヴァポストモダンと結びつけることに抵抗を感じる。
 両者の意見がすれ違うのは当然のことだろう。
 と、いう所で納得してみる。

  • 追記

 そう考えてみると、『動物化するポストモダン』は、あくまで「ポストモダニストから見たオタク(の利用価値)」であって、「オタクにとってのポストモダン(の利用価値)」という視点は全然無い、ということも解ってくる。
 あー、なるほど。