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 移行後のはてなブログ:izumino’s note

よしながふみ『西洋骨董洋菓子店』3巻(ISBN:4403616526)

izumino2004-06-17

 再び予想以上に面白かったです。
 このテの漫画のお約束として、主役級の男はみんな辛い過去やトラウマを抱えててしかも超人で人外魔境だったりするのは確かにあざといんですがそれを差し引いても面白かった。
 まずジャン→小野→エイジの師弟関係に触れてひと泣き。
 そして橘さんのコイバナは憎めなさすぎる! 泣ける!(別の意味で)
 あと、やっぱりよしながふみの描く女親子はいいですね泣けますね。(こう言うとみっともないけど)男の中の女心とマザコン心に直撃ですよ。特に千影母とでこちゃんが重なって見える(千影母が桜子に甘えてる/母親役になっているように思える)あたりがやられたーって感じでもう。

  • 余談

 ジャン→小野→エイジにしろ『愛すべき娘たち』の祖母→母→娘の関係にしろ、一対一(=恋愛)じゃないタテの関係が読んでいて面白いのは、普段は得られない神の視点で人間の関係性(愛情の移動)を観察できるからかもしれない。伊藤剛(id:goito-mineral)さんは「多様な関係性の祝福」っていう言葉を使ってましたがそれと同じことのような気もします。
 マリみてスール制度(姉→姉→妹の関係)を眺めることが我々にとって魅力的なのも、多分同じこと(神の視点で愛情の移動を観察すること)なんだろうなあ。
 例えば紅薔薇ファミリーの、母親(姉)には向けられなかった愛情を娘(妹)に向けて補完する、という関係は実際の親子愛を映しているようにも思える。うーん、今度、百合(疑似恋愛)視点じゃなくて疑似親子視点で読み返してみると面白いかもしれない。っていうかなんで今までこれに気付かなかったんだろう……。ヒントは大量に出ていたのに。*1

*1:江利子とかね

昨日の事後処理

 既に鎮火しているようですが事後処理します。ここから別の話題に発展させられるならそれはそれで。

  • 感情レベルの「嫌いだから擁護しない」について

 ぼくも自分の意見がその時々によって変わる不安定な人間ですから(大抵の人はそうだと思いますが)、必ずしも「その作品自体の嫌悪する感覚>>魔女狩り的なバッシングを嫌悪する感覚」という優先順位で感情を持つわけじゃないだろうなと思います。むしろ「魔女狩り的なバッシングを嫌悪する感覚>>>(超えられない壁)>>>その作品自体の嫌悪する感覚」という地雷犬さんの感じ方の方が自然で健全なんじゃあ? と、自分がよく解らなくなったりも。


 ひとつおかえししておきますと、ぼくは地雷犬さんの言う「嫌いな作品の関係者が犯罪で捕まったらヤッター」という感覚にはまったく共感が持てなかったんですよね。それはぼくの場合「作品の評価は作品の評価、作者の評価は作者の評価であって、作者がどんな人格破綻者やったり犯罪者やったりしようがそれと作品の善し悪しは何の関係も無いやろうが!」という感覚が優先して出てくるからなんですけど(作者本人に恨みがあるなら別。単に打ち切りが嬉しい、ってのはあるかもしれない)。
 地雷犬さんが「嫌いな作品が訴えられてヤッター」という感じ方に、最初まったく共感できなかったというのはこれと同じこと(「魔女狩り(略)感覚」が優先して出てくるから)なんじゃないかと想像しています。
 まぁだから、人やTPOによって色んな感じ方があるぜ、ということですかね。

  • 「正しい教育法」について

 リアルの親御さんからもコメントいただいたりして恐縮です。
 「正しい」という言葉には「正しいことをみんながやれるわけじゃない」という含みもあります。理想論としての「正しい」でした。
 なぜ「何も与えない」ことを理想的だと思うかというと、多分ぼくの憧れもあるんじゃないかと。放任主義で育てられた末っ子なんで、規律のある教育はいいもののように思えます(あと、『老子』の読み過ぎなんだな。無闇な刺激で欲望をかき立てるな、っていう教えがあるから)。
 反動でオタクになっちゃうっていうのは実際そうみたいですね(子供の頃おもちゃを買って貰えなかったらしく、今は自分の金で買う癖がついちゃった友達が居る)。でも、成人してから濃いオタクになったことを後悔するかどうかは、本人の価値観次第のような気も。


 躾の善し悪しについては吉本芸人の今田耕司宇治原史規(ロザンのツッコミの方)の話を思い出しました。二人とも、アホみたいに躾の厳しい家に育てられて、それは良く似た教育法だったらしいのですが、今田は途中でブチ切れてグレまくった一方、宇治原はそのまま素直〜に勉強して京大生、っていう(職業に漫才師を選んだのは躾の反動だったかもしれませんが)。
 つまり子育てに王道無しであって、何がうまくいくか、悪い影響を与えるかなんて解らない以上「これはうまくいくかもしれない」ということだけができるんでしょう。
 スナドリネコさんも「生き物にそうすることが正しいことをやれるかな。俺達にできるのはそうしてもいいことだけだろう」と言ってますしね(唐突に劇場版『ぼのぼの』から引用)。

サムライチャンプルーの3、4話(「以心伝心」の前後編)

 お話も退屈だしテーマも陳腐だし時代劇を観てんだが西部劇を観てんだか現代マフィアものを観てんだか良くわかんないノリ(これはわざとミックスさせてるんだろうけど、雰囲気を変にさせてるだけでドラマ性の向上には関与してない)だしで、いくらでも文句は言えるんですが、ラストで観客を突き放したような投げっぱなしで終わらせる所で凄く「嫌な気分」を感じて、ああこれはなんかいいかもな、と思ってしまいましたよ。こういうスッカラカンなオチも気持ちいいといえば気持ちいい。
 これが計算して作った異化効果による「嫌な気分」だとしたら、期待してもいいかもしれない(単なるつまんなさによる可能性もまだあるけど)。
 とりあえず絵と音楽はマッチしてきているし、ロード・ムービーっぽさも(一応)出てきているので、後はどれだけ全体の雰囲気を構築できるか、かなあ。