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 移行後のはてなブログ:izumino’s note

『マリア様がみてる』第10話「いばらの森」

 相変わらずの「部分部分の工夫や役者の芝居は楽しめるが、テレビアニメとして観ると……」な回で、特別感想書く気になりませんね。気に入ったシーンだけを誉め、部分的な欠点だけを指摘する、っていう感想を書いても面白くないので。
 こういうスタッフの構成力からすると、次回の白き花びらは結構不安。
 過去の映像は、色彩をモノトーンとかに落として、通常回(現在)の映像と差別化する……といった気配りを期待していたんですがそういうこともやらない模様。どうもここの演出家は、「飛び道具的な演出」を嫌忌する傾向があるような気がします。

佐藤友哉の<色シリーズ>に関して

 ここ(id:izumino:20040309#p1)に書いた、<色シリーズ>の文中置換の話なんですが他の人的にはどーなんでしょうね。世のユヤタンファンはちゃんとこういう読み解きをしているのでしょうか。
 個人的にあの「僕」は、「感動的な小説を読み終わって救われた気分になったり強くなった気がしたけどふと我に帰ってみると現実の自分は何も変化してないのだということに気付いた読者」の姿なのだと思うのですが。感動的な小説っていうのが「祖父」のことで、直截的にはサリンジャー中上健次の小説の置き換えであると言ってもいいでしょう。「僕」が「覇王の直系」って呼ばれるのは、小説を読む時に主人公(=物語のテーマ)を理解できる唯一者が「読者」だから。「肉のカタマリ」は「非・読者」であり「俺の好きな小説の素晴らしさに理解も感動もできないやつら」っていう見下し感覚の具象化でしょう。


 このような<色シリーズ>のテーマは鏡家サーガや「世界の終わり」シリーズにもリンクしていて、例えばどちらのシリーズでも「僕(公彦と佐藤友哉)」は「妹」を失っている。この「妹の喪失」は「小説の喪失」でもあって──詳しく書くと『ライ麦畑でつかまえて』のネタバレになってしまうので割愛──「妹を失った人間は決して救われないのだ」、という逆説を証明しているように見えます。
 仮にホールデン(主人公)がフィービー(妹)と出逢わなければ、ホールデンは救われなかったでしょう。「僕」はホールデンを理解し感情移入のできる「主人公の読者」=「覇王の直系」。でも「僕」に「妹」は居ない。つまり救われる筈がない(もしそれで救われるというのなら、サリンジャーが用意した救済は間違っていたという結論になってしまう、倒錯的な読み方)。
 だから鏡家サーガは、救いの無い結末を何度でも繰り返します。それはある意味で、サリンジャーに対する最上級のリスペクトではないか。
 <色シリーズ>においては、「小説」=「祖父」を絶対視すればするほど読了後(祖父が死んだ後)の「僕」は救われない、ということです。


 もちろんこういうジレンマにも抜け道はあるわけですが(でなきゃ読書家全員が鬱になってしまう)、「赤色のモスコミュール」と「黒色のポカリスエット」は抜け出せない人間を描いているのだな、と。どういう結末を迎えるのか、期待しています。

  • こういう読み方には

 私小説日記(id:inovel)の方のこちらから着想を得てる所もありまして、双方思う所が近いのかなと感じなくもなくて、できたらでいいんですが感想を聞いてみたい、と思うのですがえーと、簡単でも結構ですので、もし宜しければ。

『次元往復』のエッセイへのレスポンス

 漫画家の砂(id:sandworks)さんから、以前書いた『次元往復』の感想にコメントを返していただけました。うわー、ありがとうございます。

うーん、ここはちょっと期待とは違う読みをされたようです。(中略)もちろん、永山さん(永山薫)のような希有な例もあるけれど、どうもそれは期待できるほど多くはなさそう。多かったらよかったんだけどね……。まあ、だから「いま一息よ」なわけです。

 なるほど、ぼくなんかは永山氏を見習おうぜ、とまずそこに行っちゃうわけなんですが。今それだけだと難しくて、別の「あと一押し」があるということですね。


 ユングに関して。ぼくは(心理学や思想というより)神秘学のひとつとして捉えているので、あまり理論的な説得力は期待していなかったりします。ただ、理論で語りがたい事柄(萌えなんてまさにそうでしょう)に対しては、時々オカルティックなアプローチで補強してもいいんじゃないかな、と思っています(人がやってないことをやりたいだけだったりしますが)。
 プリキュア自体には、それほどラディカルな発見は含まれていないような気も。ただ、子供に届くような表現で描かれている、という点では注目していい番組だと思います。件の美術館の回も、「女の子が女の子に憧れること」を肯定的に描いた話ですし。
 マリみてが「大奥モノ→女子寮モノ→スール制度」というラインで「女性に囲まれた別世界での、上下関係を軸にした女性関係」を描いているとすれば、プリキュアは「海外のルームメイトもの→NANA→似てない女の子同士の友情」というラインで「現代社会での、対等的な(非・上下関係的な)女性関係」を追求していると説明できなくもないかな……? とか。まだ予想の段階ですが。
 プリキュアよりですね、(しつこくプッシュしていてアレなんですが)まだ未読でしたら、つだみきよの『プリンセス・プリンセス』をお奨めしたいです。あれはまさに「女になること」「見る/見られる存在になること」を女性側の視点から描いた(作者はそのことを全然意識していなくて、かなり偶然の産物のようですが)作品だと評価していますので。