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佐藤友哉の<色シリーズ>に関して

 ここ(id:izumino:20040309#p1)に書いた、<色シリーズ>の文中置換の話なんですが他の人的にはどーなんでしょうね。世のユヤタンファンはちゃんとこういう読み解きをしているのでしょうか。
 個人的にあの「僕」は、「感動的な小説を読み終わって救われた気分になったり強くなった気がしたけどふと我に帰ってみると現実の自分は何も変化してないのだということに気付いた読者」の姿なのだと思うのですが。感動的な小説っていうのが「祖父」のことで、直截的にはサリンジャー中上健次の小説の置き換えであると言ってもいいでしょう。「僕」が「覇王の直系」って呼ばれるのは、小説を読む時に主人公(=物語のテーマ)を理解できる唯一者が「読者」だから。「肉のカタマリ」は「非・読者」であり「俺の好きな小説の素晴らしさに理解も感動もできないやつら」っていう見下し感覚の具象化でしょう。


 このような<色シリーズ>のテーマは鏡家サーガや「世界の終わり」シリーズにもリンクしていて、例えばどちらのシリーズでも「僕(公彦と佐藤友哉)」は「妹」を失っている。この「妹の喪失」は「小説の喪失」でもあって──詳しく書くと『ライ麦畑でつかまえて』のネタバレになってしまうので割愛──「妹を失った人間は決して救われないのだ」、という逆説を証明しているように見えます。
 仮にホールデン(主人公)がフィービー(妹)と出逢わなければ、ホールデンは救われなかったでしょう。「僕」はホールデンを理解し感情移入のできる「主人公の読者」=「覇王の直系」。でも「僕」に「妹」は居ない。つまり救われる筈がない(もしそれで救われるというのなら、サリンジャーが用意した救済は間違っていたという結論になってしまう、倒錯的な読み方)。
 だから鏡家サーガは、救いの無い結末を何度でも繰り返します。それはある意味で、サリンジャーに対する最上級のリスペクトではないか。
 <色シリーズ>においては、「小説」=「祖父」を絶対視すればするほど読了後(祖父が死んだ後)の「僕」は救われない、ということです。


 もちろんこういうジレンマにも抜け道はあるわけですが(でなきゃ読書家全員が鬱になってしまう)、「赤色のモスコミュール」と「黒色のポカリスエット」は抜け出せない人間を描いているのだな、と。どういう結末を迎えるのか、期待しています。

  • こういう読み方には

 私小説日記(id:inovel)の方のこちらから着想を得てる所もありまして、双方思う所が近いのかなと感じなくもなくて、できたらでいいんですが感想を聞いてみたい、と思うのですがえーと、簡単でも結構ですので、もし宜しければ。